「ほっ」と。キャンペーン

大杉栄

「春三月縊り残され花に舞う」

1911年3月24日 同志茶話会が開かる。神楽坂倶楽部。

 大杉栄、出席 「春三月縊り残され花に舞う」 の句を読む

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アルス版『大杉栄全集』より。 下部の文字が切れているのは全集に収載時の製版のずれであろうか?

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近藤憲二による「編集後記」。写真解説の部分。

以下は全集各巻のグラビアより。
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# by tosukina | 2012-03-24 11:14

1916年11月3日に向けた大杉栄の悪戯

「大杉栄の経歴及び言動調査」より

近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞する所あらんと発意し

10月28日
同志吉川守国、渡辺政太郎、村木源次郎、荒川義英等と大杉栄の宿所に会し立太礼当日同志八、九名連合して行啓御道筋に出かけ警護線を騒擾せしむるか若は同志随所に所在を晦まし又は恰も事ありけに同志間を往来して警察を狼狽せしむるの行動に出らんと談合し越えて

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11月1、2日両日に渉り
 村木源次郎に旨を含めて同志有吉三吉、五十里幸太郎、吉川守国、荒川義英、渡辺政太郎等の間を往来し連絡を計らしめ2日夜大杉栄方に吉川守国、有吉三吉、荒川義英、村木源次郎、鮎沢貫一(長野県在住)辻ノエの八名会同しそれより打連れて
 日本橋区南伝馬町2の12料理店鴻ノ巣に入り(鮎沢は途中にて一同と別る)協議を重ね其の結果自動車に分乗して所在を晦韜し

翌早朝(立太子礼当日)
相州三崎方面に旅行せんと計画せしも自動車の雇入意の如くならさりし為果さす依って散会し帰宅の途中各自尾行巡査を瞞き所在を晦まさしことを申合せ夫々帰途に就きたり更に大杉は

翌3日午後6時頃外出
神田区佐柄木町の一料理亭に到り同所に待合せ居たる知己6,7名と会飲し打連れて外出間も無く一同と別れ

 折柄後方より疾走し来れる自動車に合図し之に飛乗り何処かへか行方を晦ましたるも間もなく情婦神近イチ(主義者)方に宿泊せるを発見せり斯く大杉を中心とせる一部主義者は種々の計画を為したるも其の目的を達するに至らすして止みたり
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# by tosukina | 2011-11-03 01:48

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日

ウェブサイトより再アップ大杉栄『自叙伝』執筆状況とクロニクル


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土曜社版

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『改造』誌 自叙伝連載第一回掲載写真

参考

『新小説』掲載テキスト、翻訳、「獄中記」 他にもあると思いますが未確認

1915年 20年-9号 動物界の相互扶助 

1916年 21年-1号 男女関係の進化 

1917年 22年-6号 大杉栄 テキスト名不明 

1919年 24年-1号 獄中記 

1919年 24年-4号 続・獄中記 

1919年 24年-9号 拘禁される日の前後 伊藤野枝 

1920年 25年-9号 新獄中記

『自叙伝』関連

★1921 7月13日『自叙伝』のため新発田を訪れる 

1921 10月 『改造』10月号「自叙伝」第一回掲載「赤旗事件…」とテキストは始まる

1921 12月26日 『労働運動』1号 本郷駒込 片町15労運社、印刷人、逗子、近藤<大杉の住所><二度目の復活に際して>伊藤、近藤、和田、大杉<転居>逗子町966大杉栄

2月5日 大杉栄、八幡で演説、八幡罷工紀念演説会 

3月15日 『労働運動』第3号<先づ彼等を叩き倒せ> 大杉栄 <道徳の創造> 大杉栄 <永久の闘い> 大杉栄<ロシアにおける無政府主義者下> 大杉栄 <久板君の追悼> 

19224月15日『労働運動』4号<革命の研究1> クロポトキン 大杉栄訳 <被告学秘訣> 大杉栄 <ソビエト政府無政府主義者を銃殺す> 大杉栄 <エマとベルクマン 1922.1.7>大杉栄訳 

<革命の研究2> <どっちが本当か> 大杉栄 1922 6月7日 四女ルイズが生れる

19228月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄 

1922 9月10日 『労働運動』7号<革命の研究4>大杉栄 <編集室から> 村木の夏のお日様かんかん…栄 <生死生に答える>大杉栄 <トロツキーの協同戦線論>大杉栄 <労農ロシアの最近労働事情>大杉栄 <利口と馬鹿> 大杉栄 『黒濤』発刊

1922 9月30日 全国労働組合総連合会 午後8時30分解散を命ぜられ不穏の挙…検束

10月1日 『労働運動』8号<革命の研究5>大杉栄 <編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十日 栄」 <独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 <労農ロシヤの承認> 大杉栄 <労農ロシアの労働組合破壊> 大杉栄

1922 10月8日 大杉、伊藤、本郷区駒込片町15 労働運動社に移転

★1922 10月17日「風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、…」

★1922 10月21日 「…こっちはまたその前夜一晩徹夜して<自叙伝>を30枚ばかり書いたので、風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ、魔子と一緒に鵠沼へ行った。<自叙伝>は一日遅れて11月号には載らない。もう少し書き足して、12月号に載せることにして、その前借りをした。……」

1922 10月24日 伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって<革命の研究>と<ボルの暴政>を書いたんで、きょうはうんざりしてしまった。……」

192210月24日 伊藤野枝宛「今、手紙を出したばかりのところへ、……きのう源兄に叢文閣から出す論集(『無政府主義者の見たロシア革命』のきり抜きをやらした。また正月号の分まで入れるのだから、もっと大きくなるには違いないが、今のところでもちょっと三百枚ほどありそうだ。……)」

1922 10月27日 伊藤野枝宛「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……」

★1922 10月31日 伊藤野枝宛「帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ。アルスからも叢書(アルス科学知識叢書)や『種の起源』を本年中に出したいと急いで来る。大英断をやって、この二週間ばかりの間に大仕事をしようと思ってきょうここ(鵠沼海岸の東屋)へやって来た。仕事の予定は、<自叙伝>12月号の後半と1月号。<論文>12月号(11月号には総連合についての、友愛会やボルのコンタンを書いたが、こんどはその理論の方をやる)<論文>1月号(マルクスとバクーニンの喧嘩)<無政府主義者の見たロシア革命>(まとめるのと翻訳のまだ済んでいないのとをやりあげる)<種の起源><科学知識叢書(二冊)半分やって印刷所へ廻す。……30日……きょうは一日外出して、今はこの手紙書き、朝飯がすんだら鎌倉行き」

11月1日 『労働運動』9号 印刷人近藤、労運社住所<革命の研究6>大杉栄 <編集室から>大杉栄「逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、編集室になっていたんだが、こんどは編集室を下へ移して、六畳の方は近藤の室となった 下は、八畳は編集兼事務室となってそこへ村木と中名生とが机を並べている。六畳は玄関兼食堂だ。そして台所の奥の三畳は、物置兼村木ご隠居のひる寝部屋だ」<組合帝国主義> 大杉<ボルシエヴイキの暴政(三)>エマ 大杉訳<労農ロシアの新労働運動> 大杉

★1922 11月3日 伊藤野枝宛「……夕方、改造社から原稿取りの使いが来たが、それを待たしておいて今書いている最中だ。……<自叙伝>の方はさっきいい加減にすまして、今論文を書きかけているところだ。今晩はどうしても徹夜だろう。あしたは朝の間寝て、その間に魔子も迎いにやって、ちょっと東京へ帰る。いろいろ用もあるし、……」

★1922 11月5日 伊藤野枝宛「……『改造』の原稿は思ったより大ぶ枚数が減ったので、前借を引かれて70円ばかりしか貰えなかった。『労運』と『改造』と送った。『改造』の12月号は14,5日頃に出るそうだから、こんどはすぐ送る。……あしたからまた一週間ばかり鵠沼だ」

★1922 11月8日 伊藤野枝宛「おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。…きのうの半日ときょうの半日とで、<自叙伝>の今まで書いた分を直してしまった。書くときにはずいぶん一生懸命になって書いたんだが、今見るとあちこちいやになって仕方がない。が、直すのも大変だし、大がいはそのままにしておいた。すぐ改造社へ送って、組みはじめさせる………」

1922 11月10日 伊藤野枝宛「きょうは一日あなたの原稿の直しをやった。ずいぶん少ししきゃ、やっていないんだね。普通のお話のところはまあいいが、少し込み入って来るとまるで駄目だね。<ボルの暴政>もやはりそうだったが。こんなことじゃ理屈物はとても読めないよ。少しみっしり勉強してくれ。ダーウィンはやり始めているかい。『無政府主義者の見たロシア革命』の原稿の整理も済んだ。きのう叢文閣へ電話したら、先生はまだ寝ているそうだが、大喜びでいた。『昆虫記』も大へん景気がいいそうだ。再版の用意に誤植の直しをしておいてくれと言っていた。…」

★1922 11月16日 伊藤野枝宛「…叢文閣の『ロシア革命』のまだ足りない部分をきょうやっと書き上げた。……菊半栽で、三百頁をほんの少しこすだろうが、紙表紙で一円五十銭ぐらいにする予定だ。あしたからは『自叙伝』の書き足しだ。全体で七百枚くらいになるだろうが、もう三百枚ばか書かなければならない。が、その半分は『獄中記』や<死灰の中から>の書き抜きだ。12月号の『改造』には、また例の礼ちゃんとのあまいところをうんと書いたから、お千代さんのようにどうぞ怒らずに読んでおくれ。村木がゆうべ帰って来て、…」

1922 11月20日 フランスのコロメルからベルリンで開催予定の国際アナキスト大会招待状が届く

1922 12月11日 自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる 

1922 12月12日 朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す

1922 12月14日 イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

1922 12月 上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く 

1923 1月1日 『労働運動』10号 <理想主義的現実主義> 大杉栄 <根岸正吉君の死> <ボルシエイキの暴政> エマ 大杉栄訳  <労働反対運動の現在及将来> 大杉栄 <新鋭の朝鮮労働運動> <再生した共済会> 京城無名漢 <黒友会の成立 日本における鮮人労働運動> 黒友会 申煖波

1923 1月5日 大杉栄、ル・ボン号で上海を出る 

★1923 伊藤野枝宛「今晩コロンボに着く。出すつもりでこの手紙を書く……『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……『自叙伝』は手もつけてない。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」

2月10日 『労働運動』11号 <マルクスとバクニン> 大杉栄 <ボルシエイキの暴政五> 大杉栄 

★19233月1日 伊藤野枝宛「3月1日正午、と言っても、東京では午後10時25分だ。パリにて。…翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。…その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも10人ばかりいたが、ここにも20人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。しかしもうほぼまとまった。この支那人連の大会をやることにまでこぎつけた。…船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。」

1923 3月10日 『労働運動』12号 <マルクスとバクニン下> 大杉栄 

★19233月28日 伊藤野枝宛「僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。風で寝た二日目か三日目かに『労運』への第一回通信を書き出した。そして30枚近く書いてて熱でほとんど倒れるようにして寝てしまった。『改造』への通信もまだ未定のまま放ってある。これもこんどこそは本当に書き上げる。原稿は××に宛てよう。しかし、とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。材料だけ集めればたくさんだ。1年の予定はたぶんもっとよほど縮まるだろう。2月号の『労運』見た。3月28日」

★19233月31日 伊藤野枝宛「……風も腹ももうすっかり治った。……原稿もきょうようやくあとを書き続けたところだ。……あとは、ドイツへ行くヴィザの問題だが、これは大ぶ難問題らしい。……警察の方の話がついたらまたパリ行きだ。それからあとはどこへどうふっ飛ぶことやら。……きょうはもう原稿もよしだ。これからリヨンの町へでも遊びに行こう。ここは郊外だ。……3月31日」1923 4月1日 『労働運動』13号 

★1923 4月5日 「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿              

1923 4月29日 大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う   

★1923 4月30日 「パリの便所」『日本脱出記』脱稿

1923 5月1日 サン・ドニのメエ・デエ 大杉演説                                    

19235月25日 林倭衛宛「きのうの朝放免と同時に警視庁へ連れて行かれて、すぐ国境まで出ろという命令を受けた。……友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。ルクリュ『地人論』)というのの古本を買って来てくれ。二百フランばかりだ。それから裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。…僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。…二十五日正午。栄 」

1923 6月3日 大杉の船、「朝早く、碇をあげた」       

★19236月7日宛 林倭衛宛「……地中海は実に平穏だ。……あしたの朝は早くポートサイドに着く。……『自叙伝』の装ていを忘れるなよ」       

7月1日 『労働運動』15号 <編集室から> 近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」<国際無政府主義大会の延期 捕われる以前> 在仏 大杉栄「ここに来て、もう10日ちかくなる。3月1日パリにて、大会は又日延べになって……2月号『労運』見た。3月28日フランス発」

★1923 7月11日 箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿

7月11日 「神戸港港外和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」         

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1923 7月12日 大杉、東京に戻り駒込片町15労運社に落ち着く                                    

1923 8月9日 長男ネストル誕生  

★1923 8月10日 「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿 


大杉 栄 を中心としたクロニクル

確認データ元、項目末尾の記号、『未完大杉栄遺稿』はI  『初期社会主義研究』大杉栄特集・大澤年譜はO  『 評伝大杉栄』秋山清はA 『大杉栄書簡集』はL

1885 1月17日 丸亀で生れる。一家はすぐに東京に移り麹町区の幼稚園に通うが、父は近衛連隊から左遷され新発田に赴任。大杉は幼少年期のほとんどを新発田で過ごす。

1889 末 父親が新発田に転任 I

1891 小学校に入学 I

1897 中学校に入学 I

1898 陸軍幼年学校の試験に落ちる、独り旅で東京、名古屋、大阪を知る I 

1899 名古屋地方幼年学校に14歳で入学。

1901 秋、大阪にて二週間遊ぶ。11月末、退学処分となる。I

1902 1月2日 新発田の家を出て、語学を学ぶため東京へ向かう。牛込矢来町、下宿。猿楽町の東京学院に通う。

1902 4月 四谷箪笥町仏蘭西語学校

1902 5月頃 下宿で谷中村の鉱毒事件への追及運動に触れる

1902 6月 母親が死去

1902 10月 順天中学の五年に入る、本郷壱岐坂下に下宿

「万朝報」を購読し軍隊外の社会を知る。

1903 3月頃 本郷教会に通う、海老名弾正の説教を聴くJ O

1903 9月 外国語学校に入学 O

1903 10月 洗礼を受ける、教会員となる O

1903 11月15日『平民新聞』創刊、大杉、幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に共鳴。彼らによる平民社の結成を知り、講演会を聞く

1904 3月 「社会主義研究会」に出席。その後、頻繁に平民社に出入りするようになる。『平民新聞』の海外事情欄に運動事情を訳載 I 3月13日 O

1904 3月頃 この頃、月島の下宿に移る

1904 7月19日 名古屋の社会主義者茶話会に出席。1904.7.31発行『平民新聞』38号に記事掲載

1905 7月 外国語学校卒業 Iの記述は翌年

1905 8月 『直言』に欧州社会党指導者の反戦論稿を翻訳掲載「社会主義と愛国心」 O

1905 10月 平民社解散

1905 『光』の発刊を手伝う

1906 2月24日 日本社会党、会場平民病院において結成。大杉は加盟していない。(電車事件判決理由)、不明 A。参加 O。

1906 3月5日 麹町区元園町2の5 由文社同居 C

1906 3月15日 電車値上反対の市民大会に参加、其の夜か翌朝に兇徒聚集罪により逮捕

1906 3月22日 東京監獄に移される A・L

1906 5月頃 U.S.A.の幸徳より『バクーニン全集』が送られる A・L

1906 6月21日 保釈で出る I

1906 7月9日電車事件、東京地裁無罪判決

1906 9月 堀保子と結婚、牛込田町で同棲 I

1906 11月『家庭雑誌』編集・経営、淀橋町柏木に移る A

1906 11月『光』掲載「新兵諸君に与ふ」(訳載)で新聞紙条例違反で起訴

1906 12月16日 エスペラント学校の卒業式で訓辞

1906 12月『光』廃刊

1907 1月 日刊『平民新聞』創刊

1907 2月 日刊『平民新聞』に「欧州社会党運動の大勢」を執筆、無政府主義者の名乗り I

1907 2月 この頃、豊多摩郡淀橋町柏木に移る O

1907 3月 日刊『平民新聞』クロポトキン「青年に訴う」翻訳

1907 4月14日 日刊『平民新聞』発禁

1907 この頃、亜州和親会で演説したという O

1907 5月28日 「青年に訴う」、最後の一章のために起訴、禁錮三月、巣鴨監獄に入る I

1907 5月31日 新聞紙条例違反に依り大審院に於いて軽禁錮四月罰金五十円に処せられる、入獄中のため引続き服役

1907 巣鴨監獄にて「…本を読む。バクニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナアキストでも、まず巻頭には天文を述べてある。…」J

1907 11月11日 巣鴨監獄から出獄、直後劉師培、張継らの「社会主義講習会」に招かれる、牛込区赤城元町清風亭 O

1907 11月25日 電車事件東京控訴院<無罪判決>

1908 1月3日 淀橋町柏木318番地に移る

1908 1月17日 治安警察法違反、屋上演説事件で巣鴨にまた入れられる。禁錮一月半。本郷弓町の平民書房の屋根から「屋上演説」。「冨の鎖」を合唱 I

1908 1月20日 東京監獄に入る

1908 1月22日 巣鴨監獄に移る

1908 2月7日電車事件、大審院判決は原審破棄、宮城控訴院に移す

1908 2月10日 治安警察法違反に依り軽禁錮一月十五日に処せられる

1908 3月26日 出獄

1908 4月3日 栃木佐野町大雲寺での両毛同志会に参加、講演

1908 4月6日 麹町区飯田町、劉師培宅での日本滞在中国人のエスペラント講習会の講師

1908 6月13日 電車事件、兇徒聚集罪に依り宮城控訴院に於いて重禁錮一年六月に処せられる

1908 6月16日電車事件、罰金の2名を除き上告

1908 6月19日 前日出獄した山口孤剣を上野停車場で出迎え、赤旗四本をなびかせる。荒畑寒村が交番に引きずり込まれるも大杉ら同志が押しかけ奪還。

1908 6月22日 赤旗事件[山口出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘、14人の逮捕]、で未決監

1908 7月14日 電車事件、大審院上告棄却

1908 8月15日 赤旗事件第一回公判、第一の旗手大杉君は左の如く答弁せり。「同志は会場に居たりし間、無政府党万歳を叫び、革命の歌を唱えしも、場外に出づる時は最も静粛なりしに拘らず、門を出るや忽ち一名の巡査飛び来りて『旗を巻け』と言い様、赤旗に手に掛けて奪わんとせり。されど余は何等の命令も受けし事なし」「前述の如く旗を持て場外に出るや、門外に待伏せ居たる警官は『旗を巻け』と叫びて、強て是を奪わんとす、余は『理由なくして所有権を取んとするものは、強盗なり』と叫びて争えり、此時続々と同志の退場し来るを見し警官は更に他の旗に飛び行きて是を奪わんとしつつありたり。…」『熊本評論』29号 1908.8.20

1908 8月22日 赤旗事件第二回公判

1908 8月29日 赤旗事件判決、治安警察法違反及官吏抗拒罪に依り重禁錮二年六月罰金二十五円に処せられる(前刑通算)

「次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべたる裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!』と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。…』傍聴席には60余名の同志が列席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。大杉君は、かか大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。」『熊本評論』31号1908.9.20

1908 9月9日 千葉監獄に移される O

1908 12月19日 堀保子宛手紙「生物学と人類学と社会学との大体を研究して…」

1909 11月2日 父親死去

1909 12月23日 堀保子宛「左の本持参を乞う。仏文。経済学序論。宗教と哲学。英文、。イリー著、経済学概論。モルガン著、古代史。個人の進歩と社会の進歩。ロシア史」

1910 1月25日 堀保子宛「ドイツ文の本を何か頼む。…」

1910 2月24日 堀保子宛「フランスへ本を注文したいと言ったのは、…」

1910 6月16日 堀保子宛「今見たい本は『帝国文学』の発行所から出るもので物集博士の日本文明史略…」

1910 9月2日 千葉刑から東京監獄に移され、幸徳秋水たちの大逆事件に関連した取調べを受けるが弾圧は免れる。C・A

1910 9月16日 堀保子宛「英文。ダーウィン航海記。ディーツゲンの哲学。ショーのイプセン主義神髄。クロのロシア文学。モルガンの古代社会。…」

1910 9月22日 大逆事件の取調べ 東京監獄に移送→O 

1910 この間 「僕は大逆事件の被告たちのほとんどみんなを見た。…ある日幸徳の通るのを見た」

1910 11月29日 大杉栄満期出獄、大久保村百人町212

1912 1月18日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 2月25日 同志茶話会、堺方、「安倍磯雄の総同盟罷工論への批評」[調査書]

1912 3月23日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 3月29日 鎌倉より府下へ転住。(柏木)

1912 4月28日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 5月26日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 6月28日 神田美土代町青年会館「ルソー」200年記念会(堺、高島主催)に出席

1912 6月30日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 7月   大杉栄、荒畑寒村、新雑誌の発行を計画

1912 7月28日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 8月9日 同志樋口伝方における山口義三送別会に出席

1912 8月28日 千葉監獄より出獄の片山潜出迎え、両国停車場

1912 9月16日 大杉栄 <発刊事情>記す『近代思想』10月号
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# by tosukina | 2011-09-29 07:00

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の二

1912 10月1日 『近代思想』刊行、調査書「幸徳伝次郎発行『自由思想』の購読者名簿に拠り各地方の同志に対し葉書を発送して該雑誌の購読を勧誘」  1912 10月 『近代思想』10月号掲載 大杉栄テキスト<本能と創造>評論<発刊事情><9月の評論>

1912 10月1日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 10月20日 大杉栄 <大久保より>「大赦令が出た」「寒村、社の裏隣に引越してきた」『近代思想』11月号

1912 10月24日 大杉栄 <大久保より>「寒村の病気がよくなった」『近代思想』11月号

1912 10月 大杉栄 <六合雑誌から>『近代思想』11月号

1912 11月 『近代思想』11月号掲載、大杉栄テキスト<ナイヒリストの死>小話<近代科学の傾向>評論<大久保より>雑録<六合雑誌から>

1912 11月2日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 11月 大杉栄 <座談>「パリの雑誌『門外漢』、『白樺が好きだ』、『太陽』内田魯庵」『近代思想』12月号

1912 11月19日 大杉栄 <大久保より>「先月の末に寒村と横浜へ、そして偶然浜辺を散歩してるベルギーの紳士と支那の淑女とに出会った。二人ともソシアストだ。紳士はセンデカズムの事などを話す、淑女は張継の消息などを聞かす……」『近代思想』12月号(調査書記載無し)

1912 11月20日 大杉栄 <大久保より>「今日はミカドのお帰り遊ばす日、半日検束」『近代思想』12月号

1912 12月 『近代思想』12月号掲載、大杉栄テキスト<法津と道徳>感想<唯一者>評論<座談>感想<大久保より>雑録

1912 12月10日 大杉栄 <大久保より>「あちこちのオヂさん達から手紙が来る。若宮卯之助、山田嘉吉、内田魯庵……吉川と寒村と三人連れで浅草の印刷所からアンダー・ゼ・タワーの見物に出掛けた、寒村が先導になって吉原に繰り込んだ……そのかわりに帰りによか樓をおごらした。……野依の入獄……」『近代思想』1月号

1913 1月 『近代思想』1月号掲載、大杉栄テキスト<近代仏文学の一面観>評論<思索人>感想<大久保より>雑録

1913 1月4日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 1月12日 在横浜同志 金子新太郎等の開催新年会

1913 1月25日 堺方茶話会

1913 1月 大杉栄 <大久保より>「鴻の巣、高等視察が話の模様を尋ねた上に主人の身の上まで詳細に調べて行った」(寒村の大久保よりは第1回小集の報告)『近代思想』2月号

1913 2月 『近代思想』2月号掲載、大杉栄テキスト<道徳の創造>感想<奴隷根性論>評論<石川三四郎に送る><共和祭>小説

1913 2月2日 大杉栄、秋田監獄、坂本清馬に面会

1913 2月27日 堺方最後の茶話会、大杉参加

1913 2月 大杉栄 <青鞜社講演会>『近代思想』3月号(調査書記載無し)

1913 2月 大杉栄 <大久保より>「1月26日、日曜日を期して、同行10人ばかりで郊外散歩に出掛けた。……古河力作の墓……管野須賀の墓……染井の墓地に新村忠雄と奥宮健之の墓…(調査書記載無し)…2月2日、秋田行、坂本清馬……同行崎久保静江……2月9日、近代思想第2回小集」『近代思想』3月号

1913 3月 『近代思想』3月号掲載、大杉栄テキスト<羞恥と貞操>評論<青鞜社講演会>批評<怪物>小説<2月の小説>批評<大久保より>雑録

1913 3月22日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 3月23日 堺と共に横浜滞在ベルギー副領事、ゴールベールト訪問

1913 3月28日 大杉栄 <編集室より>『近代思想』4月号

1913 4月 『近代思想』4月号掲載、大杉栄テキスト<社会か監獄か>詩<創造的進化>評論<腹がへったあ!>対話<超人の恋>評論<編集室より>雑録

1913 4月16日 日比谷公園内霞亭、同志集会 日比谷公園機械体操場の茶屋、堺利彦、野澤重吉の発起 平民会 集まる者40余名

1913 4月22日 大杉栄 <大久保より>「同人講演会、青年会館から会場貸与を断って来た………一士官学校生徒があった……その軍人が二三日前に、危険思想を持っていると云う理由で、もう来月卒業と云う処を、退校を命ぜられて了った。死んだ横田兵馬も幼年学校を卒業する間際に、矢張り危険思想のかどで退校させられたのだったが、その後アナーキストになった。……19日の夜、近代思想社第4回小集を、例の鴻の巣に開く。12名参加……16日午後、日比谷公園機械体操場の茶屋で、堺利彦、野澤重吉の発起で平民会と云うものが催された。集まる者40余名……5銭の会費でみかんとせんべいとすしを食って、斎藤兼次郎の尺八、添田平吉のよみ讃り歌、蓄音機と云うような余興で、半日遊び暮らした」『近代思想』5月号

1913 5月 『近代思想』5月号掲載、大杉栄テキスト<何が新しいんだ>批評<大久保より>雑録

1913 5月 大杉栄 <大久保より>「前号に書いた、士官学校を退校させられた人から、手紙が来た………」『近代思想』6月号

1913 6月 『近代思想』6月号掲載、大杉栄テキスト<征服の事実>評論<チョット面白い>批評<「女学生」>批評

1913 6月 大杉栄 <大久保より>「5月は社の都合で小集を休んだ。そのかわり本月は、人数もいつもよりは多く、随分にぎやかな会だった。……実はこの会の記事をどう書こうかと困っていたのだが、幸いにも暮村居士から前期の記事を送って来てくれた。……集まる者……久板卯之助…16名」『近代思想』7月号

1913 6月7日 横浜、サンフランシスコ行きの山形県人登坂高三を見送る

1913 6月7日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 6月29日 同志茶話会、藤田四郎方、

1913 7月 『近代思想』7月号掲載、大杉栄テキスト<新しい女>感想<生の拡充>評論<中村星湖君に答ふ>批評<大久保より>雑録

1913 7月6日 シンヂカリズム研究会(藤田四郎方)を開き、出席者15名、大杉は「シンヂカリズム」を実行し来れる歴史及方……一時間に渉り説明

1913 7月22日 大杉栄 <大久保より>「鴻の巣が麹町の隼町にひっこしした。12日に、そこで、第6回小集を開いた。集まるもの、お客の長谷川天渓氏の外に同人15名。荒畑と僕と発起して、本月の始めからセンヂカズムの研究会を始めた。もう2回会合をしたが、毎月二回づつ、二人で講演をやる筈だ。」『近代思想』8月号

1913 8月 『近代思想』8月号掲載、大杉栄テキスト<むだ花>感想<大久保より>雑録<新刊>批評

1913 8月3日 大久保百人町、大杉方、大杉「今後シンヂカリズム研究会を自宅において開催」、平塚明子、木村駒子、宮崎光子等とも協定

1913 8月中 大杉栄、上海の状況を聴く[調査書]

1913 8月17日 大杉宅 シンヂカリズム研究会 安成二郎と問答、総同盟罷工、佛国に於ける無政府主義者は……

1913 8月   大杉栄 <大久保より>「生方敏郎を訪ねる、小川未明、相馬御風を訪ねる。センヂカズム研究会は、神田のあるミルクホールの二階を借りてやっていたのだが、……そこの主人を呼びつけて……お前は今から検束して了う、……寒村が本号に訳す筈であった『婦人解放の悲劇』は、青鞜社の方でも9月号に出すそうだからお譲りする事にした」『近代思想』9月号

1913 9月 『近代思想』9月号掲載、大杉栄テキスト<野獣>感想<鎖工場>評論<みんなが腹がへる>感想<イグノラント>批評<大久保より>雑録

1913 9月7日 シンヂカリズム研究会同志16名参会、ベルギー滞在中の同志石川三四郎の「サンジカズムの激進」(萬朝報掲載)に対し評論

1913 9月20日 藤田四郎方、同志茶話会

1913 9月    大杉栄、発病 

1913 9月    大杉栄 <大久保より>「本月は芸術座講演会を利用して、13日の夕方、更に安成二郎を援兵に乞ひ、……青年会館の門前で400部あまり、配り散らした……」『近代思想』10月号

1913 10月 『近代思想』10月号掲載、大杉栄テキスト<生の道徳>評論<大久保より>雑録

1913 10月5日 大杉宅 シンヂカリズム研究会 会する者総て13名、大杉は講話「資本家と労働者」 

1913 10月19日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉は出席という記述のみ

1913 10月22日 大杉栄<大久保より>「丁度桂の死んだ11日の夜、京橋元数寄屋町の富嘉川で久しぶりで社同人の小集を催した。……集まるもの15名……」『近代思想』11月号(調査書記載無し)

1913 11月 『近代思想』11月号掲載、大杉栄テキスト<大久保より>雑録

1913 11月2日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、シンジカリズムを論議したる書籍…  1913 11月16日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、萬朝報の華山の論への批評

1913 11月28日 寒村 <大久保より>「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……盛岡は出獄して間も無く、発狂して自殺し、山本は早稲田大学を出ると、ぢきに今度の最後を遂げて了った。……」『近代思想』12月号(調査書記載無し)

• 12月 『近代思想』12月号掲載、大杉栄テキスト<必然から自由へ>評論

• 12月22日 大杉栄<大久保より>「……医者の厳

命によって、まだ床に就いている。……師復という人から、エスペラント文の手紙が来た。…」『近代思想』1月号

1914 1月 『近代思想』1月号掲載、大杉栄テキスト<生の創造>評論<時が来たのだ>批評<大久保より>雑録

1914 1月18日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 雑談、荒畑「自分の論文に堺が批判した事」、大杉、堺批判を為す

1914 1月23日 大杉栄 <大久保より>「この8日にまる二月目に床を離れて、4,5日間葉山に遊びくらした。そしてまだ多少鋸っていた病勢を全く振い落して帰って来た。……とうとう本月も行数の計算をするだけで済まして了った。……で、近日僕の一家は、当分何処かの海岸へ転地する積りだ。……暮れと正月二回休んだセンヂカリズム研究会は、この第三日曜の18日から始まった。次回即ち2月1日から数回に亘って、寒村はサボタージュ論を、僕は直接行動論をやる。……」『近代思想』2月号

1914 2月 『近代思想』2月号掲載、大杉栄テキスト<再び相馬君に与ふ>評論<大久保より>雑録

1914 2月1日 大杉方 シンヂカリズム研究会 出席者、斎藤兼次郎、福田武三郎、有吉三吉、相坂佶、橋浦時雄、百瀬晋、堀ヤス、荒畑勝三、竹内たま、安成二郎(上記二名未編入者)及本人の11名

1914 2月6日 鎌倉町字坂ノ下22に家を借り受ける

1914 2月15日 荒畑方 サボタージュ研究会出席(調査書の誤記)

1914 2月15日 大杉栄 <大久保より>「尚僕は堀保子と共に、此の6日に鎌倉坂の下22に転居した。そして社へは寒村一家が、寒村のあとへは二郎一家が来た。僕は毎月一日及び十五日の前後2,3日は社或は売文社にいる。」『近代思想』3月号

1914 2月20日 大杉栄、入京 荒畑方宿泊

1914 2月22日 築地精養軒 近代思想、生活と芸術 執筆者晩餐会 同夜鎌倉に戻る

1914 3月 『近代思想』3月号掲載、大杉栄テキスト<叛逆者の心理>評論 パラント 大杉栄訳

1914 3月3日 大杉栄、上京、堺、荒畑を訪れる、

1914 3月7日 鎌倉に百瀬晋と荒畑来訪、百瀬は30日に退去、荒畑は二泊

1914 3月15日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 獨逸人「ローラー」の直接行動論の一部労働時間の短縮に付き講話

1914 3月 呉塵は修学の目的を以て渡来入京…本国在住当時1913年頃上海付近に於て無政府主義者師復の経営に係る機関雑誌「海鳴録」(後「民声」と改題)を購読し且つ師復と交際を結び共に主義の伝道に熱中したることあり本邦渡来後早くも在京大杉栄等と懇親を結び1915年7月20日長崎市に移居同年8月中上京の際8月15日大杉の主催せる「平民講演会」に出席し尚長崎に転居以来は常に同人と書信を往復する等密に中央同志と連絡を保ち殊に1916年1月以来大杉の紹介に依り深町作次と交通して主義的意見を交換しつつあり又同年2月26日『民声叢書の一、無政府浅説、無政府主義名著叢刻、民声(海鳴録共)26号迄』の書籍を書面(中国文)と共に某友人宛送付したる模様あり…………

1914 3月   寒村 <大久保より>「題は『大久保より』だが、実は京橋の売文社で、校正をやり乍ら書くのだ。21日の朝、青年会館に故平出修氏永訣式があって、社からも大杉、僕、二郎などが往った。当日堺は弔文を朗読する筈だったが、遂に姿を見せない。後で聞いたら、日を間違えて居たんだそうだ。帰りには長谷川天渓、相馬御風、馬場孤蝶、土岐哀果の諸君と一緒に、神田の常盤で昼飯を食った。天渓御風2氏に別れてから、或るカフェに入って、堺と貞雄とを電話で召集し、一行7人夜おそくまでヨタリ歩いたので、馬場氏はお客に待ち呆けを喰わせ、土岐は音楽会に往き損い、大杉は鎌倉へ帰り損って了った。……百瀬晋は売文社を飛び出して、今は鎌倉の大杉の処に居る……」『近代思想』4月号

1914 4月 『近代思想』4月号掲載、大杉栄テキスト<主観的歴史論>評論

1914 4月2日 大杉栄、帰宅

1914 4月15日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 前々回(3月15日開会)に引続き講話、「資本家と軍隊・警察、労働者」

1914 4月    寒村 <大久保より>「大杉夫妻の病気は、此の頃大分よくなった。そして大杉は『近代思想』に書いた論文と、外2,3の雑誌に載せた物とを纏めて、近々某書肆から出す筈で、目下その整理にかかって居る。………」『近代思想』5月号

1914 5月 『近代思想』5月号掲載、大杉栄テキスト<知識的手淫>告白<正気の狂人>評論<『婦人解放の悲劇』>批評

1914 5月27日 大杉栄 <大久保より>「……此の雑誌のあまりの馬鹿々々しさに、もうとても堪えられなくなった……僕等自身の手淫的満足と、同志の間の連絡維持とは、多少果たす事が出来た。しかし僕等は、アナルシストとして又はセンジカリストとして、積極的には何事もしていない。……労働雑誌の創刊を企てた……僕は、鎌倉の土地にあきが来たのと、……此の月末に、もとの大久保の家即ち社に帰って来る。社には今寒村がいるのだが、寒村は社の隣のもとの家にかえる。そして其処に入っていた安成二郎は、何処か近所にひっこす事となった。」近代思想』6月号

1914 6月 『近代思想』6月号掲載、大杉栄テキスト<寄付金募集>広告<新刊>批評<大久保より>雑録

1914 6月15日 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、「イタリアのストライキとマラテスタ」

1914 6月25日 大杉栄 <大久保より>「……『新潮』の中村武羅夫君が、一昨日のひるすぎ生田長江君と一緒に僕を訪ねて来た。……とうとう9時間ばかり話がはづんだ……」『近代思想』7月号

1914 7月 『近代思想』7月号掲載、大杉栄テキスト<寄付金募集>広告<賭博本能論>評論<銅貨と銀貨とで>感想<大久保より>雑録<新刊>批評

1914 7月1日 シンヂカリズム研究会 会する者13名(内未編入者4名)雑談、斎藤兼次郎「オーストリア皇儲の暗殺……」大杉は「爆裂団は何でも堅い処に当てなければ破裂せぬと云うが……外国の天皇は日本の様な馬鹿な取締をなさんが実に勇気がある云々」

1914 7月15日 シンヂカリズム研究会 吉川守国以下10名(内未編入者2名)、大杉は去る13日乃至15日の萬朝報紙上に佛国の同盟罷工と題する在ブラッセル市…石川三四郎の寄書に依ればマラテスタは想像の如く…単純なる同盟に非らずしてレボリューションの目的を以て蜂起したるものなることを知りたりとて其の所以を説明し更に……

1914 8月1日 シンヂカリズム研究会 会する者9名、(内未編入者2名)雑談、大杉は来たる10月発行せんとする雑誌に関し談話

1914 8月15日 シンヂカリズム研究会 大杉は雑談「非戦論…日本が米国に敗けて呉れればよいそうしたら大変自由に成るだろうと言うたら……」

1914 8月 『第三帝国』に寄稿の「欧州の大乱と社会主義者の態度」が「安寧秩序を妨害するものと認められ其の発売頒布を禁止せらる

1914 8月27日 大杉栄 <大久保より>「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めようと思っていたが、こんと。は保子が風にかかって起き上がれない。僕は早速参考書を10冊ばかりりカバンにつめて葉山へ出掛けた。しかし葉山の3日間は、只大体の筋をつくったのと、………僕の論文集『生の闘争』が9月中旬に新潮社から出る。……同じく9月中旬、新潮社の新潮叢書の一篇として、僕の翻訳ダアインの『種の起源』が出る。それから、これも9月中旬頃、実業之世界社の新智識叢書の一篇として、僕の翻訳ギュスタヴ・ルポンの『物質非不滅論』が出る。…本月16日発行の『第三帝国』に僕の『欧州大乱と社会主義者の態度』が載った。そして『第三帝国』は、僕の外に2,3の原因はあったそうだが、発売禁止になった。………」『近代思想』9月号

1914 9月1日 シンヂカリズム研究会 大杉、談話「資本家の愛国心、普佛戦争、アルサス、ローレン」

1914 9月1日『近代思想』9月号掲載、大杉栄テキスト<『生の闘争』序>感想<文壇の唯一者>

批評<妄評多謝>批評

<名判官>小説、大杉栄訳<大久保より>雑録

1914 9月15日 シンヂカリズム研究会 例会日なりしを以て夕刻より吉川守国、橋浦時雄、斎藤兼次郎、百瀬晋、有吉三吉、久板卯之助等の同志参集して大杉の帰来を待ち居りたり……講話を辞し……談話、
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# by tosukina | 2011-09-28 08:46

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の三


1914 10月1日 シンヂカリズム研究会 大杉は講話を休む、『物質非不滅論』の印刷校正の為多忙

1914 10月5日 平民社より 栄

1914 10月15日 シンヂカリズム研究会 大杉は雑談に際し「平民新聞の発行禁止……」

1914 10月15日 『平民新聞』1号発行、即日発禁処分 <獄中の同志>大逆事件に坐し、危うく縊り残されたる同志諸君の消息を読者に語らねばならぬ。高木顯明君(秋田監獄)在監中病を得たということを側かに聞いたが、薬石更に効なく、去る7月中遂に再び不帰の客となった。悼むべし。飛松臧次郎君(秋田監獄)坂本清馬君(秋田監獄)一時非常に感傷的になっていたが、此節は落着いて、自然科学に関する書籍に親しんでいる。崎久保誓一君(秋田監獄)賞表を得て此頃は、通信も隔月のところ毎月許されるようになった由。岡本 武田 三浦 岡林 小松 佐々木 峰尾 成石 新田 新村

<片山潜氏送別会><センジカズム研究会> 大杉栄<労働者の自覚><カイゼル論><国際無政府党大会>

1914 10月20日 『微光』第1号発行、指ヶ谷町3番地  印刷人、渡辺政太郎 編集発行人、臼倉甲子造

1914 10月30日 『生の闘争』新潮社 刊行 第一評論集

1914 11月15日 シンヂカリズム研究会 講演を休み雑談

1914 11月20日 『微光』第2号発行、指ヶ谷町3番地

1914 11月20日 『平民新聞』2号発行 <秩序紊乱><平民経済学><平民社より>

1914 11月22日 発禁処分

1914 12月1日 シンヂカリズム研究会 大杉は佛国に於ける労働取引所及労働総同盟に関する講話を試みる

1914 12月18日 『平民新聞』3号発行 <野蛮人><平民経済学><発売禁止の記><平民社より> 栄

1914 12月18日 <平民社より>栄「新聞の印刷が出来る前から、14,5人の刑事が印刷所を取りまいている。少々シャクに触ったから、電話で自動車を呼んで、囲みを破って逃げ出した。…翌日十数名の同志は家宅捜策を受けた。しかし、新聞は殆ど何処からも出て来ない。」4号掲載。

1914 12月19日 調査書によるとこの日発禁処分

1914 12月20日 『微光』第3号発行、指ヶ谷町3番地

1915 1月15日 『平民新聞』4号発行、発禁処分なし <新事実の獲得>大杉栄 『新潮』1月号より転載

1915 1月15日 シンジカリズム研究会 大杉方 雑誌『民声』に掲げたる「クロポトキンの戦争観」という記事(漢文)の一部を講話

1915 1月20日 『微光』第4号発行、指ヶ谷町3番地

1915 2月1日 シンジカりズム研究会 大杉方

出席者9名、大杉談話「場所が不便だから来月からは…場所の便利な処にしようと思うて居る……『平民新聞』の無代配布……」

1915 2月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

(本会は席上荒畑勝三の演術せるところに依れば従来大杉等の主催に関わるシンヂカズム研究会を拡張し一層広義に社会問題を研究せんとするものにして今後毎月一日、十五日前記の場所に於て開催するものなりと)出席者30名(内名簿未編入者16名あり)大杉の演術「代議政治論」<状勢>神奈川より中村勇次郎、加藤治兵衛、小池潔「平民講演会」に出席

1915 2月16日 5号印刷中、発禁処分、押収

1915 2月20日 『微光』第5号発行、指ヶ谷町3番地

1915 3月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

参会者、大杉、荒畑、岡野辰之助、有吉三吉、渡辺政太郎、吉川守国、斎藤兼次郎、林倭衛、宮島信泰、島田一郎、山鹿泰治、八木ウラ、(以上主義者)辻潤……31名

1915 3月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

参会者、有吉三吉、百瀬晋、吉川守国、橋浦時雄、宮島信泰、渡辺政太郎、斎藤兼次郎、荒川義英、山鹿泰治、林倭衛、堀ヤス、八木ウラ、安成貞雄外7名、合計22名にして大杉、及安成貞雄の講話あり

1915 3月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

1915 3月15日 発行予定 『平民新聞』6号発行、四、五日発行が遅れる

1915 3月20日 『微光』第6号発行、白山前町38番地「社告 本社は本月より移転」

1915 3月20日 <状勢>中村勇次郎は歌会を催すと称し横浜市青木町21番地 貸席 「宮の館」の一室を借り受け、加藤治兵衛、伊藤公敬、吉田満太郎会合し大杉栄、荒畑勝三等も東京より来会せし形跡あり

1915 4月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 参会者25名、大杉の演術「裁判制度の批評、クロポトキン著『国家論』から引用」

1915 4月16日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

山鹿泰治は中国無政府主義者「師復」なる者の死を悼む旨を述べたるに大杉は談話を為せり

1915 4月20日 『微光』第7号発行、白山前町38番地

1915 4月25日 <状勢>中村勇次郎は「平民新聞」廃刊の已無むなきに至や大杉栄、荒畑勝三等と相謀り出版物発行の計画を為し4月25日「解放」と題して第一報を発行「平民新聞」の廃刊を惜しみ「近代思想」中より大杉栄執筆の「生の創造」を転載

1915 5月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 参会者は21名

1915 5月2日 <状勢>中村勇次郎、加藤治兵衛の何れか横浜市福富町貸席「大正倶楽部」に至り俳句会を催すと称し二階奥座敷一室を借受け翌2日夜同所に於て両名及伊藤公敬、吉田満太郎並び在京大杉栄、荒畑勝三、荒川義英其他氏名不詳者1名計8名の者会合せし形跡あり

1915 5月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

出席者15名、荒畑が露国革命運動の講演を為し、大杉は以下の講演を為す。<状勢>中村勇次郎 平民講演会に氏名不詳の者同伴出席

露国政府が革命者を迫害する程………

1915 5月20日 『微光』第8号発行、白山前町38番地

1915 6月1日 平民講演会 豊多摩郡大久保百人町352

参会者21名「日本に於ける社会主義運動の経過………日本社会主義協会の存在したる時代を第一期とし堺利彦及幸徳伝次郎等が萬朝報を退社して非戦運動を試みたる時代を第二期とす、幸徳が無政府主義の運動を起こしたるは第三期として同人が死刑に処せられたる時を該期の終わりとす其後は混沌時代となりて経過中堺利彦が茶話会を企て時々同志と会合中従来の同志が恐怖病に陥り主義運動の尚早を口実として之を避けたるに依り荒畑勝三と自分は堺と議論の結果分離して雑誌『近代思想』を発行し後之を平民新聞に変更したるは第四期の序幕なり而して平民新聞は僅か6号を以て廃刊したるも此間地方に於て多数の読者を得………横浜、大阪及其の他地方に於て運動を萌芽したるに付吾人は従来と異りたる運動を為さざる可からず就いては労働者■■■(をして?)不利益なる事を生じたときは之を扇動して労働者の反逆を為さしむる習慣を養成せしことを急務とすべし若し夫れ労働者にして反逆を始むる■■■ず■ば到底社会運動は絶望なり云々」

一、荒畑曰 『労働者』(宮島信泰が発行兼編集人となりり吉川守国が印刷人となて前月発行したる雑誌なり)発行に就て相談をせぬとて同志中に不平の奴が■■■(大杉、荒畑は旧同志を措ち新同志の宮島を発行兼編集人に選定したるに対して■発刊以来百瀬、荒川、相坂、有吉等憤慨し居れるものなり)数名の者が蔭で不服を言ってるさうだが此席に居るなら起立して呉れと語りつつ百瀬晋、有吉三吉、相坂佶等を尻目にかけ幹部が専横とは何事ぞと呶鳴りたる処何人も起つ者なかりしと

一、大杉は君は突然そう言ては困る知らぬ人は判らぬぢゃないか……『労働者』は平民新聞廃刊後4月中旬吉川守国と相談の上纏めめたものだ宮島の選んだのは他に入獄してまでもという意気込の者が見当たらぬので勇敢なる宮島に法律の責任を負せ財政の方は兎も角も吉川が責を負うと云う事尚お宮島に多少の報酬をやると云う事もあったが雑誌が出ると直ぐ或る者が代理として来たのであるが(当月24日夜有吉三吉が前記百瀬外数名を代表して前月15日平民講演会の節同人より宮島へ編集費として5円を与ふるに■■■寄付金を同志より募るべく依頼を受け爾来奔走したるも前記不服を以て出金する者なき旨の事情を語りたるものなり)女の腐った様に僕の前へ来ずに蔭で意張ってるとは何だか卑怯だ一体そんな奴は居のも邪魔だこっちで絶縁して仕舞ふ僕は僕自身でやる僕■仕事が僕が責任を負う■誰も専横だと言う奴はあるまいと語りつつ百瀬、相坂、有吉を睨みつけて罵倒し此処に居る者は全部一人一党主義で同じ理想に向って活動せむ事を望む但し其の間に可成連絡の保ちたいと思う側へは荒畑君は荒畑を中心としたる団体を造るが如く各人各所に於て秘密に秘密的結社甲乙丙丁と各団体を造りて運動し其の団体の間には連絡を取ってやった方が便利で有効と思う之がアナキストのやり方であるそして各人秘密を守り自覚的に秘密に実質的運動をせらられば………何か言って貰いたく待ってます云々……

1915 6月12日 <状勢>小石川区白山前町38番地なる同宅に於て同志者の「家庭会」を開く参会者は渡辺政太郎 小原慎三 吉川守国 原子基 久板卯之助 外に無編入者 古川啓一郎 井上猛一若林ヤヨ(渡辺政太郎内縁の妻)の8名にして小原慎三の欧州戦争に関する談話等あり次回の会合を来る7月10日に申合せの上散会せり

(附記)1915年6月15日開催に係る平民講演会に於て渡辺政太郎は左記の如く口外せり

「此の頃自宅で同志の茶話会の様に同志の家庭会を催し7,8人集って小原君に講話をして貰ったのであるが之は毎月一回第二の土曜日に開く事にしました」

1915 6月15日 平民講演会 小石川水道端町2丁目16番地(本人の借家)佛蘭西文学研究会場 

参会者24名、大杉談話、来たる19日より佛語の教授を始めた……

1915 6月17日 『微光』第9号発行、白山前町38番地 終刊号

1915 6月 <状勢>6月20日より11月20日迄数回に亘り「家庭会」(8月20日より「平民自由団」と改称す)を開催し10名内外の同志等会合して主義の研究をなし又添田平吉、原子基の両名は相謀りて「茶話会」又は「親交会」と称し労働者の親交を計るの目的を以て 1915年11月10日及1916年2月15日の二回会合を催し一部の同志及び主義的臭味を有する労働者等数名出席せり

1915 7月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場 エロシェンコの英国でのクロポトキン訪問 講演通訳は福田武三郎→国太郎か? 21名出席

1915 7月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

出席者21名、兵役制度非認及徴兵拒否に関する演術あり……

1915 8月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者は大杉共20名、荒畑は「日本に於ける労働運動」大杉栄は「個人主義の進化」と題し講術

大杉は附言せり

「荒畑が唯今労働運動の経過に於て同盟罷工の事を話しましたが僕は之は社会主義や労働運動の結果で無いと思う労働者自身にそういう事を為したのである云々労働者は人に扇動されなくとも自分に為すべき力を持って居るさればとて何も労働運動が無効だと云うのではない伝道は必要であると思う云々、新村善兵衛の出獄

1915 8月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

大杉及中国人呉塵外20名、荒畑の英国に於ける労働運動に関する講術、大杉は前回に続き「個人主義」を話す筈なりしも当日は休講せり

1915 9月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者は大杉共25名、講話なく「『近代思想』を出す、付いては15日は編集で忙しい最中であるから今後此会を一日丈にしようと思うと告げ……」

1915 9月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者大杉共16名、雑談、渡辺政太郎「赤羽一の著述にして去る1910年発売頒布を禁止せられたる小冊子『農民の福音』二三冊つつ山鹿泰治は過日秘密に出版したるストライキの話一枚つつを配与し又千賀俊蔵が携帯せし写真器械にて一同を撮影して散会せり」

1915 9月25日 野澤重吉死亡

1915 10月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

参会者大杉共20名、荒畑の演術「マリー・スピリドノワ」の経歴

雑談中、大杉は友愛会に関する談話、又故主義者野澤重吉(9月25日死亡)の功績を

1915 10月7日 『近代思想』復活号掲載、大杉栄テキスト<築地の親爺><労働運動とプラグマティズム><二種の個人的自由><所謂軍国主義><平民経済学><復活号>

1915 10月    大杉栄『近代思想』 <復活号>「……『平民新聞』を廃刊してから丁度半年になった……横浜の同志中村勇次郎板谷漂葉の二君が『解放』と題する雑誌を出した事を特筆して置きたい。次には東京の吉川守邦君が『労働者』を、大阪の若林勝造君が『烟』を函館の久保田鬼平君が『足跡』を出した。何れも2,3号で休刊若しくは廃刊したが、僕はこれ等の諸雑誌が、及びこれに類する諸雑誌が、再び彼地此地に現われん事を望む。僕等の運動又は伝道は、斯くして各地方に、自治自発的に行われなければならぬ。……京都の上田蟻善君の『へいみん』、埼玉の臼倉甲子造君の『微光』、東京の西村陽吉君の『青テーブル』、加藤時次郎君の『生活の力』なども、多少の色彩を帯ている。寒村君と僕とがやっていた平民講演会は、貸席の方を警察からの干渉でことわられたので、遂に小石川区水道町の旧水彩画研究所を借り切る事にした。そして其処を『平民倶楽部』と名づけて、宮嶋資夫君夫婦に住んで貰った。これは随分大きな家なので、何れは図書館も設け、其他いろいろと労働者の倶楽部的組織をつくる考であったのだが、これ亦家主と地主からの苦情で、遂に移転の止むなきに至った。で、其近所に家を借りて、其処に僕一家が住み、講演会も其処でやり、そして宮嶋君は『近代思想』の発行人として郡部の調布に移転した。これで平民倶楽部の企ても当分思いとまった。奥付にある宮嶋信泰と云うのは資夫君と同一人であり、麗子君と云うのは同君の細君である。…平民講演会は毎月1日 15日の午後6時に開き、1日は寒村と僕が講演し、15日は茶話会にする。僕等の信用ある人の紹介があれば、どなたでも、そして成るべく多くの御来会を希望する。…渡邊君の通知にあるような事件が、東京の相坂佶、山鹿泰治の両君によって、大ぶ猛烈に行われだ。一週間と云うもの二君は警察の厳重な警戒の網をくぐって東京及び附近の工場地に出没して、数千部の『平民新聞』の残りを配布した。そして遂に捕われたが、結果は矢張り、渡邊君と同様に直ぐに放還された。其他近来何処からか、秘密出版物らしいものが、ちょいちょい現われる。斯う云う国法を破るような事は、甚だ怪しからぬ仕方だと、折々方々からお叱りを受ける。……堺利彦君の方でも『新社会』を出す。………最後に一寸紹介をして置くが、山川均君と云うのは、新しい人達には知られていないだろうが……」『近代思想』10月号

1915 10月10日 大杉栄、野沢重吉法会に参加

1915 10月15日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

1915 10月 大杉栄 <編集の後>「……なるべく理屈でではなく、事実によって示したいと思う。…そして此の、なるべく理屈でではなく事実によってと云うのは、此の雑誌全体の編集方針としたいのだが、そうなると又『平民新聞』の運命を其儘継承する恐れがある。……雑誌の売れ行きは大ぶいいようだ。7日に発行したのが10日には売り切れになって了って僅かながらも再版をした。………11月中には僕の『生の闘争』以後の論集『個人と社会』が、新潮社から出る筈。…クラポトキンの『相互扶助論』も矢張り新潮社から出る筈で、目下翻訳中だが、これも近いうちには出せるだろう。…」『近代思想』11月号

1915 11月 『近代思想』11月号、大杉栄テキスト<秩序紊乱><意志の教育><事実と解釈><所謂政府的思想><平民経済学><編集の役>

1915 11月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

大杉外16名(主義者14名)講演なく木鐸事件、尾行巡査を晦したる実例及火薬盗難に関する雑談

1915 11月   神近市子、大杉栄と親しくなる

1915 11月初旬 『近代思想』講演会、警視庁により中止に追い込まれる

1915 11月10日 即位式当日は堀ヤスを伴い午後三時頃外出して小石川区表町伝通院前なる内田大弓場に到り国民一斉万歳を三唱して奉祝の意を表すべき3時30分時に達するを待って標的に矢を発射し引続き約1時間弓戯を試みたる上帰宅せり 

1915 11月15日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

参会者は20名(内主義者14名)大杉の講演は「無政府主義の起源に就て」

1915 11月25日 『社会的個人主義』新潮社 刊行 第二評論集

1915 11月25日 大杉宅にて会合「『近代思想』経営難に迫り、善後策」

1915 11月26日 再び大杉宅にて協議会を開く

1915 11月 大杉栄 <廿日鼠とドラ猫>「……印刷所から社への持ち運びにも、其の妙な奴が隧いて来る。社では、丁度平民講演の来会者が、大がい皆一人づつのお供を連れて来ているので、門前市をなしている。其処を、こちらも例の奥の手の自動車で、有吉、山鹿、及び○の三人が、大きな声で『馬鹿、馬鹿、馬鹿』と連呼しながら、何処とも知れず突っ走って了う。翌2日の朝、発売禁止の命令は来たが、生憎、編集用のたった2部しか差上げる事が出来なかった。……『早稲田文学』……秩序紊乱の為発売禁止……流行の気味がある。……酒田の同志の斎藤恵が、同町発行の雑誌『木鐸』に、アルツイバセフ作労働者セイオフの紹介を載せた為に、雑誌は禁止、筆者は直ちに山形の未決監に投ぜられて、今まだ公判中らしい。………ヤレ火薬庫忍入りのヤレ爆弾泥棒のヤレ汽車暗打ちのと、時もあろうに未曾有の不安が国民の心中にわだかまっている際だから、途方もない馬鹿者どもが僕等に嫌疑をかけて無法な事でも仕出かしやないかと、お上では、そればっかりが御心配だったのだそうだ。………護衛仲間の間に廿日鼠の称を得ている。山鹿に其の話をすると、道理で俺にはあんなドラ猫のような奴がつくのだな、と憤慨している。<同志諸君>「近代思想社の体制変更」『近代思想』12月号                            

1915 11月頃 <状勢>長崎、深町作次(海軍工廠筆生)……大杉栄を崇拝すること厚く、大杉夫婦の肖像を雑誌(新潮?)の口絵よりり切取り笈上に掲げたりとの事実……大杉の紹介に依り支那無政府主義者呉塵(医学生)及其他の同志とも交際を開始するに至り一面大杉一派と脈絡を通じ多数の同志を糾合して主義の発達を期待しつつあるが如し

 呉塵は修学の目的を以て1914年3月渡来入京…「海鳴録」(後「民声」と解題)を購読し且同人と交際を結び……渡来後早くも在京大杉栄等と懇親を結び……「平民講演会」に出席し……常に同人と書信を往復する等………

1915 12月1日『近代思想』第3巻3号 発売頒布禁止処分 12月号掲載、大杉栄テキスト<労働運動と個人主義><『社会的個人主義』自序><相互扶助論><平民経済学><廿日鼠とドラ猫><同志諸君>

1915 12月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方参会者は大杉共25名(内主義者16名)<労働運動の事>大杉は語れりり「雑誌を共同責任にして僕は他の方法で運動を起こそう思うてる……近頃火薬事件が起れば直ぐ火薬事件、皇室、社会党とか、ピストルを汽車に撃つ者があれば皇室、社会党と何等の詮議もせす新聞が書く国民がそう信ずる政府が又そう■ふて仕舞う………実に人心が不安に打たれてる此無意識的の不安の有意識的にするのが僕等の仕事だと思ふ元来僕は文士等に自覚を起させる積もりで満足出来ぬでどうして労働運動を始めむければ駄目だと思ふ云々」

1915 12月11日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方 参加者本人共23名前々回に引き続き<無政府主義の歴史>に関する講演、且つ雑誌『近代思想』の維持に就いて協議

1915 12月14日 大杉、逗子に移転

1915 12月   大杉栄 <序文二種>「『貧乏と恋の歌』見本、四首」、同人<組織変更事情><社及社内の個人から>「社は、大杉が逗子に移転したので、下谷の有吉の家に置く事となった。……桜木町34」「大杉は、毎日曜日に上京して、その日は午前9時から午後4時まで、牛込区横寺町の芸術倶楽部にいる。そして正午から1時までを面会時間とする。…『相互扶助論は……まだ出来てない。……『労働運動の哲学』も1月中には出る筈。』」『近代思想』1月号
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# by tosukina | 2011-09-28 06:49

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の四

1916 1月1日 『近代思想』発禁処分

1916 1月3日 同志吉川守国方に大杉外9名会合協議『近代思想』維持に関して

1916 1月15日 平民講演会 上野観月亭

荒畑の講演の後、大杉の講演「欧州無政府主義者が平時に於ける主義主張に反し戦争に参加するに至れる事情を語り戦後に於て彼等が如何なる行動に出つるやは不明なりと述べ更に………」

1916 1月24日 上野観月亭に於て東京同志の近代思想同人会臨時

相談会を開く、来会者大杉共19名

1916 1月25日 吉川守国方に大杉及荒畑及有吉の3名会合し引継ぎに関する事務を整理し残金を為替にて他の書類と共に送り越しここに近代思想は全く廃刊するに至れり

1916 2月1日 平民講演会 上野観月亭

<無政府主義の歴史>に関する講演を試みたり同日所轄上野警察署に於ては特に巡査を派遣し会合の性質目的等を穏言質問したる処本人等は巡査に対し口を等めて罵倒せるを以て更に正服警部補を以て臨監なさしめたるに之に対しても同様通罵し間もなく随意散会せるを以て同日来会せる主義者11名未編入者6名全部を順次警察署に同行未編入者3名を除く外本人以下14名は検束処分を受け翌日午後2時放還せられたるが本人は同月3日警視庁に出頭し右処分に対し左の如く語れ

1916 2月20日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

出席者、大杉の外26人にして席上大杉は<欧州戦乱前後に於ける獨逸社会党員の態度>に関して講演なし後山川均の<クロポトキン国家学の梗概>と題する講演あり、それより堺利彦と左の問答をなし堺の態度を痛罵せ

大杉 日本の労働運動は近き将来に於てどうならう乎

堺  自分は此問題に付ては何時も弱って居るが将来の事は判らぬ自分は判らぬから何もやらぬのだ云々

大杉 君は判らぬ判らぬと云うが何かやる気はないのか

堺  有る然し今日迄の運動は雑誌を出し演説会をすると信して居たが其外■(原本が二文字分三点)何をやって良いか一寸判らぬ又考えて善いと思へはやる

大杉 何んでもやる事があるではないか君がそんな事でどうするか

1916 3月1日 大杉、四谷区南伊賀町に移転

1916 3月7日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 大杉の外18名(未編入者5名)山川均、馬場孤蝶(未編入者)の講演あり、後雑談を交え午後十一時頃散会

1916 3月9日 内縁の妻堀ヤス(主義者)とは1911年11月5日より同棲し居りしが1915年11月頃より大杉が神近イチ(主義者)外一、二の婦人と関係し「ヤス」を疎無んしたる結果著しく家庭の円満を欠き遂に山崎今朝弥、馬場孤蝶(未編入者)等の調停により互に感情の融和を計らんが為め1916年3月9日より一時別居すること、なれり

1916 3月9日 大杉、麹町区三番町に移転

1916 3月19日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

午後7時より、参会者は大杉共14名(内未編入者2人)、大杉は「無政府主義の歴史」談として佛国に於ける労働者総同盟組合組織よりり革命の顛末に及ひ(入力者略)と演術し後山川均「歴史の見方」に就き講演ありりて同十一時散会せり当夜は参会者従来に比し著しく僅少なりしが荒畑等のとの内訌と一つは大杉近時の行動に対し同志一般快からさるものあるに其因せるものと認めらる

○豫て本人の熱心経営せし雑誌『近代思想』は種々の事情の為め継続発行する能はず且二三婦人と関係したる結果内縁の妻とは別居するの止むなきに至り尚情婦関係同志間に暴露するや宮島信泰を除きては一人も彼れを同情するものなく無二の親友荒畑勝三とさえ往復をなさず剰へ平民講演会の席上堺利彦を罵りて自ら交際を狭め加ふるに従来大杉の著作物原稿を購ひたる新潮社主佐藤義亮よりは買取方を謝絶せられ為めに生活の資源を失ふに至れり、大杉は之を警察の圧迫に因るものとなし反感を激成せんとしつつあるものの如く又豫て亡父(陸軍高等武官)の恩給証書を抵当として高利貸より借入れたる三百五十円の元利、現今に於て六百余円に上れるを発見し大に憤慨したるも及ばず一方堺の売文社は愈々盛大に赴き荒畑も亦新雑誌発行の計画進捗する等を見益々自己の窮境を自覚し且3月19日開催したる平民講演会へは参会者極めて少なく悄然たる有様にして漸次自暴自棄に陥らさるの状況に至り宿阿の肺結核も時々発熱を見るが如き有様にして嘗て幸徳伝次郎が管野すがとの関係暴露して同志の信を失ひ肺結核の宣告を得て一種の自暴自棄に陥りたると稍々趣を同ふするの境遇にあり旁大杉は神経過敏にして激し易き資性を有するに近時堺利彦に対し「余は到底従来の同志と行動を共にすること能はず余は断乎として単独にて余の所信を断行すべし」と語りた等の事実あり(1916年3月下旬調)

1916 3月以降 『社会的個人主義』(1915年11月27日発行)『労働運動の哲学』(1916年3月19日発行)はその発行に先ち発売頒布禁止処分を免れむか為文中過激に渉ると認めらるる個所を削除したる上出版せし趣なるが大杉はその部分を一括蒐集し山鹿泰治及有吉三吉等をして、穏密謄版に附し一部40,50銭の割合にして希望同志に頒布

1916 4月2日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 午後7時、出席者は大杉の外12名(内未編入者4人)、「バクーニン」の経歴に関し講演、10過ぎ散会

1916 4月16日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 午後6時より、出席者大杉共16名、大杉は前回に引き続き「バクーニン」の経歴談を続行、(同人の運動伝道方法初期の無政府主義者は何れも実行的なし事実を述べて本邦に於ける無政府主義者も亦此等と轍を同ふせるものなりとなし自分等<大杉>が過去の経歴を説き及び彼の金曜講演会の実行本郷に於ける屋上演説錦輝館赤旗事件及幸徳事件等の事例を引証し要するに実行は無政府主義の存在を世間に周知せしむる唯一の■■にして其の実行方法は自ら無政府主義的の行動を為すにあり云々)と結論して終わりて添田平吉は同行せる北海道在住準主義者渋井福太郎を一同に紹介し渋井は北海道地方に於ける労働者待遇の実情を述べ松浦長治吉川守国等との間に二、三の問答をなし後社会主義運動に関し大杉に対し「僕は文盲だ、事実の上に表はして見せなければ信用出来ない」と答弁を促すや大杉は左りの如く熱烈なる口調にて説明し午後11時頃散会せり

 僕は常に疲れる程云って居る「労働者は決して社会主義や無政府主義やサンジカズムの本など読むなと云って居る」「労働者は其の苦しい生活力をその惨めな生活から脱し様とする丈で宜いのだと云ふて居る、それには手段を選む必要はない如何なる事ても如何なる方法ても自分達か宜しいと思ふた手段を以て自分達か仕度と思ふ事をすれは宜しいのた」

 而してそれか社会主義、無政府主義、サンジカリズムの思想と合致したる時それに来れは宜いのた、それて始めて真実をつかんだ事が出来るんだ、そして始めて自覚するのだ

僕等は自分等の勇気の無いのに対して諸君から攻撃されても一言も無い全く僕等は勇気はない、然し常に自分等は何事か為さねはならないのだ、何か為さないてはならないんたと言ふいらいらした気分は持て居る

幸徳君等が東京で50余人の決死隊を組織して一揆を起そうとした事は其の存在を認めしむる為めの企であったらしい、それから同志間の口から洩れて警戒が厳重に成ったので遂に、ミカドの暗殺を企てると云う事に迄成ったんだ僕等は勇気がない併資し僕等の仲間から幸徳君等の様な人達が出ないとも云えない、そして又暗殺にしても近い話が阿倍政務局長の殺された事や今度の大隈事件や、そーした事件は斯うした厳重の警察の下に在っても尚且つ絶えない、併し此等現代の暗殺者は何れも皆政治科に限られてあるか是とても或は吾々の中から「ピストル」に爆弾に唯一個人でもそれが貴族であり、富豪であり、紳士閥であ又資本家である以上夫れを打ち斃さなければ止まぬと云う欧州革命家の伝を蹈む人か無きにしも非ず又出ないものでもない

勇気ある人、如何にしてもそーしなければならないと云ふ人達は自分か為たいと思ふ事をすれは宜いんた

僕等は本当に労働者が如何に無智であっても如何に文盲であっても、そんな事はどうでも宜しい自分の苦しい生活から来る真実を以て自己の信する処を充分に決行すればそれて宜しいと思ふて居るんだ云々

1916 4月30日 伊藤野枝宛書簡「……御宿の、ゆうべの寝心地はいかに。……五十里が自分の羽織を僕に着せてくれるところだった。……八時半頃にそこを出て、神保町で二人と分れて、ちょっと下宿(麹町第一福四万館)に寄って……約束の田中純のところへ行った(『新小説』の編集長)。……金をもって四谷へ行った。あなたを両国へ送って行ったことも話した。
 四谷へは、きのう『国民』の男と『万朝』の女とが、再び訪れたそうだ。僕の下宿へも、留守中に、来たらしい。

 けさおしげさんから電話があった(荒木しげ・『青鞜』に執筆、親が旅館経営)『万朝』の女は、おしげさんに話をしてくれと迫ったそうだ。それからなお、あの場の光景を書かしてくれと頼んだそうだ。そしておしげさんは、二つとも、きっぱりと断って、あとは雑談で済ましたそうだ。五十里も馬鹿だね。ゆうべどうして神保町まで来たのかと思ったら、酔っらったまま、またおしけ。さんのところへ寄ったのだそうだ。そしてウンと叱られて帰ったそうだ。めずらしく長い手紙を書いた。

1916 5月1日 伊藤野枝宛「夕飯までグッスリと寝た。
五十里が来た。…青山君のところへ行くと言って出掛けて行った。するとそれといれちがいに、こんどは神近が来た。四、五日少しも飯を食わぬそうで、ゲッソリと痩せて、例の大きな眼をますますギョロつかせていた。社(東京日日新聞)の松内にもすっかり事実を打明けたそうだ。
十時頃まで水菓子などを食べて饒っていたが、何のこともなく、おとなしく寝て、おとなしく起きて、そしてまたおとなしく社へ出て行った。可哀そうな気もするが、しかしそれでなくては、あの女は本当の道を進んで行くことができないのだ。もうあなたからの手紙も、見せてくれとは言わない。
逢いたい。行きたい。僕の、この燃えるような熱情を、あなたに浴びせかけたい。
しかし、僕のこの状態も、渡辺のところにいる一友人(村木源次郎)の来訪によって、まったく打ち壊されてしまった。その友人というのは、横浜の同志で、赤旗事件の時に一緒に入獄して、その後一、二度会ったきりでずいぶんしばらく目だったのだ。入獄する時には、まだ二十歳ばかりの、本当に文字通りの美少年であった。……」

1916 5月2日 伊藤野枝宛「……あなたの早く来てくれという言葉も、何の不快もなしに、と言うようはむしろ、非常に快く聞くことができた。本当に行きたい。……ゆうべは、神田の一軒の本屋に寄って見た。………あなたの本の話は駄目だった。


1916 5月6日 伊藤野枝宛「…最後にまた亀戸で代わった(尾行の交代)…たのしかった三日間のいろいろな追想の中に、夢のように両国に着いた。今でもまだその快い夢のような気持ちが続いている。」

1916 5月7日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

出席者11名、講演なく雑談、次回よりは経費不足の為順次同志の居宅にて開催

• 5月8日 伊藤野枝宛「……正午頃から珍しく孤月におそ

われた。……あした安成二郎がそちらへ行くと言っているから、それと強制同行をしたらどうだとすすめている。二郎は、ゆうべやって来て、保子に対する僕の心持ちを『女の世界』に書いてくれと言うのだ。それはおことわりして、ほんの少しだけ話をしておいたが、きょうは神近のところへ行ったはずだ。……孤月と強制妥協して、次のごときハガキを『読売』へ送るつもりで書いた……また今、二郎が来て、とうとう書くことに約束した。あしたの朝八時の汽車で行くそうだから、この手紙は持って行って貰うことにした。」  

1916 5月9日 伊藤野枝宛「きのうは、夕方土岐と会うはずになっていたものだから、安成と一緒に出掛けて読売へ行くと、そこへ荒川が来る、さらに四人で社を出ると、路で荒畑に会う。こう大勢になると、夕飯を食うのも大変だし、ともかくもとカフェ・ヴィアナヘはいる。いろんな話のついでに、野依の話が出て、ついに野依を呼ぼうということになる。……しかし、ここ10日ばかりの間に、あいつも四年間の牢獄生活にはいらなければならぬのだ。………それは例の堺(堺氏をそこへ呼んだのだ)の冷笑だ。いきなりコップを額にぶつけた。……堺と僕とのイキサツは『生の闘争』の中にある<正気の狂人>以来の、またいつものあの意味のことなのだ。いつかも、やはり同じようなことで、平民講演で口論した。それがついに、ここまでに進んで来たのだ。他のみんなは帰ることになって、野依と僕と二人だけ、その待合いに泊った。もう一時近かったので、女を呼ばずに、ただ一人で寝た。……実は、待合いというところはゆうべが始めてなのだ。………お互いの経済上のことは、……保子についての僕への忠告、およびあなたの心持ちは、本当にありがたく聴く、そうでなければならぬはずなのだ。………あなたは三人のうちでも一番優越(僕の愛ということばかりではない)した地位にいるのだ。………今夜は『女の世界』への原稿を書こうと思っているが、それにあなたからの手紙の一、二節を引用したいと思う。……きのう、夕飯をすましてから、……保子からすぐ来てくれという電話がかかって来たので、すぐ帰るつもりで出掛けた。………あなたのことも、生立ちやら、気風やら、嗜好やら、いろいろと話した。彼女にあなたとの多少の親しみをかんぜさせたかったのだ。……泊った。朝も、いろいろしんみり話して、保子も大ぶよく分ってくれたようだ。ひるすぎに四谷を出て、路で馬場孤蝶のところに寄り、ひどく話しがはずんで、とうとう夜の11時まで遊んでしまった。……神近からも、手紙が来ている。いよいよ本月限りで社をよすことに、松内との話がきまったそうだ。…… 

1916 5月13日 <状勢>深町作次は佐世保海軍工廠筆生を解職、中国上海に渡航することに決心、同日呉塵を訪ね会談、翌14日呉の催せる送別会の宴に臨み(呉は席上に於て所感を述べ深町を激励するが如き言辞を漏し又深町をの出発に際し上海民声社「支那人主義者の設置せるもの」に在る同志張剛へ紹介の労を取れり)其の翌15日同地出帆の山城丸にて上海渡航の途に就けり…深町は渡航以来支那人同志と相往来して其の状況を在京大杉栄に通信したることあり

1916 5月17日 安成二郎宛「……しかし今日中には、野枝さんの原稿ができる」

1916 5月17日 深町、上海に到着、呉塵より上海民声社に在る同志張剛へ紹介を受けたる関係上同社の章警秋と交際を開始し中華報に入社せるも亦章の紹介に依り同報主筆にして塵との交際は今尚之を持続し同人帰国の際は其の訪問を受けることありり深町は叙上の如く渡航以来頻に中国人同志と相往来して其の状況を在京大杉栄に通信したることあ近来は又時々同堺利彦の経営せる雑誌『月刊新社会』へ之を通信したることあり是等通信の内容及其の他に於ける各種の事情を総合するに深町は専ら彼我主義者の関係を密接ならしめんことに努力せるの迹あるのみならず又一面上海における左記の人物が各個分立の状態に在りて何等の連絡関係なきを遺憾として常に是等の間を奔走して其の合同をも計画しつつあるもの如し

呉稚暉(別名「平宇白」)英米仏の各地を巡歴し…中華報の主筆たり。「不平鳴」等無政府主義に関する著あり「」

章警秋 社会主義者にして呉稚暉に師事すかつて東京に遊学せしことあり

章木良 兄にして社会主義を唱道す

謝英伯、蔡世■ 両名は無政府共産主義を唱道し「社会主義講習会」を開き……会員70名を有す。謝は米国「ボストン」大学出身と称す

韓恢、路■「中華工党総務」なる一種の労働組合を組織し……無政府主義を声明せんと………

湘田、師復の妻……同志の糾合に務めたるも……解散し今は私塾に教鞭を執れり

天倣、師復の妹、女工、主義思想堅固なり

田添幸枝、田添鉄二の妻にして英語教授を為しつつあり、長崎在住中村喜九郎の妹なり

1916 5月21日 平民講演会 宮嶋信泰方

大杉は当日千葉県に滞在中なる情婦伊藤野枝(未編入)方に赴き居りて参会せざりしが出席者は10名にして講演なく雑談を交えたるのみにて散会せり

1916 5月27日 安成二郎宛「……あすは東京に帰る。野枝さんは、まだ一週間ぐらい滞在しているだろう。………

1916 5月30日 伊藤野枝宛「……両国では神近が6時から来て待っていてくれた。一緒にその家へ行った。……翌日、牛込へ行くと、まだ生徒は誰も来ていないで、珍しい幼な友達の女(『自叙伝』に出て来るお礼さん)が待っていた。……夕方、四谷へ行くと、借りるはずであった家が、山田と家主との妙な話から、ことわられて、いろいろゴタゴタしていると言う。………その翌日、すなわちきのう、前に言った女の家に行って、夕方神近のところに寄ったが、月給だけは貰えたが………四谷へ帰る。……あなたの方のことが気になるので、10時頃下宿に帰った。……」

1916 5月31日 伊藤野枝宛「……きょう、安成二郎のところで、あなたからの手紙の内容を聞いた。『毎日』の方のも、もう済むそうだね。……ところが『毎日』の方は、はたしてあれを載せるかどうか、どうもあぶないようだ。こちらの『日日』でも大ぶ異論があるそうだ。それに、『女の世界』がきのう発売禁止になったので、なおむずかしかろうと思う。だから、早くしなければいけない、とも言っておいたのだが、しかし今さらもう仕方があるまい。けれども、ともかく向うからの注文で書いたのだから、原稿を送れば金を出さないということもできまい。どうなるかね。『女の世界』の発売禁止は、向こうでもずいぶんの損害だろうが、僕等にとっても、少なからざる影響がある。第一には、世間の奴等は僕等を何と罵倒しようが勝手だが、僕等にはそれに対して一言半句も言う権利がなくなった訳だ。実は『中央公論』で例の高島米峰の奴が<新しい女を弔う>とか何とかいう題で、大ぶ馬鹿を言っているし『新潮』でもケタ平(赤木桁平・漱石門下)の奴が妙なことを言っているし……僕の下宿の分と保子の分とは、いずれも半分ずつの支払いのつもりで、今神近が奔走していてくれる。僕も、あしたからは大車輪で仕事をやる。……」

1916 6月2日 伊藤野枝宛「きのうから仕事を始めるつもりでいたところが、朝は青山女史が遊びに来る、午後は朝鮮の同志がしばらくめで訪ねて来る……とうとう10時近くなってから宮島のところへ出掛けた。……やがて宮島が戻って来る。少しおしゃべりをしているうちに12時になり、とまれとすすめられるままに床にはいったが、1時頃にスリバンで驚かされて、二人で見物に出かけた。……四、五軒も焼けたろうか。……」

1916 6月4日 同志茶話会 宮嶋信泰方

大杉出席、平民講演会は当分休止之を改称、会する者15名

1916 6月6日 伊藤野枝宛「……四谷へ行ったら『中央公論』と『新潮』とが買ってあったので、さっき送った。……本当を言うと、僕は、僕に対するあなたの悪口を一番きいてみたかったのだ。僕に対するあなたの今までの不満とか不快とかいうものを、一つ一つ詳細に聞いてみたかったのだ。今なお続いているものも、またすでに消えさったものも、いっさい。そして僕もまた、あなたに対して今まで思っていたことを。すべてあなたに打ちあけてみたかったのだ。……お互いにあまりに好き合っていたということと、したがって比較的によく理解し合っていたということと、およびお互いにあまり接近することのできなかったこととのためについにその交渉を十分に経ないで恋愛関係に陥ってしまったのだ。………けれども僕等は、二人の間のこの必然的な恋愛にはいってしまった上は、さらにこの交渉をできるだけ厳密に深入りさせて行かなければならない。……

 ……きのうは朝からのお客で、夕方になって幾度目かの新しい客が来ている時に、思いがけないあるハガキに驚かされた。それは、いつか書いた僕の幼な友達からのもので、その亭主が不意に死んだという知らせだった。すぐ二本榎のその家まで行って、とうとうけさまで一睡もすることができなかった。朝飯を食うと、午後の3時に葬式が出るまでの間のつもりで、神近のところへ行って寝た。そしてすっかり寝込んでしまった。葬式にも間に合わず、それに今晩はあるフランス人と会うはずになっていたので、夕飯前に神近と一緒に下宿に帰った。あなたからの手紙と原稿とが来ている。……

 今、フランス人のところから帰って来た。……」

1916 6月7日 伊藤野枝宛「……二人でおなじようなことを言っているのだね。会いたいことは早く会いたいし、しかも、会ってしまえばまたしばらく会えないのだからつまらないなぞと…………永代静雄のやっている『イーグル』という月二回かの妙な雑誌があるね。あれに面白いことが書いてある。「自由恋愛実行団」という題の、ちょっとした六号ものだ。……平民講演の帰りに、神近や青山と一緒に雑誌店で見たのだが、神近は「本当にそうなんですよ」と言っていた。青山はあなたが僕に進んで来て以来、僕等の問題についてはまったく口をつぐんでしまった。……」

1916 6月18日 同志茶話会 吉川守国方 大杉、宮島欠席、参会者9名、翌月2日の例会は休止                                              

1916 6月18日 安成二郎宛「『世界』の切りぬきをありがとう。……」

1916 6月18日 呉塵は6月18日出発天津経由直隷省保定府に赴き同9月14日帰崎せしが帰路上海に立寄り深町及び中国人同志とも会見を遂げたるものの如く帰来後上海同志の状況を語り頻に主義的言辞を弄し日本の国体をも捉えて之を伝為せることあり…

1916 6月22日 伊藤野枝宛「……あれからどうした?……大原を通ってからは頭痛がますますはげしくなって……神近の家へ行ってからも、神近はしきりに何やかやと話ししたがるのだが、済まないとは思いながらも、それに乗る気持ちにはなれなかった。……けさ起きてからも……寝ころんで本ばかり読んでいた。……あしたの朝は、眼をさますとすぐ、あなたの手紙が枕元に来ていることと思う。そして、それを読んで始めて、いい気持ちになれるのだろうね。………」

1916 6月23日 伊藤野枝宛「………今のあなたと僕とは、とても永い間離れていることはできないのだ。……そして二人は恋の戯れにのみ惑溺していなければならない。……」

1916 7月14日 伊藤野枝宛 「……かぜになってしまった。きょうは一日寝て暮らした。今、四谷からの電話で、保子が四、五日前から病気で寝ているということだから、出かけてゆく。あしたは必ず書く。」

1916 7月15日 伊藤野枝宛「ひる頃四谷から帰って見ると、途中からのハガキが二本ついている。あなたもいよいよ尾行につかれる身分になったのかな。……ゆうべは保子のところへ行った。……ゆうべは手紙に書こうと思って、よしてしまったが、実はあなたが出発したあとへ、ほんのちょっとという約束で神近が来たのだ。そしてつまらぬことから物言いが始まって、やがて床を二つに分けて寝て、また朝になって前夜のつづきがあって、とうとう喧嘩別れに別れてしまったのだ。……」

1916 7月16日 伊東野枝宛「……うんと喧嘩でもして早く帰って来るがいい。その御褒美には、どんなにでもして可愛がってあげる。そして二人して、力をあわせて、四方八方にできるだけの悪事を働くのだ。それとも、この悪事をあと廻しにして、叔父さんの言う通りにアメリカへでも行くか。そして二年なり三年なり、語学と音楽とをうんと勉強してくるか。人間の運命はどうなるか分らない。……いずれにしても野枝子の勝利だ。……帰っておいで。早く帰っておいで。一日でも早く帰っておいで。手紙を開封したような形跡があったら、警察へおしりをまくってあばれこんでやるがいい。」

1916 7月17日 伊東野枝宛 「……和気から『朝日』(大阪朝日)の夕刊を送って来た。……ほんとに早く帰って来ておくれ。ね。いいかえ、野枝子。今、荒川と吉川とがやって来たから、これでよして、すぐ女中に出させる。……」

1916 9月1日 伊東野枝宛「また大阪でそんなにいじめられているのか。ほんとに可哀そうな野枝子だね。………ほんとに僕は、幾度も言ったことだが、こんな恋はこんど始めて知った。もう幾ヶ月もの間、むさぼれるだけむさぼって、それでもなお少しも飽くということを知らなかったのだ。というよはむしろ、むさぼるだけ、ますますもっと深くむさぼりたくなって来るのだ。そしてこのむさぼるということに、ほとんど何等の自制もなくなっているほどなのだ。………(31日)……」

1916 夏頃 渡辺自宅で久板と茶話会を始める 白山前町38番地と思われる 後に研究会 小松『自由人』<『続要視察人状勢一斑』を根拠>
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# by tosukina | 2011-09-28 05:57

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の五

1916 10月15日 大杉、本郷区菊坂町、菊富士ホテルに移転

1916 10月28日 ……近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞する所あらんと発意し10月28日同志吉川守国、渡辺政太郎、村木源次郎、荒川義英等と大杉栄の宿所に会し立太礼当日同志八、九名連合して行啓御道筋に出かけ警護線を騒擾せしむるか若は同志随所に所在を晦まし又は恰も事ありけに同志間を往来して警察を狼狽せしむるの行動に出らんと談合し越えて11月1、2日両日に渉り村木源次郎に旨を含めて同志有吉三吉、五十里幸太郎、吉川守国、荒川義英、渡辺政太郎等の間を往来し連絡を計らしめ2日夜大杉栄方に吉川守国、有吉三吉、荒川義英、村木源次郎、鮎沢貫一(長野県在住)辻ノエの八名会同しそれより打連れて日本橋区南伝馬町2の12料理店鴻ノ巣に入り(鮎沢は途中にて一同と別る)協議を重ね其の結果自動車に分乗して所在を晦韜し翌早朝(立太子礼当日)相州三崎方面に旅行せんと計画せしも自動車の雇入意の如くならさりし為果さす依って散会し帰宅の途中各自尾行巡査を瞞き所在を晦まさしことを申合せ夫々帰途に就きたり更に大杉は翌3日午後6時頃外出神田区佐柄木町の一料理亭に到り同所に待合せ居たる知己6,7名と会飲し打連れて外出間も無く一同と別れ折柄後方より疾走し来れる自動車に合図し之に飛乗り何処かへか行方を晦ましたるも間もなく情婦神近イチ(主義者)方に宿泊せるを発見せり斯く大杉を中心とせる一部主義者は種々の計画を為したるも其の目的を達するに至らすして止みたり     

1916年11月2日 <状勢>「労働青年」創刊、……久板卯之助、渡辺政太郎の両名は一部同志間に於て大杉栄の主催せし同志茶話会が同人の信望失墜と共に1916年6月18日の開会を限り自然消滅に帰したを遺憾とし再び会合を継続すべき希望を有するを観取し1916年12月15日両名主催の下に茶話会の名義を以て渡部方に同志の会合を催うせしが両名は「労働青年講演会」と称し爾来継続して毎月一回之を開催し(毎回出席者十数名)主義に関する談話を交え時に又堺、山川、高畠、荒畑等出席者中の重なる者に於て之が講演を為すことあり

1916 11月2日 大杉栄、同志と食事会<10.28の事項に記述>

1916 11月3日 大杉栄、知人と食事会<10.28の事項に記述>

1916 11月9日 神近、大杉へ傷害を負わす、日蔭茶屋事件、後に2年の実刑

1916 11月19日 <状勢>「曙会」残党の一派は田中佐市を首脳となし……相携えて大杉を見舞う1916 12月20日 大杉、野枝と谷中村を訪問

1916 12月14日 大杉、妹あきの葬儀に参列、名古屋

1916 12月14日・17日 名古屋、滞在中は同地在住主義者横田宗次郎を三度愛知新聞社に訪問し同人に語る「<雑誌発行に関して>……吾人は自由恋愛主義にして之を実行したりと云うも固有の無政府主義とは全く別問題なり…<生活費の補助>…<官憲の取締と尾行>」大杉は横田の運動方法を賞賛し今後は此の方面に就き一層の力を注ぐべき旨を誓い又横田は従来の在京同志は理想主義者多かりしと確信したるも大杉の談にて東京に於る労働運動の真相を了解し且つ大杉が主義的信念の濃厚らなると同運動に対する抱負とに一層崇拝の念を高めたるものの如し

1917 3月頃   大杉、堺、荒畑たちを訪問するが「体よく寓される」    

1917 4月18日 「調査書」によると、堺利彦の「選挙ピラ」を大杉が村木源次郎に指示し新聞折込にて配布させる

≪近藤憲二『一無政府主義者の回想』では村木が幸徳秋水の代議制批判の文書からビラを作成となっている≫            

1917 7月5日 大杉、伊藤 北豊島郡巣鴨村大字宮仲に移転

1917 7月 望月桂<へちま>を閉店、千駄木210 に移る、同志たちが頻繁に訪れ「溜まり場」となる

1917 8月1日 深町作次は上海在留の知人中山栄造外一名が共同して<上海経済時報>を発刊せるを以て之が発行する事務に従事する傍ら依然中華報との関係を持続し居れるも中華報は内部改革を為し邦人を排斥せんとする傾向ありて其の待遇従前の如くならすと云う

1917 9月 内縁の妻伊藤ノエ分娩後は倍々生活難に陥り毎月12円の家賃は勿論米炭代にすら差支え僅に林倭衛の名義にて買入を為し居るが如き窮境に在りて二三日前同志山川均を売文社に訪問して多少の援助を求むる所ありたるものの如く……本所深川方面に於ける細民部落に移住して実生活を為すの心組なりと称し居れり……目下在京主義者にして大杉の許に出入りせるは村木源次郎、林倭衛等にして他は殆ど顧るものなき状態にあり(1917年12月6日調)

1917 9月頃か 渡辺政太郎、番地は93になるが指ヶ谷町に戻る 『新社会』10月号に移転の消息。小松隆二『大正自由人物語』の記述は<後半>としている。

1917 9月25日 大杉は其の後に在りても村木源次郎(1917年9月30日より大杉方に同居し同12月11日他へ移転せり)、林倭衛等一、二同志の出入りするを見ることあるの外同志の接近するものなく依然伊藤「ノエ」が1917年9月25日女児分娩(ノエの私生児として「魔子」と命名せり)後は倍々生活難を訴えるに至りたり然るに其の後黒瀬春吉及江渡幸三郎より出費を受くることとなり予て計画しつつありし主義宣伝の機関雑誌『文明批評』の発行を企て………各地の同志及彼の『近代思想』を購読せし者に宛之を発送し引続き購読方を勧誘せり……<状勢一班第八>

1917 9月30日 村木源次郎、大杉方に同居

1917 11月 『労働青年』終刊

1917 12月 大杉・伊藤『文明批評』創刊

1917 12月11日 村木源次郎、他へ移転せり

1917 12月 和田久太郎、久板卯之助 日暮里で同居

1917 12月29日 大杉・伊藤、亀戸の労働者街に移る 南葛飾郡亀戸町2400

≪大杉栄「どん底」時代から「労働運動」の時代へ≫ 1918年→1919年

1918 1月16日 <活版印刷工組合信友会との関係>開催せられたる信友会第一回総会……和田久太郎は一般会員の如く装い入場して最後迄会合に列席せり

1918 1月21日 <状勢>(渡辺政太郎に関する記述)1916年12月15日以降、渡辺、久板は其の主催を以て毎月15日渡辺方に於てせる茶話会(主催者側に於ては「労働青年講演会」と称せり)を継続開催して(出席者は漸次増加し20名内外を算するに至れり)……而して渡辺、久板は又和田久太郎、添田平吉等と共に主催者となり新同志の為簡易なる主義研究を為すの目的を以て新に「実生活研究会」を開始することと為し1917年9月5日渡辺方に第一回を開催し爾来継続して毎月1日同処に之を開催し………参会者は初めは10名内外なりしが漸次増加し20名内外となり上記茶話会と共に成績良好なりと称せらるるに至りりしか1918年1月21日渡辺、久板、和田、添田等渡辺方に会合の上茶話会及実生活研究会とも一応之を解散することと為したるを以て実生活研究会は1月1日茶話会は同月15日の開会が最終となれり而して渡辺が右の解散理由として表面発表せる処は……従来渡辺が其の配下として比較的多く世話を為し居りし久板、和田の両名が渡辺の行動に満足せずして無断大杉栄の許に走りしを憤慨せる結果にも因るものの如し

1918 1月25日 大杉栄の原稿を村木が横浜の印刷所に依頼して印刷、『先覚者』と題したパンフレットの秘密出版を行う、僅少部数

1918 1月21日 大杉は……久板卯之助を1月21日より和田久太郎を1月23日より自宅に同居せしめた(堺は和田に対し2月4日退社を命じたり)

1918 2月8日 <状勢>大杉は横浜に赴き同志小池潔及吉田只次に面会し雑誌刊行上に関する協議等を為し翌9日帰京

1918 2月15日 夜上野桜木町有吉三吉方に於いて同人及び和田久太郎、久板卯之助等主催にて会合を催し出席者同志12名あり会合の目的は先年刃傷事件以来大杉に対し反感を有する同志をして感情を放抛せしめ将来協心活動すへく一致団結を為すの必要上其等の意見を聞き且従来堺利彦其の他の同志か開催し来りし単純なる講演会式の会合を改め新に実際問題を討議し有効なる運動方式を研究せんとする大杉の発意に基づけるものにして当夜大杉は同志の意向を確かむる為出席を遠慮し裏面に於て指図を為したるが協議事項の大要は左の如し

• 大杉栄に対する反感は此の際之を抛ち一致団結する事、若し未だ其の反感を抛ち得さる事情を有する者は参加を欲せす

• 会の色彩を明確にして純アナキストの会合と為す事

• 講演を副とし実際運動に関する研究及び腹心の同志みに依って実際運動の協議を為す事、但し講演を為す場合は大杉、山川、荒畑の三名中より選むこと

• 会合を毎月一日、十六日の両■と為す事(第二回は3月1日)

• 毎会合の都度■当運動資金を貯集する事

• 各友愛会(法学士鈴木文治主宰)員の私宅を訪問し参会方を勧誘する事

• 今後の運動に対する決心、各自堅実なる決心を以って従来に於ける惰気を打破するに努力する事

十(八と九が抜けているが調査書の原本記載通)時機を見て堺利彦■と立会い演説会を催し各派の色彩を明らかにすへき事

註 有吉は1914年5月に上野桜木町に移転、当初は百瀬晋が同宿<橋浦時雄日記>

名称に関して、「労働問題座談会」とアルス発売元の大杉全集に記載され、近藤憲二さんの後の回想でも同名を使用しているが、当時の調査書は「研究会」という呼称で標記している。橋浦時雄日記でも橋浦は「集り」としか記していない。検討事項。

<状勢>大杉は又同志の会合を催さんことを計画しつつありしが久板卯之助、和田久太郎、有吉三吉と共に主催者となり2月15日有吉方に於て第一回を開催せり……

1918 3月1日 上野桜木町有吉三吉方に於て和田久太郎、久板卯之助及有吉等の主催者となり同志の会合を催し午後11時頃散会せり出席者は21名にして当夜は「我々は如何に運動すべき乎」の題下に研究を為す筈なりしか各自任意の問題を捉えて座談することとなし大杉は左の談話を為せり

同志の会合例会に於て左記の談話を試みたり大杉栄の断片「今後<ストライキ>が起これば他の工場

1918 3月11日 大杉竝に久板卯之助、和田久太郎等の主催に関わる同志の会合は…3月16日に開催すべき例会を繰上げ…有吉三吉方に於て開催せり参会者28名にして席上和田久太郎は前日の顛末を述べ更に大杉は左の談話を為せり「一日の会合に僕は今後の運動は全くの実行運動でなくてはならない……それから日本堤に於て実行された訳なのだ、それで自分自身の考を実行したのだ他の三名に迄迷惑を及ぼした事は謝らねばならない訳だ、一日の会合に於て三名の者も僕の為に共鳴し同成したものと思う斯かる運動の最も大なるものは一揆である……又マラテスタ21歳の時伊太利で武装して二ヶ村を占領して登記所へ火を放った……僕は諸君に一揆的運動を直に起せと強要するのではない……又僕等の同志は何時如何なる場合も如何なる問題で引張られかも知れない又全く無関係の者でも引張られるか知れない……大逆事件に於ても全く無関係の者が殺られた事実は之を証明して居る、又僕は自分の経験から話して見る……入獄--死刑それ等を恐れる様な意気地なしで何か一つでも出来得ざる、僕はそういう覚悟決心の許に仕事をして行く人達が欲しい、斯様に云ったからと云って直に入獄し殺される様な仕事をしろと云うことはない、少くも左様な覚悟、決心の常に持って欲しいと云う……僕は常に強権に反抗する而旨して僕の此反逆心は日毎に熱を加えて来た云々

1918 3月15日 堺は上記の外又渡辺政太郎、久板卯之助の主催に係る茶話会(労働青年講演会とも称せり1918年1月15日開会後解散す)及上記2名が和田久太郎、添田平吉等と共に主催せる実生活研究会(1918年1月1日開会後解散せり)竝渡辺の主催に依り開始せる社会主義研究会(1918年3月15日第一回を開会したるのみ、其の後渡辺は死亡せり)等に高畠を派遣して主義に関する講演を為さしめ自己も亦時に出席して講演せることある等常に同志の行動を援助し………

1918 4月1日 有吉三吉方に於て同志研究会を開催せしも…

1918 4月7日 <状勢>小池潔は中村勇次郎と共に上京し同日大杉栄の主唱に依り開催したる露国革命記念会に出席

1918 4月16日 同志の研究会例会 14名

1918 4月26日上海出発同28日長崎に帰来同5月1日同地出発同月7日大阪に著し………同18日出発同22日再び長崎に著し翌23日……25日上海に復帰…長崎滞在中は同志呉塵と会合し主義伝道上に関し意見を交換して互いに奨励する処ありたり

1918 5月1日 社会主義研究会を開催せり 12名

1918 5月1日 欧米では恰も本日はメーデー……我国に於ても何か記念になる様な慣習を作って置きたいと思う……最近の露国の新聞に依れば露国では無政府主義の運動を為すには黒旗を持て居るとの事だが従来の赤旗よりりは黒旗の方は面白くもあり又芸術的でもあるから今後我々の運動には黒旗を印として用ゆる事にしたい云々

1918 5月   『労働者』創刊 和田久太郎、久板卯之助

1918 5月6日 <状勢>友愛会小松川支部の講演会に聴衆として和田を伴い出席「労働新聞」を配布

1918 5月15日 主義者研究会を開催<状勢>大杉栄、和田久太郎、有吉三吉等の主催に係る無政府主義研究会は出席者は毎回20名内外

1918 5月15日 <状勢>会合の席上大杉は「無政府主義と労働者」と題し「凡そ労働者は無政府主義に到達すべき運命を持し居れり労働者が自覚するに於ては必らず無政府主義にならねばならなぬ無政府主義に依らされば労働者の真の幸福は得られざるものなり云々」と述べたり、続きは<調査書>元来無政府主義は初め英国に於てゴッドウィンの主唱し次で佛のプルドン露国のバクニン……現在はクロポトキンに至りて主義理想として大成するに至れるものなり云々

1918 6月1日 <状勢>会合の際中村還一、山路信之助は大杉、和田の持来りたる労働新聞第三号を各自450部持帰りたりと云う

1918 6月15日 <状勢>近藤憲二等北風会を主催す。近藤憲二、村木源次郎、石井鉄二の3名は主催者となり無政府主義者渡辺政太郎の追悼を兼ね同人の生前開催し来りし「実生活研究会」復活の目的を以て同志の会合を催せり参会者は主義者13名未編入者数名なりしが同志和田久太郎、中村還一、荒畑勝三、村木源次郎、斎藤兼次郎等交々起て亡基渡辺政太郎が終始一貫主義の宣伝に努力し同志として光栄ある最後を遂げたる懐旧談を為したる後一同「露西亜革命の歌」を合唱し渡辺が生前開催し来りし「実生活研究」の復興に関し協議を為し左の如く協定せり

(イ)会の名称 「北風会」(北風は渡辺の雅号)と称すること

(ロ) 責任者 近藤憲二

……和田久太郎は出席者一同に労働新聞第三号及故渡辺政太郎の肖像絵葉書一葉を配布したり

1918 6月18日 和田久太郎と共に同志の主義研究会を開催せり

1918 7月1日 主義研究会 信友会会員8名の出席を見たり

<状勢>会合の席上大杉は露国革命に関する講演を為す…「自分は現在に於ては運動方法としては寧ろ伝道主義を先にするを得策とするも而かも当局の圧迫加わる程度に依ては暗殺主義を実行するやも知れず云々」と述べたり

1918 7月8日 大杉、伊藤、北豊島郡滝野川町大字田端に移転

1918 7月11日 大杉栄、林倭衛、避暑と活動資金確保のため福岡、今宿に向かう(伊藤野枝は6月30日より滞在)

1918 7月15日 <状勢>例会車隆三は雑誌青服第4号(8月1日発売、発禁)

1918 7月21日 <状勢>北風会の席上水沼辰は自由労働者の主義の宣伝を試むる希望なることを語り……

1918 8月1日  『労働新聞』4号で終刊、「発禁処分が続いた」新聞紙法違反で 久板5ヶ月、和田10ヶ月の禁錮刑

1918 8月1日 <状勢>例会、労働新聞、平民の鐘を配布

1918 8月4日 大杉栄、伊藤野枝は東京の久板卯之助より30円を電送される(以下の関西行動の記述も含めて『要視察人状勢一斑』における記述)

1918 8月6日 大杉、伊藤、今宿を離れ、門司に宿泊

1918 8月7日 大杉、伊藤、下関の「関門報知新聞社」を訪ね、旧知の記者、林京祐と会う。門司に引き返す

1918 8月8日 大杉は再び下関の林京祐に会う、二人で門司に行く。大杉と伊藤は汽船で神戸に向かう

1918 8月9日 大杉、伊藤は神戸に上陸、夜半に京阪電車で大阪に向かう

1918 8月10日 大杉は「大阪毎日新聞社」に和気律次郎を訪ねる、岩出金次郎、武田伝次郎、逸見直造を宿泊先の旅館に呼ぶ

1918 8月11日 伊藤野枝は帰京、大杉は岩出方に転宿、夜11時過ぎ岩出、武田と共に暴動の状況を見物

1918 8月11日 南区日本橋筋三丁目に到りしとき(翌12日午前2時過)大杉は一巡査に誰何せられたるを憤り同所に居合わせたる警部補に向って<自分に対し何者かと称するは不都合なりとて>挑発の議論を始め……大杉は南区難波河原二丁目に於ても<一団の暴徒が米商を襲うと脅迫して米を廉売せしめ居る状を見て連行の同志に対し窮乏者が所有する者の手より奪取するは当然のこととなり>抔の言語を漏せり

1918 8月12日 大杉は午後9時頃より岩出、逸見他1,2名の同志と共に暴動の状況を見物、西成郡今宮町、南区日本橋筋をまわる

1918 8月12日 大杉は<今暫く此の勢いを以て押し進めば必ず面白くなしものを>抔と語りたり

1918 8月13日 大杉は京都に向かう

1918 8月14日 大杉、大阪の岩出方に戻る

1918 8月15日 大杉は岩出、逸見、京都からの山鹿から旅費を提供され東京に向かう

1918 8月15日 山鹿泰治を引見して岩出と鼎座し談話せる模様あり次て逸見直造、相坂佶外1,2の者来訪会談せり其の際大杉は<自分は今回の暴動事件を目撃して社会状態は愈々吾人の理想に近づきつつあるを信ず而して今日の勢いを以て進めば茲幾年を経ずして意外の好結果を来す哉も計り難し政府も今度計りは少々目を醒ましたるならん貧者の叫び労働者の狂い団結の力民衆の声鳴呼愉快なり

自分の考えにては幾年と云う期間を待たずして此の儘革命を実行し得らるるやも知れず去れど現今の叫びは単に労働階級の人のみなるを以て何人か之が率先者として蹶起するにあらざれば折角の蜂起も水泡に帰するの処あり尤も今後如何程の犠牲を払うとも決して本運動を中止するは不可なり飽迄も運動を継続して猛信せば必ず何人か傑出することあるべし露国今日の状態は面白からずや日本も同様の結果を見る迄は吾人互いに相戒めて軽率なる行動を為さざる様心掛けざるべからず云々>

1918 8月16日 大杉、帰京、行政執行法第1条により21日まで検束

以下は<調査書>による記述

1918 8月16日 大杉栄は旅行中、米価問題に関し各地騒擾の際なりしが左の言動あり

(イ)福岡県糸島群今宿村滞在中往方の糸島新聞記者中村薫に対し自分は社会改善の為全力を傾注する考えなるが如何なる方法に依り改善するかは具体的腹案もなく又発表する限りにあらざるも中央の権力を今少し自治団体に移し現在よりも強大なる団体を作り以て人民の生活を容易ならしめたしと考う然るに本年春頃より政府は著しく吾等に圧迫を加え伝達機関たる印刷物の発行都度発売頒布を禁止せらるるを以て他の方法に依り伝達するの外に至れり政府吾等と思想を同うする者の団結を恐れ斯る圧迫を加えると雖も吾等と思想を同うする同志多数なるも以て圧迫も憂……云々と語れり

(ロ)8月10日逸見直造は大杉栄を訪問し時節柄労働相談所の如きものを設置し労働者就職口の引受又は工場法等の規定に依り当然受たべき権利の主張を彼等の知識能力足らざる為終に泣き寝入りになるが如き事項を該相談所に於て救済することとせば労働者の利益大ならむ云々と談りたるに大杉栄は<夫れは結構なる事にて若し左様の事が実現せば応接の為同志一人位下阪せしめても宜し云々>と答えたり

(ハ)8月11日岩出金次郎方に滞在中同人及来訪せる武田伝次郎等と対談中天理教は其の伝道方法は嫌忌すべき点あるも決して同教は不可なるものに非ず自分は曾て之を研究したる処社会主義に一致する点ありて甚面白きものなり云々と語り之等の者と共に同夜市内に於ける暴動の状況を見物……(以下状勢一班と同テキスト)

(ニ)8月12日……貧民部落を一巡せり

(ホ)8月15日……(以下状勢一班と同テキスト)

1918 8月21日 大杉は検束は解除

1918 8月21日以降 大杉は検束処分を受け21日解除せられし当時本人は同志に対し左記の如く語れり

<大阪に於ては米屋の襲撃焼打、警察軍隊と群集との衝突状況等を見物せりり群集中に混じって彼等の談話せる処を聞くに中には殆ど余等同志の所懐と同じきもの尠内なからず真に愉快を感じたりり兎に角今回の騒擾に徴すれば群集が集合せば必ず何事をか為し得ること疑なく斯る際には警察力は敢て恐るるに足らず然も軍隊の出動に依り軍隊に対して人民の反感を誘致したるは面白き事実なり斯く軍隊が出動せる状況を見るに将来斯る出来事の起りたる際には爆弾等の必要あるを覚えたり然れども米騒動よりも山口、福岡等に於ける炭坑夫の暴動は更に一層重大なる意味ある現象として同志の注意を要する処なりり云々>

1918 8月24日 記念茶話会と称して開催し席上同人は約15分間に亙り大阪に於ける騒擾目撃談を為し<騒擾を見て愉快に感じたり就中面白く思いたるは兵士と人民の衝突なり云々>と口外せり28名

1918 9月1日 主義研究会例会 22名 

1918 9月15日 主義研究会例会 大杉栄は病気の為欠席 13名
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# by tosukina | 2011-09-28 03:03

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の六

1918 10月1日 同志の主義研究会 大杉病気の為欠席

1918 10月15日 同志の主義研究会例会 出席者は大杉一名のみなりし為流会となれり

1918 10月 同志村木源次郎は宿病肺患者次第に昂進し到底余命を保つこと覚束なしと医師より宣告せられたる為危険なる行動に出て以て死語を飾らんと放言し居りしが其後一時減退し歩行も差支なきに至りたる為1918年10月初旬同志より見舞い金を受け転地療養を試みむとせしが之を中止し大杉と来往し居れり大杉は村木に対し其の余命長からざるべきを諷し人生畳の上にて死すべからずと暗に危険の行動に出つべく扇動せりとの聞えあるのみならず村木に対し近来特に懇切を尽し村木に対する見舞金拠出を斡旋し大石七分より金50円を送り林倭衛も亦相当の見舞金を送りたりと云う(1918年11月警視庁報) 

1918 11月1日 同志の主義研究会 13名 大杉の談話 和田、久板……入獄後の状況、話題を転じ近くドイツには革命起るべきこと及戦後は各国共失業を生ずべく日本に於ても種々の労働問題を生図ずべきこと論及せり

1918 11月11日 欧州戦乱休戦条約成立、大杉は次の如く語たれり 休戦条約の締結……独逸革命は至極平穏に行われたり……真正の革命と……到底労働者階級を満足せしすること能わざるべしと思惟す而してリープクネヒト等一派の過激思想……一方労働者は既に自覚し居………此の現状を永く支持する……而して仏国も英国も……其の後を追うに至るべく遂に米国をも転覆せすしば置かざるべく其の潮流は日本に…襲来すべしし米国にては既に大統領が其の準備を為し居るが如き日本は如何に之を……刮目に値す何れにせよ尚少しく戦争が継続せば更に面白く………云々…

1918 11月15日 同志会合に出席 独逸革命に関し左の如く述べたり 独逸其の他の影響を受け…先の……其の波及が日本……我々同志の勢力が其の際或る程まで発達し居れば……日本政府もありて出したるものなりと評し然るに内務省に於る組合公認説も……真正の労働組合運動を阻止せんとするに過ぎず

1918 12月1日 大杉栄、同志会合には欠席、村木源次郎談中「…窮すれば人の物をも奪うべし……」

1918 12月1日 <状勢>秋田県在住山本智雄は1918年施行徴兵検査に合格し同年12月1日第八師団(弘前)に入営することとなりしが同年8月5日無断家出し其の後上京大杉栄の許に出入りし同志と交際を結び大杉の主催せる無政府主義研究会及近藤憲二等の主催せる北風会等に出席せり本人は徴兵を厭忌する念を有し同年11月3日を付を以て郷里在住の知人加藤助治なる者に宛てたる書信中左の一節あり「……国防と国家とかいうものをば全然認めていない僕から観れば誠につまらぬものにしかおもえぬ。……三年間のうちにたとえ一人りにもしろ同志を多く造り且つ軍隊内に少しにしろその思想を宣伝し得るだろうと、勇んでいる……」

…………斯くて本人は11月25日同志村木源治郎、延島英一等の見送りを受け郷里を経て入営地に向い………軍隊に於て「入営後の所感」を筆答せしめたるに軍隊の無意義なること之が圧制残虐に反抗せざるべからざること等の文意を記述し又……頻りに大杉栄其の他の者に宛て主義上の通信を発したり尚本人は入隊の際密かに無政府主義に関する出版物及「趣味随想」と表記したる手帳並仏国無政府主義者の機関紙に掲載したる「新兵諸君に与ふ」と題し軍隊軍人の不法のものなることを述べたる記事を筆記したる手帳を携帯せるが右「趣味随想」なる手帳は1918年1月以降の日記にして其の第1頁に「ああ革命は近づけり」と朱書し記事中左記抜粋の項あり

一、3月29日のヶ所に大杉よ葉書及文明批評二冊其の他の送付を受けたること

一、……自分は無政府主義者なること

一、……「……第一に自由を束縛されるから第二に労働があるから第三に殺されるから第四に道徳上最悪を認めるから」と記せり

一、11月3日のヶ所に「大杉氏に計りたる件進捗せしむべく今宵同志の会合に出席の予定なりしも気分悪しき為中止せ云々」……

一、最後11月15日のヶ所には露国の現状より………「そこには天皇など云う偶像もないであろうし、それに対する土下座もないであろう……ああ……」と記せり

 其の後本人は更に身体検査の結果近視眼の為同年12月12日兵役免除となりり……同月20日より小石川区指ヶ谷町なる若林ヤヨ方に奇遇し同月26日より…博文館印刷所に校正係りとして雇われたり

1918 12月15日 <状勢>北風会、中村還一、水沼辰主催にて忘年会を兼ね開催席上村木は自己の革命家となりりたる理由なりとて述べて曰区く「革命家となり革命の点火者たらんと決意せしものにて決して豪傑振るにあらず已むを得ざるに出てたるなり云々」
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# by tosukina | 2011-09-28 02:06

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の七

1919 1月1日 大杉栄は自ら主催者となり……有吉三吉方に同志の新年宴会を開催せり出席者は大杉以下19名にして席上大杉は<本年は革命の新年を迎えたるが如き心地す、日本も非常なる変化が来るにあらざるやと想像せらる併し想像なればあてにならざるも又あてになる様な気持もするを以て我々も一層運動せむと考え云々>と述べ夫れより酒食をなして散会せり

1919 1月15日 大杉一派の研究会は近藤憲二等の主催し来りたる北風会と合同することと為り有吉三吉、高田公三、近藤憲二主催名義を以て1919年1月15日午後6時より小石川区指ケ谷町92番地若林ヤヨ方(北風会会場)に開催出席者26名にして有吉三吉立て従来自分宅に於て月二回(1日15日)若林方に於て月二回(第一第三日曜)併せて四回会合し来れるか会合者は殆同一なるを以て北風会主催者及大杉等相談の上自分方の会合を廃し自今渡辺方にて毎月1日15日二回会合することに決定せり尚今後会同者は出席毎の会費以外に一カ月二十錢位を出金し若林方の家賃を補助すると共に同家を同志の倶楽部と為し主義に関する書籍を備附し図書館的のものとしたし又本会は理想的に主義の研究を為すと講演会とに止め一切実際運動は為ささること実際運動を為したき人は各自随意に為すことにしたし次に講演者は大杉、高畠、堺の諸君に依頼し或いは会合者中のものより意見を発表することとせんとす諸君の意見を問うと処へ有吉の主張の如く左の諸件を協定せり

(1)自今若林方に於て1日15日の二回会合すること有吉方の会合を廃止す

(2)若林方を同志の倶楽部と為すこと

(3)倶楽部は会員組織とし会費を徴収して若林方の家賃に補助すること 但し会員名簿は作製せさること

(4)主義に関する図書を蒐集し閲覧随意とすること

(5)会の世話人は三名とし毎月交替とすること

但し第一回の世話人は有吉の指名にて村木源次郎、吉田一、松本某と決定

 以上協議事項終了後……普通選挙運動論……

○前記北風会と合同せる主義者の研究会は所謂硬派軟派の混合にして果して成效するや否や疑わしと同志の前部の者は批評し又図書蒐集に就ては大杉は殆と蔵書なきを以て之を同志中より借り集めむとするものの如きも主義に関する書籍の多くは禁止出版物なるを以て公衆に閲覧せしめ押収せらるることなきやを危惧し出品を難んする色あり傍決議事項の近接は困難なる状況にあり

1919 1月20日 1918年9月23日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして1919年1月20日東京区裁判所に於て罰金100円の判決を言いわたされしか其後控訴の結果同年3月17日東京地方裁判所に於て無罪の判決言渡しを受けたり

1919 1月26日 堺利彦等の経営せる売文社に於て群馬県在住同志蜷川直枝と会合し相携えて黒瀬春吉方に於て酒食し転して吉原に遊興宿泊せるか翌27日本人の住宅は火災に依り類焼せるを以て伊藤ノエ等と共に一時同志山田齋方に仮寓せしか程なく一戸を構え移転せり

1919 1月27日 北豊島郡日暮里町に移転

1919 2月1日 ○若林方に前記合同の主義研究会を開催せり出席者28名にして堺利彦は欧州各国の労働及革命運動に関し講演を試み次に本人(大杉栄)は堺の講演の労を謝したる上「講演の趣旨に就ても反対すへき点なきも同君か今夜御招きに預て来たと称せられては如何にも他人行儀なり云々」と述へたり次て………

1919 2月3日 大杉、伊藤、北豊島郡滝野川町大字西ヶ原に移転

1919 2月15日 北風会及大杉等の合同に係る主義者の会合は例会を荒畑勝三、山川均両名出獄歓迎会と称して開会し山川は病者の為不参出席者31名にして荒畑は「英国の労働組合条件復旧問題」に関し講演を為し次に…大石七分…吉田一、延島英一等の感想談あり……

1919 2月15日 ○会費 24名

近藤憲二 ■■■新之助 荒畑勝三 村木源次郎 水沼辰 日吉?春雄 江渡富三郎 有吉三吉 吉田一 ■本智雄 中村還一 高田公三 斎藤兼次郎 ■田新太郎 ■隆三 幸内久太郎 延島英一 添田平吉 吉川守国 野村英治 以上主義者

1919 2月23日 〇吉田一、発起小集会に出席

1919 3月1日 〇合同の主義者の例会 大杉の発言「久板の出獄」 不日久板卯之助が出獄するに付可成多数出迎ありたし久板は罰金三十円の労役を勤むる筈なりしも京都の同志山鹿泰治が送付し呉れたる為罰金を納付し出獄することとなれり山鹿は熱心なる無政府主義者にして今回も京都に於て印刷物を出版し拘引せられたるものの如く新聞には種々記載しあるも詳細は判明せず云々

 次に衆議院に於て政府に社会主義者取締の質問を為したる代議士鈴木富士■より書面あり近々議会に於て更に一大演説を為さむとするに付其の資料として従来政府より受けたる言論出版の迫害事実を詳しく通知し呉れとのことなり依て余は其の返事に君は社会主義にも種々あり………図書館創立委員会

1919 3月9日 黒瀬春吉 月刊資本と労働 「労働問題引受所」

1919 3月15日 <状勢>久板卯之助出獄歓迎会、荒畑は前回講演を継続(英国労働組合条件復旧問題)、大杉は自己は「無政府主義的新労働組合主義」なることを述べる

1919 3月 呉塵、帰国 長崎医学専門学校に在学せる中国人無政府主義者呉塵は通学の余暇主義の研究を為し其の後<レーニン>一派の露国過激派の主義に賛同するものの如くなりしが1919年3月同校を卒業し3月25日同地を引払い………青島民政部済南医院に就職を願出でたる事実あり

1919 4月3日 大杉栄は神武天皇祭を卜し同志の観桜会を開催せんとし吉川守国、中村還一、近藤憲二、吉田一、斎藤謙次郎、水沼辰、山崎今朝弥等世話人名義の下に同志に案内状を発せり……北豊摩郡滝野川町大字西ヶ原313番地なる大杉方に20数名の同志集合し酒食を為し一同大酔の上午後3時頃其の内17,8名は浅黄色方二尺許りの旗を押し立て(旗には羅馬字AWの二字を赤布にて縫い付けあり無政府主義に関する標章なるが如し)飛鳥山に至り革命歌を高唱し演説様の戯態を為し大杉方に引揚げたり(附記)同夜一同大杉方に引揚げたる後大杉以下13,4名の同志は王子警察分署に出頭し同志中私服警察官に殴打せられたるものあり其の当事者の責任を糺されたしと申立たるも其の事実なく署長より懇諭せられ一同引取りりたり

1919 4,5月頃 深町作次、山鹿泰治の秘密出版事件に関し家宅捜査を受ける、<経済時報社>経営に従事し居り同社の印刷機械、活字購入等の為内地に来往し其の際当時長崎市に在留せし中国人無政府主義者呉塵と往復せしことあり

然るに1919年4,5月頃無政府主義を鼓吹せる秘密出版物『平民の鐘』及『革命歌』を上海に於て日支新聞社並邦人経営の著名なる銀行会社等に宛同地日本郵便を以て配布したるものあり深町は之に関係せるやの疑いありりしを以て同地日本官憲に於て本人の家宅及印刷所を捜索したるに無政府主義に関し次の出版物を発見押収せり

一、平民の鐘(漢訳) 一、無政府議説 一、無政府主義 一、破神執論 一、軍人の宝筏 一、総同盟罷工 一、世界風雲 一、民声社記事録 一、民声叢刻第一集 一、伏虎集 一、実社自由録

右冊子は上海に於て中国人無政府主義者師復の経営せし民声社より2,3年前継承せるものなりと云う右冊子中民声社記事録(1917年4月1日発行)中『日本無政府党の近況』なる題下に山鹿泰治の報道を記述せる箇所あり而して本件『平民の鐘』及び『革命歌』は山鹿泰治が秘密出版せること判明せり

1919 4月1日 <状勢>北風会例会の席上久板は「如何に千万の労働組合を作るも無政府主義の自覚なき組合ならば革命に何等の用を為さざるのみならず革命の機を失わしむるものなりり云々」と述べたり

1919 4月2日 吉田一方 労働相談部茶話会 大杉、開催

<状勢>同志吉田一方に於ける「労働問題茶話会」例会に大杉栄は同志黒瀬春吉、五十里幸太郎、久板卯之助、近藤憲二の5名と共に労働同盟会(黒瀬春吉の主唱せるもの)の印絆纏を着用して出席せり <調査書>大杉談話労働者は労働者同志相団結して初めて真の勢力を生ずるものなりて

1919 4月3日 観桜会

1919 4月15日 若林方 大杉一派に属する主義者の例会を開催し、演説

1919 4月16日 浅草貸席江戸家 黒瀬春吉主催 労働問題演説会に出席

1919 4月20日 北豊島郡南千住町 吉田一主催に係る 労働相談所茶話会 出席

1919 4月21日 ○府下北豊島郡王子町所在王子演芸館に於て杉原正夫の主催に係る労働問題演説会に出席し居たるに下村の演説中社会主義を論難する如き口吻ありしかは大杉栄、久田卯之助、石井鉄治、吉田一、延島英一等数名は演壇に押寄せ延島の如きは演壇にありしコップを投げ付くる等暴状を敢えてし大杉は主催者の許しを得て自ら演壇に立って下村の説を反駁し且つ自己は社会主義者にあらす自己の主義は他にありて先つ労働者の生活改善を為さむとするにあり労働者は今日の生活即ち時間の制限賃金の要求工場の設備を改善せしむるに在りと述へて壇を下れり

1919 4月22日 ○石井鉄治等をして雑誌『労働者』を発刊せし

めしか之より先本名(大杉栄)は黒瀬春吉を訪ひ近来実際運動に遠り居るを以て一味の同志は離散する虞れあるに付之か予防策として石井鉄治、中村還一、吉田一等に金十円宛の資金を与うえく苦心し居れるも金策意の如くならさるを以て何分の援助を頼みたるに付黒瀬は故実父知己なる東京瓦斯株式会社々長久米良作を訪ひ雑誌『労働者』の広告料として金三十円を貰い受け来りて之を大杉に交附せるに其後石井鉄治に十円を交附したるの外残余は自己に於て消費せるにより同志の反感を買い居るなりと

1919 4月23日 ○以降大杉は内縁の妻伊藤ノエと共

に千葉県東葛飾郡葛飾村大字小栗原、斎藤仁方に移転し… 

1919 5月1日 若林ヤヨ方大杉一派に属する主義者例会を開催したるも当夜は大杉以下多数が神田青年会館に於ける東京毎日新聞社主催労働問題演説会の傍聴に赴き出席者出席者十五名なりしを以て何等纏りたる談話なく黒瀬春吉の労働運動を批評して散会したり

1919 5月4日 ○横浜市磯子町偕楽園に開催したる京浜間特別要視察人の遠足会竝に集会に出席したり右は神奈川県編入小池潔、中村勇次郎等か旧交を温むる意味にて遠足会を催したるものにて何等の意味なしと称し居れるもどうげ5月4日偕楽園の会合に於ては左の決議を為したるものの如し

 東京に於て堺利彦『新社会』高畠素之『国家社会主義』山崎今朝弥、山川均執筆の『社会主義研究』は各機関雑誌を発行せるを以て在京同志間の消息を通せさる地方主義者間に於ては大杉も亦此等の者に共鳴行動共にす■ものと思椎せらさるは遺憾に付同人の機関雑誌を発行し之か誤解を説くと一方には地方地盤の開拓の為さんとし吉田一らをして之か実行を為さしむ■■とに決し既に若干の資金……を同地に於て調達したりと而して右雑誌は東京に於て出版するときは容易に発見■■■■を以て横浜に於て適当な出版所を選定せりと而して横浜に於ても月一回位同志の会合を催すの計画を為したりと(神奈川県編入小池潔、中村勇次郎名簿参照)

1919 5月15日 神田青年会館内 開催 黒瀬春吉主催 労働同盟会演説会に出席

1919 5月15日 若林方 主義者例会に出席 荒畑講演

1919 5月20日 南千住町 吉田一主催 「労働相談所」茶話会に出席演説「英国労働界の状況……」外国よ来りたる新聞記事中に面白き事項ありとて英国労働界の状況を述べ英国当りにては8時間労働の如きは既に過去の問題にして現在に於ては6時問題に移り之を調査する為資本家より400人の委員を出し居れり然れども若し此の6時間問題が通過するときは次には4時間、5時間の問題提起………英国労働者は多年運動の結果今日までは短時間の労働にて多くの賃金を得居れり或は時間問題を解決し終れば次には資本家の鉱山なり其他の生産機関の引渡を迫るなるべし……

1919 5月25日 午後3時 千葉県葛飾村 富士山三郎方物置場前

同村駐在巡査安藤清か巡回の際大杉は他の尾行巡査に対する余憤を以て同巡査を鉄拳を以て左頬を殴打 治療十日を要する傷害を加えたる……7月23日 午後5時拘引状を執行 …8月4日東京区裁第四号法廷に於て尾立判事の係りにて開廷せるか大杉は左の如く自白せり「…尾行は恰も犯罪人を取扱うか如き遣り方にて……家の中まて来たりたる…再三其不都合に対し注意を与えたる而も又今回家の中に来り種々煩さく問いたるを以て殴打したり云々」

1919 5月28日 亀戸町寄席長楽館労働同盟会演説会に出席

1919 5月29日 午前9時頃より村木源次郎と共に東京監獄に至り在監中の和田久太郎に面会し和田の実父が病気危篤の旨を告け且つ和田及延島英一等に対し差入を為したり

1919 6月1日 若林方 大杉一派に属する主義者例会に出席 演説「…労働運動の精神」の序論を述べるとして労働運動とは労働時間の短縮賃金の増加及労働者の生活を向上し生物としての生活を為さむとする等にあるも是等の諸問題は未だ自覚せざる時代の労働者の希望にして此の程度のものは資本と労働の調和位の所なり真の自覚したる労働者の希望は此の以外に精神的な希望あり之即ち近代思想にして之を分ちて二となす一つは自意識とも称すべく自由とか自治とかを欲求するものなり一つは社会心理とも称すべき現代の社会制度を調査することにて之を調査するときは社会の欠陥を明にし全ての社会は平等なるものなることを知るを得べし此等が労働運動の精神と為りたるものなり云々

1919 6月2日 南千住町 吉田一方 開催「労働者相談所」例会に出席

1919      大杉は目下「クロポトキン」の自伝を翻訳中

1919 6月7日 横浜市戸部町2丁目47番地 吉田只次方に開催したる京浜間特別要視察人の主義研究会に出席 尚大杉は小池潔と会談の上労働相談所を設け労働期成同盟会なる看板を掲出し且つ出版物をも発行することとしかり <状勢>京浜同志定期会合、第一回 横浜市戸部町 大杉栄以下在京同志4名……「横浜労働問題期成同盟会」を設置する 

1919 6月15日 若林方 大杉及び近藤憲二等の主催に係わる主義者定例集会(研究会と北風会と合同したるもの)に出席し「労働者の自治的運動」と題し演説 本題は前回講演せる続きとも称すべきものとにして前回は労働時間の短縮とか賃金増加と云うが如き物質的方面を説明せしが本題に於ては精神的方面を説明せんとす換言すれば近代思想が労働運動の精神となるべきものなり更に之を譯言すれば自我の発達にて労働者も自己の人格を認められたしとの要求なり生活も人間らしき生活を為したんとの要求なり人に支配せられず自分のことは自ら治めんとする要求なり現在に於る労働者なるものは全く人格を無視せられ居るにあらずやとて精神的方面に於ける労働者の要求を委細説明したり

1919 6月18日 大杉栄、伊藤野枝、両人共上京同夜は指ヶ谷町92番地若林ヤヨ方に止宿せるが翌

1919 6月19日 19日本郷区駒込曙町13番地室田景辰貸家に移転したるか家屋主は6月末日迄茂木(久平)に猶予(本家屋は曩に茂木久平に貸与したるも家賃二ヶ月分滞納せるより家主「六月末日限立退迫られ居りし」か茂木は六月十日他に移転したり)したる期間中一時居住するもならんと思料し居たるに其後大杉は引続き居住し家主より厳談立退を試みしも移転の模様なきより弁護士勝目新平に依頼し7月2日大杉に対し不法占拠明渡訴訟を東京区裁判所へ提起せらる
1919 6月25日 巣鴨監獄へ入監の延島英一は9月24日刑期満了したるを以て大杉等は之か出獄出迎えを為せり

1919 7月1日 若林方 大杉一派に属する北風会例会を開催し雑談合議 25名出席

国際労働会議へ労働者にして代表し得る者を派遣するか或は労働を理解し得る者を代表員として派遣するかの二つなり要するに二途何れにせよ労働者には労働者特有の純真なる感情あり此檄情が課しるものありとするも永き間虐げられ踏み躙られて育ぐまれたる感情にて之れ労働者の……資本家に対する反跋権力者に対する反逆的感情は悲惨の生活を内に自ら生したる者にして故に労働者の持つ感情として少なくとも権力階級資本家階級を加われし会議には列席する事は拒否すべきものにして真に労働を理解する者を派遣するに於ては政■■一任するも可なり云々と述べ代表者派遣に反対せり……

結局何等の決定を見ず茶菓雑談後午後十一時半散会し…

1919 7月4日 吉田只次は「労働問題講演会大杉栄出演云々」の建看板を市内戸部町二丁目表通に提出したるを以て所轄戸部警察署に於て本人を召還し……

1919 7月7日 著作家第一回総会に出席 僕は近来日本に労働問題が盛にやかましくなって来る原因及労働問題が日本政府資本家是等の御雇の学者などの問題に叫ばれて居る之が最近一年以来の話である日本の労働問題が叫ばれて来たのは十年二十年にもなるが真に労働問題を叫ぶ様になったのは実に昨年以来の事である其の問題を叫ぶ人々は此の労働問題と云う事に余り注意を向けて居ない人々に叫ばれる事になったのである之には原因がある第一に闘争に依て景気のよい事と物価の騰して景気がよいと云う事である成程もーかる人々はよいが国民の大部分の労働者は生活の不安に陥り即ち此の不安が根本的の原因である。

 政府や資本家が近来……

1919 7月15日 神田青年会館 日本労働連合会演説会に出席 

会場を紛乱せしめむか為め喧噪に渉りたるを以て神田錦町警察署へ検束に附せられし午後10時40分解除せられたり

1919 7月17日 東京地裁検事局帰宅後の言動を偵察するに大杉は今回の犯罪事件を意に介せさるものの如く却って同志弁護士山崎今朝弥を代理人として警視庁正力刑事課長竝美に拘引されたる記事掲載の各新聞社を相手取り名誉毀損、損害賠償の訴えを提起する等豪語し居れり……

1919 7月17日 京橋区貸席川崎家に開催 服部浜次主催 労働問題演説会に出席

解散を命せしか大杉栄等同志2,30名不逞の言動を弄せし…大杉栄等外15名は所轄築地警察署に同行の上検束に附せらる 午前3時頃迄革命歌の歌を高唱

1919 7月20日 検事局へ書類送達と共に同行

1919 7月20日 吉田一方 労働者茶話会例会に出席

1919 7月25日 <状勢>臨時会を開催、労働団体、運動に対する同志の態度、荒畑出席

1919 8月4日 大杉栄は……巡査…殴打傷害…8月東京区裁判所に於て本件公判の際荒畑勝三以下十数名の同志傍聴の為集合したるも傍聴席狭隘なし為同志の過半数入場すること能わざりしに憤慨し荒畑其の他数名の同志は外部より法廷の扉を乱打し「何故に入場せしめざるや」「秘密裁判か」「大杉こんな裁判に服従するな」「警察と裁判とぐるになって居る」等と怒号し已まさるを以て裁判長は椅子を増置し一同を入廷せしめたり大杉は茶を乞扇子を使用し極めて不遜なる態度を以て自己の無政府共産主義者なること等を陳述し次て検事の論告に移らんとするや裁判長は大杉に対し起立を命じたるに之に応ぜざりき次て同月9日傷害罪に依り罰金50円の言渡しを受け同月11日保釈出獄せり

1919 8月9日 傷害罪罰金50円

1919 8月10日 伊藤野枝宛「知れてはいるだろうと思うが、念のために言っておく。保証金弐拾円で保釈が許された。今日は日曜で駄目だろうが、明朝早くその手続きをしてくれ。」

1919 8月11日 午後3時55分 保釈出獄 4時30分 駒込曙町13番地なる仮住所に帰れり 検事は即日控訴

1919 8月   山崎今朝弥等が開催せし平民大学講演会に関する在京主義者の感想左記の通り「機関新聞を発行すると共に大運動を開始する筈にて近藤憲二、和田久太郎、中村還一、高田公三等を纏め尚荒畑勝三、吉川守国、山川均等の後援を仰ぎ■と交渉せる模様なるか吉川守国は熟考の上回答する事とし荒畑は吉川に書簡を以て大杉の申し込みを承諾せは山崎今朝弥との雑誌の発行を■るの外なく既に再三交渉を重ねたるものを■■は如何か又大杉近来の行動は今後注意を要するものなれは御一考を■■しと申来たりたるは不調ならしも大杉等は近来自分等の方針に向ひ……」

1919 8月12日 午後8時頃 日本労働組合事務所に井上倭太郎を来訪3時間に渉り会議せるが其内容は大杉より日本労働組合の主義目的実行手段尚同組合が本年9月頃より開始せんとする講演会に出席の承諾を求めたること近々同組合が主宰となり友愛会を除外したる労働団体有志等に於て友愛会長鈴木文治の行動に対する批判の為め京阪地方に遊説の計画に■れ信友会中の同志をも参加せしめられたきこと

 同組合は篠澤勇作なるものより金一万円の資金供給を受けたるは労働運動の目的に反せざるや否やとの要求或いは質問を為したるより井上は講演会出席の件は承諾し組合主義目的実行方法を説明したる後更に大杉の主義目的実行方法等を反問をしたるに大杉は無政府共産主義なるも実行方法に関しては確信なしとて言明を為ささりしとのことなり尚大杉は8月16日午後8時頃再三来訪せしも井上不在なり……又8月8日主義者黒瀬春吉は山口正憲同伴井上を来訪自己等が計画しつつある国際労働会議に出席せしむべき労働委員の選定に付き同一歩調を採られたしと申出たるも井上は若し鈴木文治が其選に当たるとせば反対なるも其他の件は明言し難しと答えたる由なり

1919 8月15日 大杉と和田の出獄歓迎会、立つ人なり理想的に事実を考え論議せられん事を望むと云い高田公三は絶対破壊説を執り和田久太郎は学者資本家貴族政府の加わる労働運動は之れを破壊し他の純粋なる運動は内部に立ち入り改造すると主張せり 若林方大杉及和田久太郎の両名出獄歓迎会を兼ねたる北風会例会に出席し談話 我々の中にて破壊運動反対者として荒畑、中村の二君あ此の二氏は何時も反対側に立ち…<状勢>席上大杉は自己に対する科刑軽く且保釈を許可せられたるは彼の威嚇運動(荒畑勝三其の他の同志公判廷に於て暴言を吐き騒擾を試みたるを指す)奏効したるものにして将来も傍聴人の義務として活動せられたしと述べたりり次で前回に続き労働団体及之が運動に対し破壊運動を為すの可否を議せり

1919 8月16日 大杉栄、午後8時頃再三来訪せしも井上不在なり

1919 8月16日 本人の講演会は突然場所を変更し麹町特別要視察人服部浜次方三階に於て16日午後7時より開催来会者約47,8名にして重に平民大学講習会に来会せる者にして既に同会に於て入場券を購求したる者多く本人は《労働運動の精神》と題し(用意せし原稿を忘れ来りしを以て簡単なりしと)現時の労働運動の二形式として給料の増加、時間の短縮を叫ばれ居れるも労働者には生物としての要求又人間らしき生活を為すべき要求が奥深く潜み居たるものと思う其生物的要求を充実せしめ押し薦めて行けば社会主義に到達するか或は無政府主義に到達するに至る可しと思うと就きて労働者の自覚を促し労働者は自ら社会の一切の事物を為すの覚悟なかるべからず之れ労働者の精神なりと結び約30分の講演を為せり而して聴衆は本人に対し本題に関し質問応答■■くあり聴衆は午後8時30分散会せり本人等の同志は本人、服部、岩佐を除くの他神田青年会館に開催せる友愛会演説会に妨害を試みるべく出掛けたるも同会は満員の為め入場するを得ず警戒の警察官と押問答を為したる末一同再び服部方に引上げ雑談の末午後9時30分散会せり

1919 8月22日 大杉栄、吉田一の公判傍聴 窃盗竝に電気法違反事件 9月3日、10日も
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# by tosukina | 2011-09-28 01:12

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の九

1919 9月9日の記述 大杉栄は同志荒畑勝三、山川均、吉川守国の三名に対し8月23日午後1時より麹町区有楽町1ノ4服部濱次方に参集方を申込みしか右は豫て彼等の間に果し居られる『労働運動』と題する定期刊行物(毎月1回)の発刊に関する協議を遂げんか為なりしか山川は病気に託し出席せす荒畑又無断欠席し吉川守国のみ一名出席せるを以て何等纏りたる談話等なく更に日を期し会合することとなりたるか該刊行物は大杉栄等を主幹とし伊藤ノエ之が補助となり近藤憲二を会計主任となし外に実行員として和田久太郎(人夫)中村還一(職工係)たらしめ本紙の発行と共に労働運動に関する目覚ましき活動を開始すへく而して大杉栄の計画としては山川均、荒畑勝三、吉川守国、服部濱次の4名を客員として補助せしむへく之に要する費用を三百円とし内二百円は近藤憲二か国元より取寄せ百円は大杉、近藤、中村、和田等に於て調達し保証金は前記四名(客員)にて調達せしめんとの計画なるか山川、荒畑、吉川の三名は大杉の性格上到底永続の見込みなきのみならす借入資金の如きも浪費する必然なりとて体能く断るへく協議せるやにて為めに何れも事故に託し殊更出席せさりしものの如しと云う

1919 8月24日 午後7時より麹町区有楽町2丁目特別要視察人服部濱次方に於て同荒畑勝三等主催の労働問題研究会に出席せり(荒畑勝三名簿参照)

大杉栄は曩に荒畑勝三と感情上の衝突ありしを以て山川均は8月26日早朝荒畑勝三を訪問し種々説く所ありしものの如く荒畑は大杉にして失言を謝罪するに於ては従前の如く共に運動をなすへきも大杉の傲慢不遜にして放縦なる性格は到底改善すへくもあらさるは雑誌発行に表面氏名を出すは好まさるも相当助力を為すを辞せすとて調停を容るることとなりしを以て山川均は服部濱次を訪問し荒畑との交渉顛末を語り吉川守国を招き大杉を説かしむることとし

1919 8月27日 27日吉川は服部と共に大杉栄を宿舎に訪問し山川均と荒畑勝三との交渉の顛末を陳へ君(大杉)の専横は各人の認むる所なれは一応荒畑に陳謝すへしと説きたるに大杉は既に単独となり居るを憂慮し居る折柄とて両手を下けて陳謝するは好まさるも単に失言を謝するは寧ろ当然なれは至急会合すへく取計ひありたしと述へたるに依り

1919 8月28日 28日午後2時より大杉、荒畑を初め山川、吉川、服部、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の八名集合し山川は大杉、荒畑の交渉顛末を陳へて大杉より一応の謝罪を為さしめ更らに大杉の発行せんとする雑誌労働運動の資金其他の方法を協議せるか発行に要する準備金三百円は大杉より支出し(大杉は既に大石七分より借入れ約ありと云う)保証金一千円は高利貸より借入るる筈なるも大杉にては到底貸与するものなきを以て吉川守国、服部濱次、両人にて責任を負うこととなり而して雑誌表面の関係者として大杉栄、伊藤ノエ、近藤憲二、和田久太郎、中村還一の五名となし山川、荒畑等は裏面にありて援助することとなれり而して実際運動として来る9月1日より「北風会」を改称して「平民結社」と名つけんと主張せしもありしか警視庁の干渉あるへしとして「労働同盟会」となすことに決し三章位の綱領を以て近藤憲二、和田久太郎、中村還一の三名をして主宰たらしめ更に荒畑勝三の「労働研究会」は二、三ヶ月の訓練を為したる後之に併合し一大結社となすことに決定したりと云う

 追て北風会組織変更に付いては各同志へ既に通告状を発しありて9月1日例会席上協議するものの如し又当日堺利彦出席する通知あるも大杉との打合上出席を断わりたる由

1919 8月30日 吉田只次方 「大杉出獄に対する慰安を名とせる」京浜主義者の会合に出席

1919 8月31日 <状勢>大杉栄出獄慰安会、吉田只次方。吉田只次は本会合を機とし自宅に同志の団結機関として「赤旒会」なるものを設置せり

1919 9月1日 午後8時小石川区指ヶ谷町92番地特別要視察人若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に出席せり<大杉栄>

…次の当夜会合の主要問題として北風会組織に関し近藤憲二起ちて本北風会は故渡辺政太郎■宅当時有吉三吉氏主催の会合と合同以来盛況を以て…近頃単なる研究的会合にあらす新同志か加わり且つ実際運営に入りたる事は充分認識し得らるへし就いては北風会なる名称者か茶人風かの如くに見え一般社会に労働者の会合たるの感想を抱かれるに能わす故に此の際純然たる労働何…水沼辰は之に反対し組織の変更せば必ず官憲の圧迫を受け我々唯一の会合は為に之れが運動方法の如き具体化するは賛成なるも労働者其者か忽ちにして労働を棄て運動者と化するは遺憾にして彼の吉田一の如き好事例なりと事例を引用し労働の傍ら運動を為すの要を就き前説に賛成せす

次て中村還一、斉藤謙次郎も同様之には賛成を為せり

次て和田久太郎、服部濱次は近藤の提案に賛意を表し

宮島信泰憤然として「馬鹿野郎何と吐かす俺は水沼に大賛成だと怒号に起ちて労働者が労働しつつ労働問題を説く処に…大杉、荒畑の如き筆の人は労働者にあらす彼等は如何に社会を利する生産を為すやと攻撃して退場せり」

而して服部、荒畑等も続いて退場したるも残留員に於て具体的運動に…具体的運動に賛成し組織方法に関しては次回(15日)に譲り午後11時散会せり

〇尚本名<大杉栄>は雑談中左の談話を為したり

(9月3日吉田一の公判傍聴の件…)

予と近藤、和田、中村の四名を以て労働運動と題する雑誌の発刊を計画し明日より準備に着手し10月1日第1号を発刊せんとす内容の詳細は9月15日の会合に発表すへし十分の応援を希望す云う

1919 9月2日 検事局へ名誉毀損の告訴を提起…民事訴訟として…

1919 9月8日 「神田美土代町青年会館に開催の労働団体信友会大会に関する費用は岡千代彦(三十円)、吉川守国(十円)、服部浜次(十円)、大杉栄(十円? 二十円?)、等を支出せしか大杉栄一派は本労働団体を自派のものと為さんとの野心を抱懐し、益々接近し現在信友会員たる高田公三、水沼辰、鈴木重治等の同主義者を通し盛に懐柔策を奔し居るは明白なるか同会員中には既に主義者の関係し居るに■■たをさるものあり水沼辰か今回国際労働者会議問題に関する協議委員として信友会の代表者に選挙せられたるは社会主義者の運動に由るものなりとし之に反対を称すーふるもの多数ありと」官憲資料

1919 9月9日午後6時10分 神田、明治会館に於て開催 庄司俊夫(労働中尉)の主催に係わる労働問題演説会に出席

1919 9月11日 東京地裁 懲役三ヶ月に処す 言渡し 上告

1919 9月12日 午後7時より 若林方 東京労働運動同盟会第二回例会に出席

1919 9月15日 午後7時より小石川区指ヶ谷町92番地乙号若林ヤヨ方に開催せる北風会例会に於いて本名<大杉栄>は北風会会名変更竝に組織に関し左の討議を為せり

原案として

• 本会を東京労働同盟会と称す

• 自主的労働運動を促進するを以て目的とす             

• 又労働運動の研究を為し実際運動に従事する事

• 常任幹事の件<入力者による略>原案に付き説明を為し之れを要請したる

名称に於て異論あり■東京労働運動同盟会と修正し原案通り可決決定せり

1919 9月26日 曙町を発行所として届出
1919 9月27日 東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷

1919 10月1日 <状勢>北風会、次回期日を第二、第四日曜日に変更することとし

1919 10月2日 第二回公判弁護士花井卓蔵、大澤一六、長野■助、山崎今朝弥、布施辰治の5名出廷 被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…

1919 10月5日 午後5時 築地精養軒 山崎今朝弥開催 晩餐会に出席 晩餐会は本年8月8日より一週間平民大会に於て自己主催の下に開催せる夏季講習会に関する講師竝に尽力せし者に対し慰労

1919 10月6日『労働運動』第1号発行 本郷区駒込曙町13

大杉栄執筆原稿<労働運動の精神><賀川豊彦論><読者諸君へ>「中村還一、年二十二、時計工 和田久太郎、二十七、人夫、新聞紙違反で十ヶ月の牢獄生活を終えて出て来たばかり 近藤憲二、二十五、早稲田大学政治科卒業伊藤野枝 尾行巡査への障害罪で入獄中の活版工延島(のぶしま)英一、十八」

1919 10月12日 <状勢>北風会、各自主団体(支部)の設定、大杉は演説を為したり「本人はギルド社会主義の批評に付講演の筈なりしも雑誌労働運動発刊に付多忙の為め用意する能わずとて唯ギルドの栄しき批評を為すさんにはギルドの起りし欧州中世紀よりの経過推移を…………完全たる批評は次回に譲とて降壇

次に根岸正吉、橋浦時雄より本人に対し政治運動の可否に付質問あり右に対し本人(大杉)は代議政治は人間を■的と為す者にして自著社会的個人主義にも之を説明しあり然ども議会政策も労働者が直接行動即ち労働者が労働者の威力を以て議会を左右する例えば法律を廃すると云う法律を作るが如き事を論ずる場合あらば之れを賛成するものなり又労働者が真に其力を有したる場合は議会なる順序を履むの要なき事となり議会を左右する事を得べき場合来たらば労働者が全て意の儘と成る時なりと説き尚自己の生活を他人に代表し貰うは自己を駄獸化するものにして自己の事は自分にて為さざるべからず即ち自主自活の精神が必要なるを以て此意味に於ても代議組織に反対すべきものなり而して吾人同志中にても直接行動と云えば全てが暴力を意味する如く思うものあるも直接行動は非常に其範囲を広きものにて温和なるあり又過激なるあり労働者等が各自の要求を貫徹せん為め雇主に対し同盟罷工を為すは経済的直接行動にして労働者が自己の力により議会を圧迫し自分等の意の儘に動かすは之政治的直接行動なりと述べり

而して又黒瀬春吉は本人(大杉)に対し本人が労働組合の研究を為す目的を質問したるに対し

大杉は労働組合は将来に来るべき新社会を組織する用意なりと何れも称し居るも自分は労働組合の発達する迄に革命は勃発するが又は之が完全に発達したる結果発現するか不明なる故自分は労働組合は多数の組合が組織され而して之が連合合同し大なる力となり始めて一つの原動力として革命を遂行し得べきものと思う……昔の無政府主義者は何れも今日の労働組合の発達を予想し居らず全ての社会的制度、機関を直ちに破壊し混乱時代を起すを目的としたるものなるが社会の因習的思想又は精神は容易に変改する事を得ず其変改し得ざる精神を以て完全なる新社会を建設することは不可能なるを以て革命に就ては現社会の全てを破壊し…………」

1919 10月18日 大杉栄、吉田一の公判傍聴

1919 10月26日 東京労働運動同盟会例会出席「ギルドソシアルズムの批評」と題した演説

1919 11月1日 <状勢>愛知在住、松井広文、大杉栄一派と共に労働者大会の開催を計画す。大杉は30日東京よりり会同。

1919 11月7日 大杉は和田久太郎、中村還一の両名を京阪地方に派遣……隠密の間に主義を鼓吹する意向…

1919 11月9日 労働同盟会(一名北風会)に出席

1919 11月13日『労働運動』第2号発行 関西支局 南区空堀町11武田伝次郎方主任和田久太郎

南出張所 南区水崎町719逸見直造方主任逸見直造 名古屋支局 中区西瓦町2の23主任伊串英治

1919 11月15日 大杉栄、神田明治会館 印刷職工八時間労働実現賃金値上問題等に関する講演会に出席

1919 11月20日 大杉栄、若林方 丹潔主催 民衆文芸座談会に出席

1919 11月22日 大杉栄、神田常盤に於て開催 山崎今朝弥主催、藤田貞二の送別会に出席

1919 11月23日 大杉栄、労働同盟会例会 高田公三入営送別会に出席 演説 早稲田大学学生某が社会主義を■するものなり而して労働者を味方せんとしたるに対し学生は知識階級に属するものにて階級は昔より■■権力階級の御用をと為し来りし歴史を有す近来労働運動の激烈と成りたるに多くの知識階級は■■に今後攻撃し来りし社会主義又は無政府主義に対し同情を持つに至り或は自分は社会主義なりと云う者も出来せり

従来権力階級の為め働き居たる知識階級の如きも新に生るる新社会の最も有力なるべき労働階級の御用を為すべき接近するに至るべし一方吾々の十何年来の労働運動の中に多くの学生在りしが今日唯一人も残り居らず或は其の権力者に対する知識者の本分を■り或は遁避し去れり此の経験より見るも労働者は決して学生を信用し得ず学生にして其信用を得れとせば続々具体的運動の渦中に役する外方法なし自分としても新斯く倍し居れり云々と結び同十時散会せり

状勢一班第九

高田公三は1919年徴兵適齢に於て検査を施行せられ甲種合格となりしが其の際係員より兵役に服することを望むや否と問われたるに対し自己は無政府主義なるを以て軍備の必要は絶対に認めず従て兵役に服する事も亦絶対に望まずと述べたり其の後高田は大杉一派の同志定期会合に出席し入営の晩は軍国主義整頓の状況を実験すべしと称し居りしが1919年12月1日宿所たる同志若林ヤヨ方より同志鈴木重治、高尾平兵衛、延島英一、近藤憲二、山本智雄、車隆三、松本文充郎、若林ヤヨ等の見送を受け指定時限より約2時間遅刻し麻布区歩兵第三連隊に入隊せり其の際鈴木重治は<横浜赤旒会>の赤旗を松本文充郎は<祝入営社会主義者高田公三君>と書したる白旗を樹て其の他<正義の人を><戦争は罪悪なり><労働者>等の小旗数本携え居たるもありしが所轄青山警察署より注意する所ありしに<社会主義者>と書したる部分を緊縛し信友会員十数名(内主義者4名あり)と共に営内に入り社会党万歳を高唱し憲兵より注意を受けたり

1919 11月28日 大杉栄、同志石井鉄治外 早稲田学生懇談会に出席  

1919 12月3日 大杉栄 京橋区数寄屋橋、笹屋に於て開催、故荒川義英追悼会に出席

1919 12月13日 大杉栄 高知県幸徳駒太郎に手紙を出す

1919 12月18日「入獄の辞」大杉栄 『労働運動』3号掲載

1919 12月19日 大杉栄、京橋、笹屋、本人送別会に出席

1919 12月20日 大杉経営雑誌労働運動発刊善後策に関し同志、吉川、服部、近藤、和田、中村、延島英一、石井鉄治討議を為す

1919 12月23日「大杉は中野の別荘へ行った」『労働運動』3号掲載

1919 12月23日 大杉栄 午後4時東京監獄へ収監、24日豊多摩監獄へ移監

1920 1月1日『労働運動』第3号 小石川区指ヶ谷町92

1920 1月11日「豊多摩監獄から」「編集の後に・今月から久板が加勢して呉れる事になった」神戸支局市外東須磨鷹取駅下車、主任安谷寛一

1920 1月13日 大杉経営雑誌労働運動発行所及印刷所を変更せり 大杉経営雑誌労働運動第3号中「ボルガ団」の記事は秩序を害するものと認められ抹殺の上発行することとなれり

1920 2月1日『労働運動』第4号 本郷区曙町13「征服の事実」

1920 3月23日「出獄の辞」大杉栄 5号掲載

1920 3月23日 大杉は刑期満了出獄 午前7時10分同志近藤憲二外12名の出迎えを受け市内電車にて9時50分本郷区曙町13番地へ帰宅せり

1920 3月28日 大杉栄、午後8時より自宅に同志服部浜次外8人を招き出獄祝いの小宴を開催

1920 4月1日 午後7時より服部浜次主となり神田錦町貸席松竹亭に於て大杉栄出獄歓迎会兼荒畑勝三大阪行きの送別会を開催

監獄に居るのは十年も三ヶ月も同じ事です十年も左程永いとは思われません三ヶ月も短いとは思いません……私は最早青年ではありません……無題 監獄は■いのちはありま……痛いです又私は……風邪に罹て居るのですが12月より3月迄入獄中一度も風邪を引きません又持病の肺病も■くなりました、これからは労働運動にも携わる心算です、労働問題は小さい問題ではあません、そして世間の人が云う様な解決をしましたなら夫れこそ取り返しは付きません、生活の最低限度に付労働条件を定むることに努力しなければなりません、私は最早青年ではありませんし其私(?)に付きまして■■もあり方法もありますが今日は之を述べません………になりましたら何等かの運動を起しますから皆さんの援助を■わなければなりません

無題 私は入獄中は常々差入ます事があります其は十年余も監獄生活をして居る某氏を救い出したいと思う事です某氏を救い出す事に就て皆さんと相談する考えで居りましたが後日の機会に■ります

無題 美術家や文士は少し位監獄に這いらなければ真の美味は分りません又大学の芸術味を弁ずる事は出来ないと思います

1920 4月3,4日 黒曜会作品展覧会に出品

1920 4月3日 午後6時30分より神田区美土代町青年会館に於て思想団体連盟主催森戸元帝国大学助教授其の他の関する首題の件開催、大杉は左の如く演説せり 大杉は演説せり 会場の秩序とは何んぞ

私の演題は主催者側に於て……定めたるものして受入無題無題………全く新しい生活に生らんとすることは間違て……吾々は一歩一歩と斯く生活を造らねばならぬ   然市して吾人の新き生活の第一歩は自由である然るに聴衆諸君の弁士の言ったとか矛盾であっても不徹底であっても何等質問でもなさぬと云うことは即自由がないからである其れを破れる様な秩序は今日の秩序であって吾人の造らんとする社会の秩序ではない……自由な人格であって個性の……である而して個性の成長は互いに永久不可能のものである決して社会主義者や無政府主義者の言うが如く■■するものでない人類の歴史を見る時は何時の世にも個人が自覚たる時代はない唯私欲を充たさんとするもの……新き歴史を造らんとするものは極めて小数者であると云うことが……現象である而して…………主義者が中心となりて将来の新しき社会を創造するものである而して其自覚したる人間がどうするか他の多数者であると云う………自己の有する思想は極めて明白に遠慮なく大胆に発表することである其して其思想は……発表するのみちなく極めて明白に極めて大胆に実行すると云うことである(中止)…………臨監警察署よりり中止を命ず

1920 4月8日 大杉栄、長女魔子、和田久太郎外2名と共に来神賀川豊彦を訪問神戸市三宮町

旅館滞在の通知に接し安谷寛一来訪の処大阪へ引返し跡にて会見を得さりしと云えど真偽判明せず

1920 4月15日 午後8時より小石川区指ヵ谷町、若林ヤヨ方に労働運動同盟会例会を開き席上……《……社会主義と今日の主義■■時勢の変遷に伴い変化を為したり》と其経路を述べるや会員……質問を受け結局帰着する処なきを以て本人(大杉は)之を補足し統て社会の事物は時勢の変遷に伴い進化する最も意義あるものにして何等進化なきものとせば■■に等しく……現在無政府主義の旺盛なるを説き諸君も此の意義ある進化に努力せられ度又労働運動に付ても近く頻発し同盟罷業等多からんと思料するを以て■種の研究の要ありと述べ尚過般関西に為したる旅行談に移り大阪京都にては会合催し講演を為したるが大阪の集会は自己の予想以上の進歩を京都会合も5名以上ありて重に友愛会の不平■なりしが思想及運動■大阪方面の夫れと■同一なり自分も今後時々京阪方面に到り■■を為す■なりと述べ■て本人(大杉)は前期席上に於て左の談話を為したりと云う

大杉は一、大阪方面に四、五十名程収容し得る家屋を借り入れ置きて毎月一、二回集会を催し度し ………

1920 4月20日 大杉栄は午後5時より京橋南鍋町2丁目13番地カフェパウリスタに於て開催せし神戸在住未編入者賀川豊彦の歓迎会に出席

1920 4月30日 『労働運動』第5号 小石川区指ヶ谷町92、労働運動社 麹町区有楽町1の4

<労働運動の転機> <無政府主義の腕> 大杉栄「マラテスタの逮捕の件」

1920 5月2日 メーデーに参加何等不法の企あるとの噂にて予防の為一時検束を受けたり

1920 5月4日 大杉は鈴木重治等と吉田只次の裁判傍聴■■市内戸部町吉田の留守宅に会合し去る2日東京上野公園に開催せる労働祭参加の目的にて服部浜次等と共に自動車にて出発せし■■日比谷署に検束せられたる顛末亦吾労働問題の急激なる変化の状況等を述べて座談せり

? 大杉栄は衆議院議員立候補とな麹町区に拠り一票の投票ありたるは服部浜次の投票ならん(「調査書」によるが他の人間と混同しているのか要調査)

1920 5月15日 若林方、労働同盟会出席

1920 5月16日 服部浜次方に開催せる労働問題研究会に出席せり

1920 6月1日 『労働運動』第6号 指ヶ谷・有楽町 

<社会的理想論>大杉栄 

<僕の新居は相州鎌倉町小町瀬戸小路>大杉栄 

<鎌倉から>四月の末に、前の曙町の、例の家宅侵入の家を、丁度一ヶ年目で引き払って、僕の一家は引越した。村木の活躍 鎌倉の警察 高等視察、菊栄さんが前に住んでいた辺りを探す 翌日の昼東京に出た、玄関から門を出て真っ直ぐ停車場へ行った。誰もお供が来ていない。 其晩は日比谷の服部の家で泊った。そして翌日、即ちメーデーの当日、服部と一緒に上野へ行こうとする所を日比谷署の視察共にちょっと署までと云われて、上野の会の済むまで其処に検束されて了った 夜、鎌倉に帰ると

<広告> 一段あいたから何か書けと云う 『一革命家の思い出』が、漸く先月の二十日に出た 次には、この五月の下旬、僕と伊藤野枝との共著、小説集『乞食の名誉』が出版された。 多分本月上旬には出ようと思う、神戸堂発行、『労働運動の精神』 それから、本月の末か来月の始めかにクロポトキンに関するものが二つ出る。一つは書店アルス発行の『クロポトキン研究』で、もう一つは日本評論社発行の『クロポトキン精髄』だ。 僕の古い論文集『生の闘争』と『社会的個人主義』とが久しい間絶版に成っている。で其の中の主な論文と、其後の諸論文とを併せて、新しく『社会主義と個人主義』と云う題で出す計画がある。出版は多分夏過ぎになるだろう。叢文閣発行。 ……デ・フリイス『激変説』をやり始めた。『昆虫記』

<京都支局ができた>久太

1920 6月15日 若林ヤヨ方、労働問題同盟会に出席「橋浦時雄より大杉君は日頃無政府主義者あらず大杉主義者なりとの弁ありて大杉主義の■■を望むと述べたるに対し大杉は之に答えて曰く2,3雑誌に其意味を載せたるも夫れは皮肉にして世人は其皮肉を倍するは■■なり自分は無政府主義なり只外国の主義其儘にあらず無しとも多少はクロポトキンの主義を基とせりと」         

1920 8月 コミンテルンの密使、大杉を訪ねる

1920 10月 大杉、上海の社会主義者会議に出席

1920 11月23日 6回黒耀会展覧会、警視庁から検閲、撤回命令が出される

1920 12月1日 若林ヤヨ方、東京労働同盟会に出席

1920 12月5日 東京牛込山吹町八千代倶楽部に開催せる高津正道主催暁民会講演会に参りたるも間もなく所轄署へ検束せられ午後7時釈放(?)となり同夜麹町元園町同盟仮事務所の同盟研究会に出席同10時退散

1920 12月9日 神奈川県鎌倉小町在住大杉方に社会主義者同盟大会地方出席者慰労の為と称する歓迎会を開催し大杉門前に黒赤旗二流を高飜し其傍ら■む鎌倉駅より大杉方に到る沿道3ヶ所に「社会主義者同盟会地方出席者歓迎会」と朱記したる「ビラ」を配布する等……5名を先頭に久板卯之助外17名の……大杉方に集合…公安を害する講演を開催せるを以て直に中止解散を命じたるに39名等は解散を不当……鎌倉署に検束し取調其不……放還せり

1920 12月10日 午後6時26分入京神田青年会館に開催せる自称社会主義同盟講演会に臨みたるが直ちに公安を害するものと認め錦町警察署に検束せられたるも即時釈放

1920 12月25日 午後2時頃有楽町……事務所兼寝室……

○大杉は日本社会主義同盟に対し無政府主義者たるの…… 本人(大杉)は午後2時頃麹町有楽町3の1露国人「アレキサンダークリチャノフスキー」方を訪問したき■中止さるも主■は英語に通ぜず亦本名(大杉)は露語に通ぜざる為……波蘭陸軍武官「ウィンコフスキー」と会見中波蘭公使館員「ヴァリリワエル」に通訳依頼し、自分は新聞記者にたる折柄■■「ジャパンアドバータイザー」紙上にて貸室ある事を見て訪問したる■■なりと述べたるを以て露国婦(?)人は即座に之を承諾し一ヶ月分■■百十円を……27日より止宿することとなかりし……
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# by tosukina | 2011-09-28 00:15

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の十

1921 1月29日『労働運動』1号

<本の運命>週刊『労働運動』は此の準備のために生まれる

<英文>1月23日 住所 労働運動社 神田北甲賀町12

<同志諸君に>労働運動社同人近藤、大杉、中村、和田久、高津正道、伊井敬、竹内一郎、寺田鼎、岩佐、久板

<病室から>僕ひとりここに引越して来た、露国興信所、実はロシアの下宿屋だ。麹町区有楽町3の1露国興信所内 大杉栄

<お伽噺>大杉栄『漫文漫画』『悪戯』収録ロシア行き、ロシア人下宿

1921 2月1日 週刊『労働運動』2号

<病室から>

<鎌倉の若衆>

1921 2月10日 『労働運動』3号  

1921 2月15日 2月来持病の肺患発熱 2月15日 京橋区築地聖路加病院に入院 村木源次郎看護

1921 2月20日『労働運動』4号  

1921 3月6日 『労働運動』5号 <駿河台から>大杉の病気は数日前から余程よくなってきた

1921 3月12日 <調査書>『労働運動』第5号 200部を和歌山市支部 500部を八幡市日本労働■■へ発送せり

1921 3月20日 『労働運動』7号

1921 3月29日 退院

1921 4月3日 『労働運動』8号 <退院します>鎌倉小町 三月二八日 大杉栄

1921 4月24日 『労働運動』9号 <駿河台から>大杉は一週間に一度位は社に来る、最終記事面に住所が記載される

1921 5月13日 『労働運動』11号

1921 6月3日 同15日附週刊新聞労働運動第6号に「青年に訴ふ」と題する記事を掲載せるを以て新聞紙法違反として取調中の処分新聞紙は単に内閲の為印刷せるに到り為め証拠不充分の理由に依り6月3日不起訴事処分に附せられたり

1921 6月4日 『労働運動』12号 五月九日の社会主義大会検束者一覧 10日の『東京朝日』記事、検束までの様子

1921 6月15日 神田区北甲賀町駿台倶楽部内労働運動社内に大杉主催北風会を開催す会同者約50名倶楽部内労働社内に大杉の主催し北風会を開催す約50名……大杉の……講演をなす「昨夏頃より所謂知識者階級の大部分が無政府主義傾向気分を帯びたりと前提しクロポトキン…革命を…バクニンは実践家なり■而してクロポトキンは革命的一揆は即ち革命の縮図なりと……の際に於ける……現在の如く……革命は……思い吾人■多大の労力と……云々」

1921 6月25日 『労働運動』13号 一面英文記事が無くなる 北甲賀町

1921 7月21日 大杉栄、赤欄会夏期講習会、第四夜講師

1921 11月中秋季社会主義大会の計画に参加し堺利彦と共し講演に参加11月13日仙台市に於て岩佐作太郎、中村還一、加藤(更蔵?)等と共に検束を加えられたり

1921 11月  神奈川県三浦郡逗子町に移転

1921 12月4日 東京市麹町区元園町1の44番地 赤瀾会本部の親睦会に出席す

1921 12月 <調査書>月刊新聞「労働運動」発行事務所として適当なる場所物色中の折柄警視庁近藤栄蔵一派の経営に係る東京本郷区駒込片町15番地所在に売文社が経営困難になり廃業する中急遽同家屋を譲受け近藤憲二の住い敷金300円を売文社関係者に支払し1921 12月25日近藤及和田久太郎の両名をして同新聞発行事務に当らしめつつあり

1921 12月24日より3日間 東京市神田区北甲賀町駿河台倶楽部に於て在京特別要視察人の開催せる「ロシア」飢餓救済展覧会 2点を出品検閲の結果治安に害ありとして撤去を命ぜられる

1921 12月26日 『労働運動』1号 本郷駒込 片町15労運社、印刷人、逗子、近藤

<大杉の住所>

<二度目の復活に際して>伊藤、近藤、和田、大杉

<転居>逗子町966大杉栄

<窃盗の改宗>大杉栄「千葉監獄、窃盗の罪はなるべく軽い方がよい……」

<岡っ引共奴が>大杉栄「警視庁特別高等課、社会主義者の大陰謀、暁民会、高津夫婦だけを残して放免」


1922 1月21日 久板卯之助凍死

1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」

1922 2月1日 『労働運動』第2号

<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄

<久板卯之助君凍死す> 1月25日

1922 2月3日 上京自己経営の労働運動社に到るや■■尾行を脱し同志岩佐作太郎、近藤憲二、和田久太郎と共に所在を眩まし西下せる形跡ありしが果して同月5日福岡県八幡市に潜行し同日午後6時より同市通(?)町十一丁目活動常設館「有楽館」に元日本労友会長浅原健三の主催に係わる八幡製鉄所騒擾事件の二周年記念演説会に出席左の演説を為し臨官警察官より「中止」を命ぜられる■の八幡の上空を覆う煙を一日たりとも止め得る■せは死んでも厭わぬと他人に語り其の後程遠からずして圀圄の身となり獄中生活中自宅よりの通信により八幡の煙が一日に非ず数日に亙りりて止たるを聞き間もなく出獄して今日同盟罷業二周年記念演説会に列席することを得たるは歓喜に堪えず而してして労友会は全滅の姿なるも本演説会に斯く多数の集会を合せらるる点より結合せば同会の精神は残存し居るものと喜ばざるを得ず■ふる吾人が十数年前に絶叫したる事実は■頃具体化し米騒擾事件にて労働者は大に自覚し近く露西亜の軍命に依り日本の資本家も幾分恐怖の念を抱き且露国の労働者が資本家を」(中止)

○………和田久太郎、近藤憲二、岩佐作太郎と約1時20分間密談せり……大阪市に会合し直接行動に関する………而して大杉は福岡県編入甲号の廣安栄一を使者として本日、支那、台湾、上海、朝鮮等に密航せしむべく両人間に画策したる模様あり(福岡県通報)

1922 2月7日 ○大杉は八幡市よりの帰途2月7日夜大阪駅に下車し武田伝次郎、大串孝之助、逸見直造等主催の大阪府下西成郡今宮町■■し旅館……歓迎会に出席したるが■集会は公安を害するものと認め……せられる中不穏の挙に出られしとするの言動を■たるに以て同志26名と共に所轄今宮警察署に検束され翌8日午前3時釈放せられ(大阪府通報)

○大杉は2月7日夜前項会合の場に於て武田伝次郎方に労働運動大阪支局を復活せしむに計画ある論議をしたり(大阪府通報)

○2月7日午後八幡市よりの■■途同志岩佐、近藤、和田、渡辺、大串、逸見の6名同伴、京都駅に下車し■し合の上尾行を■せんと努たるも………結局午後3時祇園石段下の■肉店■■に落合い其処にて三条青年会館に在し当時京都府編入岡本八■■太に対し尾行厳重に付当地の同志を訪問せず又同志の来訪を受けざるを可と思う■電話したる後午後5時頃迄飲食の上、東上を散歩中、清水寺にて集まり入洛せし同志山田、三田村両名と会し午後7時京都駅よりり乗車東上せり(京都府通報)

1922 2月5日 『労働運動』記事 八幡罷工紀念演説会 2月5日、有楽館に於て「……労友会は幹部十数名の入獄によって、遂に解放の止むなきに至った。其後、労友会の一部の人は、坑夫協会との提携によって一大団結を企てたが、この計画も亦失敗に終った。………去る2月5日 この日は罷工二周年紀念の日である。労友会の残党諸君は、せめてもこの日を紀念するために、一つにはまた労働運動促進の為め、同市の有楽館に演説会を開催した。………そして僕等も亦、この演説会に参加する事を得た。……

 2月4日朝×時、僕と渡邊君とは関西の××駅に途中下車して、一汽車おくれて来る大杉、岩佐両君を待つ事にした。」

 駅の待合室にいると、襟巻で顔を深く包んで青服姿の男が前に突立って、『どうだ分らないか』と云う。僕はその声で始めて和田君だと知った。どうもうまく化け込ぢゃったね。三人はそう云って笑った。

 列車に乗り込むと、大杉君はいなくて、岩佐君だけが眠むそうに窓に寄りかかっていた。汽車は西へ西へと走った。四人は欲張って眠られるだけ眠った。

 翌5日、小春日和のような暖かさであった。僕等は開会の時刻の来るまで浅原君の二階に籠城することにした。……………

 午後4時頃、待っていた大杉君がひょっこりと顔を出した。『おひる頃着いたんだが、今まで活動写真を見ていた。新派ものの詰らぬ写真だったが、すっかり泣かされて来たよ。馬鹿々々しい』彼はそう云いながら座った。

 定刻前に、聴衆は館に満ち充ちて、身動きもならぬ程であった。………次は和田久太郎君。拍手は新しく起った。和田君は『賃金増加、時間短縮が……八幡の罷業は日本の労働運動に大いなる刺激を与えた。精神を与えた。この意味に於て八幡の罷業は労働者の一大勝利と云うべきである。』と述べたが、また中止。

 その時、僕は聴衆の中から飛入演説を申し出ると、浅原君すかさず『15分でよければ……』と八百長よろしくあって、演説に立ち『多数は力である、と云う。然し徒らに豚の如く肥った労働団体が、資本家に対してどれだけの脅威であるか?』と述べ階級意識に目覚めた精悍なる労働団体の必要を説いた。

 元労友会幹事廣安栄一君の紹介で大杉栄君が壇上に突立った。聴衆は歓呼之れを迎えた。警官は狼狽し、会場は急に殺気だった。官憲はこの時始めて、前に出た奴等も矢張りうさん臭い奴だったな、と気づいた。

 大杉君は

『僕が10年前当地を通過した時、汽車の窓から幾百となく突立った巨大な煙突を見て、友人と共にこの煙が労働者の手によって一日でも止められたなら、僕は死んでもいいと話した事がある。一昨年、僕が獄中で寒さに苦しんでいた時、突然八幡の煙が止った、同盟罷工が勃発したとの報知があった。5年前までは、労働運動は余り利重大視されず、暖簾に腕押しの状態であった。諸君も5年以前には決してこの煙を止め得るとは考えなかったであろう。然るに今日では、この煙が止まった位で死んでもいい、と云えば、諸君は笑うであろう。それまでに運動は進んだ。』と冒頭して、

『我国の労働運動は、米騒動を以て一新紀元を畫し、労農ロシアの革命によって刺激され、影響する所が少くなかった。』

 とて、我国の労働運動に就いて述べんとしたが、中止を命ぜられた。

 岩佐作太郎君は………翌日午後、僕等は八幡を去って帰途についた。(憲)

<九州での話>……賀川豊彦君が……北九州の各地で聖書の講義をしたりり、思想問題の講演会を開いたりしている時だった。

 大杉君が門司に着いた日は、丁度、同地で講演会の開催中であった。で、時間つぶし旁、こっそりと傍聴には入った。そして後で話していた。

『どうも賀川君は演説がうまくなったものだ。そしていろんな事をよく覚えている。でも、やっぱり馬鹿をいうのでね』

 そしてまた『よっぽど弥次ろうかと思ったが、怒鳴ると折角ここまでうまく来たのがバレるので我慢して了った』と云っていた。まあそれでも、聖書の講義でなくてよかった。………(憲)

<飛んだ道草>……大阪に着くと早速武田君を尋ねた。……天王寺で湯を浴びてから、四人とも尾行をマイて了った。

 夕刻、一足おくれて着いた大杉君も、直ぐ姿を消した。午後8時半、約束の今宮町の春の家へ行くと、もう30人ばかり集っていた。大半は以前から知っている人達であったが、その内の10人程は友愛会の所謂『野武士組』の人達であった。話は自然『野武士組』の事から始まった。本誌前後に和田君が書いた『野武士的結合の傾向』に就いて、また大阪の労働運動の傾向に就いて。………それから大杉君を中心に、話は抽象論から具体的な運動方法に移った。10時頃だ。急に廊下が騒がしいくなった。『ははあ嗅ぎつけたな』僕等は直ぐそう感じた。果して20名余りの査公が来て、『皆さんで署まで来て貰いたい』と云う。仕方がないから皆んなで出かけた。今宮署は春の家からは極く近かった。大阪の諸君は署の二階で仕切りに足を踏み歌を高唱していた。僕等四人は下の一室にいたが火鉢の暖かさでつい椅子に寄って眠って了った。午前3時。ゆり起されて目が醒めた。もう帰ってもいいとの御宣托。大阪はとうとう妙な道草を喰って了った。(憲)

『労働運動』第3号  1922.3.15

1922 2月15日 大杉一派の労働運動社(一名北風会)に於ては諸種の事情により其後主義研究会を中絶し居りしが2月15日午後7時より同社内に於て例会を開催

1922 2月中……1月より経営せる月刊雑誌労働運動の事業に関し同年2月中和田久太郎、伊豆味正重をも加え尚中村還一とも気球を通じ無政府主義者の勢力を挽回し以て堺利彦、山川均、近藤栄蔵等の共産主義一派に対応すべく主義宣伝用として「リーフレット」「パンフレット」を発行しつつあり

1922 3月 神田青年会館……団体新人会員…主催に係わる過激社会運動取締……大杉共の一派は開会前より入場…出演弁士に

1922 3月15日 東京労働同盟会例会(元北風会)を開催

1922 3月15日 『労働運動』第3号

<先づ彼等を叩き倒せ> 大杉栄 

<道徳の創造> 大杉栄 

<永久の闘い> 大杉栄

<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」

<ロシアにおける無政府主義者下> 大杉栄 

<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 

<追悼日誌> 

<愛着の古雑誌> 中村還一「『労働青年』……」

<性格の異彩(一)>久太

「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」

<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」

<真の革命家> 紀伊 村井林三郎

<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」

<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……

<彼と性欲> 岡野辰之介

<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」

1922 4月15日 『労働運動』4号

<革命の研究1> クロポトキン 大杉栄訳 

<被告学秘訣> 大杉栄 

<ソビエト政府無政府主義者を銃殺す> 大杉栄 

<エマとベルクマン 1922.1.7> 大杉栄訳 

<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」

1922 6月1日 『労働運動』5号

<革命の研究2> 

<どっちが本当か> 大杉栄 

<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」

1922 6月7日 四女ルイズが生れる

1922 7月9日 安成二郎宛「緑葉の何とかいう小説はそんなものなのか……」

1922 7月11日 安成二郎宛「きのう読んだ。そう大してまずくもないじゃないか。モデルとしての苦情は別としてだね。」

1922 7月23日 大杉栄 イヴァン・コロゾフを訪問、不在 〇露国人「イヴァン・コロゾフ」退出命令あるや大杉栄は…… 惜別慰問の目的を以て……伊藤ノエ、同人私生児魔子…7月23日神戸……同人妻「クララ」に会見大杉■伊藤……慰問後自著「二人の革命家」と題する書籍一部を手交し……安谷寛一……

1922 8月上旬 「森戸問題発生を動機として…」翻訳パンフレットを発行 大杉栄及同人を■■する一派は1920年初頭森戸問題の発生を動機として…活動注目に値するものありしも漸次共産主義派圧倒さるの傾向あり同志中説を変■へきへて堺、山川等に■るものあれり以て之か防止と■勢の挽回とに関し而方画策の結果機関雑誌「労働運動」の外ピータークロポトキン原著「青年に訴ふ」及バクーニン原著「革命の失敗」等の翻訳パンフレットとして発行し又東京府下亀戸在住の同志庄司富太郎方に本年8月上旬来数回の隠密会合を開き大杉栄よりバクーニンの無政府主義に関する講演を為す外同月末自由労働者同盟なる団体の組織を企■■之を宣告し綱領を作成■■印刷して緒方面に配布し同月30日夜深川区富川町21番地プロレタリア社の其発会式を挙げべく密かに通知せる等■や活動■■■■■■

1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

1922 8月27日 <自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。

 富川町の坂野兄弟、堀川久、三河町の南、石山、中濱、伊串等の諸君や、鮮人の孫、白武、の両君などが、中堅だ。思想団体にも出入し、アナーキの色彩の濃い人達だ。かくて組合は成立した。が、其の活動は今後に見なければならぬ。………

 本誌にもテツ公が信越の監獄部屋の事を書いてる。……(幸力)

宣言………自由労働者組合

綱領………

規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10

1922 8月

<状勢>大杉一派…深川プロレタリヤ社……横浜在住の同志も之に応じ「横浜自由労働者組合」を組織することとと為し……東京岩佐作太郎以下多数無政府主義者の来援を得て発会式及宣伝集会を開催せんと計画せるを以て……

1922 9月8日 宮島資夫宛「……10月号の『新潮』に「労働運動と労働文学」というものを書いて、君に対する批評もちょっと書いておいた。『改造』の「お化けを見た話」の中にもちょっと君のことが引合いに出ている。……」

1922 9月10日 『労働運動』7号

<革命の研究4>大杉栄 

<編集室から> 村木の夏のお日様かんかん…栄 

<生死生に答える>大杉栄 

<トロツキーの協同戦線論>大杉栄 

<信越の監獄部屋から> 自由労働者同盟 中浜鐵 

<労農ロシアの最近労働事情>大杉栄 

<利口と馬鹿> 大杉栄

<消息>軍隊宣伝事件 予審中の八君の名 『黒濤』発刊
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# by tosukina | 2011-09-27 23:17

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の十一

1922 9月30日 全国労働組合総連合会 午後8時30分解散を命ぜられ不穏の挙…検束

1922 10月1日 大杉栄、検束から放還せられたり

1922 10月1日 『労働運動』8号

<革命の研究5>大杉栄 

<編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十三日 栄」 

<独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 

<労農ロシヤの承認> 大杉栄 

<労農ロシアの労働組合破壊> 大杉栄

<消息>中浜哲君九月七日引致。浮浪罪で拘留20日に処せられた。9月18日錦町警察から出て来た。

1922 10月8日 大杉、伊藤、本郷区駒込片町15 労働運動社に移転

1922 10月17日 「……風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、……きのう、江口の家の家主の婆さんが来て、家賃を払ってくれないから何とか話してくれと言って、いつまでもくどくどやる上にオイオイ泣き出すんで閉口した。……今、和田久が警察へ呼ばれて行っての話に、野枝さんが途中で引返したということだが、どうしたんだろうと言っていたそうだ。まいたのか。……」

1922 10月18日 菊池与志夫宛「……なおバクーニンについては、僕は今単行本を書く準備中なんですが、たぶん来年正月号の『改造』には<マルクスとバクーニン>という題で、その一部分の発表ができようかと思っています。おひまな時に、お遊びにおいでなさい。僕は今駒込片町15の労働運動社にいます。吉祥寺前停留所から少し先の、駒込警察の筋向いです。」

1922 10月21日 「……一昨日ちょっと服部へよったら……こっちはまたその前夜一晩徹夜して<自叙伝>を30枚ばかり書いたので、風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ。それで一休みしようと思って、きのうは上天気を幸いに、大ぶ疲れているような源兄を連れて、魔子と一緒に鵠沼へ行った。<自叙伝>は一日遅れて11月号には載らない。もう少し書き足して、12月号に載せることにして、その前借りをした。……静ちゃんの方は本月一ぱいでおいとまだ。御安心を……」

1922 10月24日 伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって<革命の研究>と<ボルの暴政>を書いたんで、きょうはうんざりしてしまった。そして、朝馬鹿にいいお天気なもんだから、飯を食うとすぐみんなを誘って植物園へ行った。……」

1922 10月24日 伊藤野枝宛「今、手紙を出したばかりのところへ、……きのう源兄に叢文閣から出す論集(『無政府主義者の見たロシア革命』のきり抜きをやらした。また正月号の分まで入れるのだから、もっと大きくなるには違いないが、今のところでもちょっと三百枚ほどありそうだ。……)」

1922 10月27日 伊藤野枝宛「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……久公といえば、おとといの晩ある会合で、怪しからんうわさを聞いた。それは、僕が静ちゃんとくっつき、とまではいいが、久公が伊藤野枝とくっついたというんだ。そして大森辺(山川均の一派)ではそれを大喜びでいるということだ。どうだ、覚えがあるか。そんな風ないろんな中傷や何かを寄せ集めてこんど<ボルシェヴイキ四十八手裏表>というのを雑誌の下八段をぶっ通して書いた。……」

1922 10月31日 伊藤野枝宛「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ。アルスからも叢書(アルス科学知識叢書)や『種の起源』を本年中に出したいと急いで来る。大英断をやって、この二週間ばかりの間に大仕事をしようと思ってきょうここ(鵠沼海岸の東屋)へやって来た。仕事の予定は、<自叙伝>12月号の後半と1月号。<論文>12月号(11月号には総連合についての、友愛会やボルのコンタンを書いたが、こんどはその理論の方をやる)<論文>1月号(マルクスとバクーニンの喧嘩)<無政府主義者の見たロシア革命>(まとめるのと翻訳のまだ済んでいないのとをやりあげる)<種の起源><科学知識叢書(二冊)半分やって印刷所へ廻す。……30日……きょうは一日外出して、今はこの手紙書き、朝飯がすんだら鎌倉行き、午後には勇夫婦が来るはずだ。>」

1922 11月1日 安成二郎宛「けさの『読売』の僕に話しかけた<社会文学とは何か>を読んだ。結構だ。まずまず賛成だ。……うんと仕事を持って今ここに来ている。10日頃まではいるつもりだ。一度遊びに来ないか」 

1922 11月1日 『労働運動』9号 印刷人近藤、労運社住所

<革命の研究6>大杉栄 

<編集室から>大杉栄「逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、編集室になっていたんだが、こんどは編集室を下へ移して、六畳の方は近藤の室となった 下は、八畳は編集兼事務室となってそこへ村木と中名生とが机を並べている。六畳は玄関兼食堂だ。そして台所の奥の三畳は、物置兼村木ご隠居のひる寝部屋だ」

<組合帝国主義> 大杉栄 

<ボルシエヴイキの暴政(三)> エマ 大杉栄訳 

<労農ロシアの新労働運動> 大杉栄 

<消息>軍隊宣伝事件、十月責付出獄  

<名古屋の野分> 中浜鐵

1922 11月3日 伊藤野枝宛「……夕方、改造社から原稿取りの使いが来たが、それを待たしておいて今書いている最中だ。……<自叙伝>の方はさっきいい加減にすまして、今論文を書きかけているところだ。今晩はどうしても徹夜だろう。あしたは朝の間寝て、その間に魔子も迎いにやって、ちょっと東京へ帰る。いろいろ用もあるし、……」

1922 11月5日 伊藤野枝宛「……『改造』の原稿は思ったより大ぶ枚数が減ったので、前借を引かれて70円ばかりしか貰えなかった。『労運』と『改造』と送った。『改造』の12月号は14,5日頃に出るそうだから、こんどはすぐ送る。……あしたからまた一週間ばかり鵠沼だ」

1922 11月8日 伊藤野枝宛「きのうは青年会館で、大島製鋼所の連中の、官憲横暴弾劾演説会というのがあるはずだった。それには出ないつもりで、おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様子はちっとも知らず、またその日の朝刊にも夕刊にも暁民会連の検束のことの外には何も書いてなかった。大島へ電話をかけるとオジャンになってしまったのだそうだ。…………きのうの半日ときょうの半日とで、<自叙伝>の今まで書いた分を直してしまった。書くときにはずいぶん一生懸命になって書いたんだが、今見るとあちこちいやになって仕方がない。が、直すのも大変だし、大がいはそのままにしておいた。すぐ改造社へ送って、組みはじめさせる。………」

1922 11月10日 伊藤野枝宛「……きょうは一日あなたの原稿の直しをやった。ずいぶん少ししきゃ、やっていないんだね。普通のお話のところはまあいいが、少し込み入って来るとまるで駄目だね。<ボルの暴政>もやはりそうだったが。こんなことじゃ理屈物はとても読めないよ。少しみっしり勉強してくれ。ダーウィンはやり始めているかい。『無政府主義者の見たロシア革命』の原稿の整理も済んだ。きのう叢文閣へ電話したら、先生はまだ寝ているそうだが、大喜びでいた。『昆虫記』も大へん景気がいいそうだ。再版の用意に誤植の直しをしておいてくれと言っていた。……」

1922 11月11日 伊藤野枝宛「……また病気か。そんなに弱くなっちゃ本当に困るね。お客様の来ないせいも大ぶあるのだろうが。………」

1922 11月14日 伊藤野枝宛「少々疲れて、一昨日と昨日とは寝てくらした。といっても、ただ時々横になるだけで、いろんな奴に邪魔されて閉口した。きょうは仕事を始めようと思って、朝、机に向かうと『日日』の宮崎が来る。続いて三、四人やって来て、とうとう今まで何もできない。………けさ宮崎が来る前に博多のおじさん(代準介)がひょっこ来た。そして魔子を連れて動物園へ行った。……根岸が一昨日死んだ。村木はそのあと片付けにきのう横浜へ行った。……」

1922 11月16日 伊藤野枝宛「……して叢文閣の『ロシア革命』のまだ足りない部分をきょうやっと書き上げた。……菊半栽で、三百頁をほんの少しこすだろうが、紙表紙で一円五十銭ぐらいにする予定だ。あしたからは『自叙伝』の書き足しだ。全体で七百枚くらいになるだろうが、もう三百枚ばか書かなければならない。が、その半分は『獄中記』や<死灰の中から>の書き抜きだ。12月号の『改造』には、また例の礼ちゃんとのあまいところをうんと書いたから、お千代さんのようにどうぞ怒らずに読んでおくれ。……村木がゆうべ帰って来て、これでようやく昼は一人ぼっちを免れるようになった。ひると晩と自分で飯の支度をするのと、折々いろんな奴が玄関や台所でドナルのとで閉口した。……」

1922 11月17日 「……久公の奴、僕等には何にも白状しないんだから、その手紙を送ってくれ」

1922 11月20日 大杉栄にフランスの同志コロメルから手紙        

1922 11月21日 有島武郎に金策の電話 D

1922 11月22日 大杉栄、九州に行っている伊藤野枝を呼びよせに村木を使いにやる、前後して関西支局の和田も上京        

1922 12月11日 大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる D「そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で国際無政府主義者同盟が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な国際無政府主義者の組織を諮ろうと思ったからでもあった。」

1922 12月12日 朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す

1922 12月14日 イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

1922 12月 上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く D
1923 1月1日 『労働運動』10号 

<理想主義的現実主義> 大杉栄 

<根岸正吉君の死> 

<ボルシエイキの暴政> エマ 大杉栄訳 

<立ン坊の叫> 浜鐵 

<労働反対運動の現在及将来> 大杉栄 

<新鋭の朝鮮労働運動> 

<再生した共済会> 京城無名漢 

<黒友会の成立 日本における鮮人労働運動> 黒友会 申煖波

1923 1月5日 大杉栄、ル・ボン号で上海を出る

1923 伊藤野枝宛「今晩コロンボに着く。着いたらそこから出すつもりりでこの手紙を書く……『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……『自叙伝』は手もつくてない。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」

1923 伊藤野枝宛「コロンボを出てから七日目、あしたはようやくジプチに着く。……もう10日でマルセイユだ。……」

1923 2月6日 伊藤野枝宛「ジプチには夜朝早く出帆したので何も見ることができなかった。……きょうはこの紅海が大ぶ狭くなって、アフリカとアラビアの両方の山が見える。あすの朝はスエズだ。……」

1923 2月7日 伊藤野枝宛「朝起きて見たら、とうにスエズに着いて船はとまっている。……」

1923 2月10日 『労働運動』11号 

<マルクスとバクニン> 大杉栄 

<ボルシエイキの暴政五> 大杉栄 

<行衛不明> 野枝 

<消息>後藤謙太郎君 尾行を短刀で脅か死、二十五日の拘留

1923 2月11日 伊藤野枝宛「……けさは起きるとすぐ、イタリアとシシリー島の間の狭い海峡を通った。いよいよヨーロッパにはいったのだ。……」

1923 2月13日 大杉栄、マルセイユに着く。リヨンに行く中国の同志数名と会う。カルト・ディダンティテをもらうのに、一週間かかるという

1923 2月13日 パリに着くモンマルトルの真ん中に宿をとった。

1923 2月16日 伊藤野枝宛「13日の朝早くマルセイユに着いた。……会は注文通り4月1日に延びた。」

1923 2月 林倭衛宛「僕もやって来た。……僕の来たことは絶対秘密。」

1923 3月1日 伊藤野枝宛「3月1日正午、と言っても、東京では午後10時25分だ。パリにて。ここに来てもう10日近くなる。停車場からすぐリベルテール社へ行って、前に手紙をよこしたコロメルという男に会った。フランスでは老人連は戦後みなひっこんでしまって、今ではこの男が一番の働き手だ。まだ三十そこそこだろう。……ちょうど静ちゃんみたいな若い女が一人いて、それの案内ですぐ近くのホテルに泊まった。……翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。……その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも10人ばかりいたが、ここにも20人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。しかしもうほぼまとまった。そしてベルリン大会のあとで、この支那人連の大会をやることにまでこぎつけた。……大石は……今は一人でいる。…一昨日会ったんだが……船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。………本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。……」

1923 3月上旬 林と合流一週間程してリヨンから知らせが来た。リヨンに帰った。一週間待った。 四日待った。「こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一ヶ月半ばかりを暮らした。」「一週間ばかり断食して寝て暮らした」「もうメエ・デエ近くになった」

1923 3月10日 『労働運動』12号 

<マルクスとバクニン下> 大杉栄 

<坑夫の歌> 後藤謙太郎

1923 3月21日 林倭衛宛「……マルセイユはいやなそころだ。……20日午後8時。今リヨンに着いた。またあの色っぽい女のところにでも当分いよう。21日朝。」

1923 3月26日 林倭衛宛「……ドリイ、僕のダンスーズだ、にも、たいくつまぎれに(と言い訳しないとやはり気が済まない)ふざけた手紙を出しておいた。僕は本月一ぱいここにいる。そしてもしヴィザが貰えなければテクで行く。それまでにはこっちへ来られまいな。……26日。……」

1923 3月28日 林倭衛宛「……ヴィザの方 は、きょうのパリリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の10日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする」

1923 3月28日 伊藤野枝宛「すぐドイツへ行くつもりで2日にここへ来たのだが、それ以来風引きで寝たきりでいる。もっともパリリを出る晩から少しいけなかったのだけれど。……僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。……社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。純然たるアナキスト運動というそのことにはまだ僕は疑いを持っているのだ。これはヨーロッパで今問題の焦点になっている。そのことは通信で書いて行く。風で寝た二日目か三日目かに『労運』への第一回通信を書き出した。そして30枚近く書いてて熱でほとんど倒れるようにして寝てしまった。あしたからまたそのあとを書きつづけよう。要するに大会を理解するために、大会前のいろんな形勢を書こうと思うんだが、それだけでも大ぶ長くなりそうだ。『改造』への通信もまだ未定のまま放ってある。これもこんどこそは本当に書き上げる。原稿は××に宛てよう。大会はまた日延べになって、ところもどこかほかに変ることになった。ドイツではとてもやれそうにないのだ。しかし、とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。本月中にはその手続きができそうだったのが、もう10日くらい延びそうだ。もしできなければそっと国境を歩いて、越そうと思っている。それもイタリアとイギリスへ行けば僕の用事は大がい済みそうだ。大会が延びるなら延びるで、その前にできるだけあちこち廻って来たい。愚図愚図して大して研究するというほどのこともなさそうだ。材料だけ集めればたくさんだ。1年の予定はたぶんもっとよほど縮まるだろう。……もう目がまいそうだ。2月号の『労運』見た。3月28日」

1923 近藤憲二宛「いろんな奴に会ってみたが、理論家としては偉い奴は一人もいないね。その方がかえっていいのかも知れないが。が、戦争中すっかり駄目になった運動が、今ようやく復活しかけているところで、その点はなかなか面白い。そして若いしっかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るようだ。………イタリアはファシストの黒シャツのために無政府党も共産党もすっかり姿をかくしてしまった。ドイツはよほど、というよりはむしろ、今ヨーロッパで一番面白そうだ。そこでは無政府党と一番勢力のある労働組合とが、ほとんど一体のようになっている。そしてロシアから追い出された無政府主義の連中が大勢かたまっている。ちっとも通信しないんで編集の方に困ったろうが、こんどは書く。もう大ぶ書けそうになって来た。……」

1923 3月29日 林倭衛宛「…学校から君の二通の手紙をとどけてくれた。……パリからの返事を待っているうちに、それもまだ来ないんだがね、思いがけなくウチから金を送って来た。……それで、それが受取れたら、僕はすぐまたパリへ行くかも知れない。そして都合ではベルギーからオランダへ出て、さらにドイツにはいることになるかも知れない。そうなれば、それからオーストリア、スイス、イタリアと大旅行をして来る予定だ。……」

1923 3月31日 伊藤野枝宛「……風も腹ももうすっかり治った。……原稿もきょうようやくあとを書き続けたところだ。……あとは、ドイツへ行くヴィザの問題だが、これは大ぶ難問題らしい。……警察の方の話がついたらまたパリ行きだ。それからあとはどこへどうふっ飛ぶことやら。……きょうはもう原稿もよしだ。これからリヨンの町へでも遊びに行こう。ここは郊外だ。……3月31日」

1923 3月31日 林倭衛宛「K(小松清・建設者同盟、ジイド、マルローの訳がある)の方ね金が来たんでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょうようやく金が受取れた。今晩は一つ、久しぶりでウンとうまい御馳走でも食おうと思う。僕はパリへ送ったパスを送り返すように言ってやったんだが、それがまだ着かないので、そして明日は日曜、明後日は祭日と来ているので、早くとも三日にならないとそれが受取れそうもない。それが来るとこんどはそれを持って、こっちの警察へヴィザを貰いに行くんだ。そしてもしドイツ行きがうるさければ、ベルギー行きにする。……まだ、ここを立つのは四、五日後になりそうだ。約束なんか破ってそれまでに来いよ。31日。」

1923 4月1日 『労働運動』13号 

<流れの外に流る> 浜鐵

1923 4月2日 林倭衛宛「……僕は日曜のいい天気に田舎へ行ってうんと遊んだので、しばらく寝ていて変になったからだがすっか回復した。きょうもまたうんとやれそうだ。バルビュスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(まず無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが、それには三人の本を大ぶよまなければならんのでまだいつのことになるか分からない。パリからまだパスが来ない。……火曜二日」

1923 4月5日 「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿

1923 4月17日 林倭衛宛「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Painという自叙伝小説を買って来て、きょうまでそれを読み耽っている。パリはどうだ。……僕の手紙は二重封にして、そとはJにあてて学校へ送ってくれ。もう十七日だ、いやになっちまうよ。

1923 4月19日 林倭衛宛「……きのうの午後また警視庁へ行った。……ア・ラスメエン・プロシエン(来月に)になるのかもしれない。……事によると、パリでも君のことを調べているかも知れない。こんなにして一々調べて行って、それがいっさい済んでからヴィザをくれるとなると、オ・モ・プロシエンがこんどはまたア・ランネ・プロシエン(来年)になるだろう。くさくさすることおびただしい。十九日」

1923 4月28日夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞意してひそかにまたパリにはいった。               

1923 4月29日 大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う   

1923 5月1日 『労働運動』14号 

<メーデーの正体> 浜鐵

1923 5月1日 サン・ドニのメエ・デエ 大杉、巴里のメーデーで演説                

1923 5月3日大杉栄、ラ・サンテ監獄に送られる        

1923 5月24日 大杉栄、裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。4時頃、一等書記官の杉村なんとか太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。

一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。              

1923 5月25日 林倭衛宛「きのうの朝放免と同時に警視庁へ連れて行かれて、すぐ国境まで出ろという命令を受けた。……最初はスペインの国境以外には行けないということだったが、最後にマルセイユまでときまって、8時のラピッドにガール・ド・リヨンまで送られて来た……はなはだ相済まないが、友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……ヨンにある荷物も取って来て欲しい。外にもいろいろ頼みたいことがある。……リヨンへ寄ったらEliisee ReclusのL'H0mme et la terre(ルクリュ『地人論』)というのの古本を買って来てくれ。二百フランばかりだ。……それから裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。……僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。……二十五日正午。栄 倭衛兄 僕の拘引のために、いろいろ迷惑をかけた人達によろしくおわびを願う、ことに警視庁まで連れて行かれた人達に……」

1923 6月3日 大杉の船、「朝早く、碇をあげた」       

1923 6月7日宛 林倭衛宛「……地中海は実に平穏だ。……あしたの朝は早くポートサイドに着く。……また、お願いがあるが至急日本に向けて、いつかもお願いしたことのあるファーブルの本を送ってくれないか。リヨンで買ったはずなんだが、荷物を調べて見当たらない。帰るとすぐ翻訳しなければならないものなんだ。『自叙伝』の装ていを忘れるなよ」

1923 6月19日 林倭衛宛「……マルセイユを出るとすぐ買った白葡萄酒の一瓶が、まだ半分と少ししか減らない。ポートサイドで買いこんだ煙草もこの四、五日はちっとも減らない。……」

1923 6月26日 高尾平兵衛、右翼に射殺さる         

1923 7月1日 『労働運動』15号 

<編集室から> 近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」

<国際無政府主義大会の延期 捕われる以前> 在仏 大杉栄「ここに来て、もう10日ちかくなる。3月1日パリにて、大会は又日延べになって……2月号『労運』見た。3月28日フランス発」 

<貸家札> 浜鐵

1923 7月11日 箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿

1923 7月11日 「神戸港港外和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」I            
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# by tosukina | 2011-09-27 22:20

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の十二

1923 7月12日 大杉、東京に戻り駒込片町15労運社に落ち着く

1923 7月28日(O) 在京の同志が歓迎会をパウリスタに催す I

1923 7月31日 新山初代、洪と二人で大杉栄のところに翌日の黒友会の研究会に来て講演依頼。「都合が悪いというので6日私宅に来て講演をして貰うことに決めてきました」         

1923 8月5日 大杉、片町15の労運社から淀橋町柏木371に移る   

1923 8月6日 新山初代「私宅に…10人位集まりましたが、大杉が来ないので雑談し、洪、張、金の三名が残って黒友会解散の話をして8月10日にまた集まることに決めました」                          

1923 8月9日 長男ネストル誕生

1923 8月10日 「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿
1923 8月18日、自由人社で大杉栄の仏国行の話       

1923 8月19日芝公園労資協調会館で機械連合の総会   

1923 8月20日<30日の説もある> 大杉、アナキストの《連合》を企図して根津権現の貸し席で集りを開く。新山初代の<証言>「望月桂、岩佐作太郎等、2,30名集まって無政府主義者の連合組織問題の相談会がありました。私は鄭と一緒にその会に行きました。金重漢、洪鎮裕が来て居りましたが朴烈夫婦は来て居りませぬでした」      

1923 9月16日 大杉栄虐殺

1923 9月24日 不呈社、新山初代検挙            

1923 10月4日 ギロチン社、田中勇之進、甘粕正彦の実弟五郎の襲撃するが警官によって防止される            

1923 10月16日 ギロチン社、古田ら 銀行員襲撃・刺殺    

1923 11月18日 大杉栄没後の善後策打合会 司会者近藤憲二、村木、和田、山崎、岩佐、布施、江口、延島、山本実彦(改造社)北原鉄雄、坂口貫一(アルス社)労働運動社 7時開会10時閉会 

「遺児に関する件、労働運動社の支持」

1923 11月27日 新山初代、病気で出獄、芝、協調会病院で死去

1923 12月2日 故大杉栄本葬協議会 司会者岩佐作太郎、江口、村木、和田、川口、佐藤菱郎 28名参加

1923 12月16日 大杉、伊藤、橘の葬儀。自連系の労働組合、思想団体の合同葬、谷中斎場で無宗教で行われる

1923 12月19日 無政府主義者の会合、大杉栄没後の善後策協議 司会者望月桂、和田、延島、川口、山本勝之助、長沼冨 18名 駒込千駄木町210 望月方 「和田久太郎等無政府主義系の運動方法に付き協議したるが意見は二派に別れ散会」

1923 12月20日『労働運動』第1号 

<戦友の死 発刊に際して> 近藤憲二 

<同志の消息>
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# by tosukina | 2011-09-27 20:22

図書新聞 2011.9.24号




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# by tosukina | 2011-09-23 17:28

大杉栄・日本脱出記  第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見

第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見
                                          2009年3月

  
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アルス刊『日本脱出記』  表紙

リンク 大杉栄

                
 

 大杉栄の一九二二、三年の二度目の日本脱出はメーデーでの演説からフランス官憲に拘引、国外追放で幕となった。そして神戸上陸から二ヶ月余りで虐殺され、今後のアナキズム運動をめぐる論議が東京で始まらんとした最中に大杉の意図はついえた。大杉はフランス滞在中、ベルリンに行き「ベルクマン、エマ、ヴォーリン」と語り合うことを願っていたがかなうことはなかった。

 この最期の活動となってしまった「日本脱出」、大杉の日本不在は日本の内務省、官憲を慌てさせたのは当然であったが、今回新たに外務省の外交史料中から大杉をめぐる日本政府の対応の経緯が明らかになった。
 またこれまで関連した文献で言及がないが、「東京日日新聞」記者がパリで大杉と合流をしメーデー当日に会見をしている。(鎌田慧氏が『大杉栄自由への疾走』で同記事には触れているがなぜか会見部分には言及をしていない)。

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その際に原稿を入手したと推測するが大杉のパリでの滞在記が(近藤憲二編集による同年十月刊行の『日本脱出記』では「パリの便所」として同文を収載)いち早く六月二十二日から四日続けて「佛京に納まって」と題され掲載されたことを新たに発見した。

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 記者本人がメーデーの直後に日本に原稿を携えて戻ったのか、または知人に原稿を託したのであろうか。外務省の史料、松田代理大使から内田大臣宛の報告に「右演説の要旨は当地滞在中の東京日日新聞記者井澤某に依りて密に本邦に報道せらるることに仝記者と大杉との間に打合済なる趣なり」と記されている。(大澤正道氏から井澤記者は松尾那之助と交友があったことを教示された)。


 たまたま他の件で特派されパリ滞在中に大杉の動向を知ったということなのか不明であるが、東京日日新聞記者と大杉、労働運動社とは深い交流があることは確かである。

 五月四日付「東京日日新聞」の報道を紹介する。
見出しは「支那人に化けた大杉栄氏パリで捕はる、メーデーの群衆を前に演説中を警視庁へ」二日発パリ特電。

「目下パリに滞在中の大杉栄氏はメーデーの労働組合本部において記者と会見して『僕は上海からバリーに来て
既に一ヶ月になる四月ベルリンに開催の国際無政府主義大会に出席の目的で来たが延期となった大会終了次第帰国する』と語りかくて氏はメーデー大会に参加しサン・デニス街で支那人董の名で群衆を前に演説中を官憲に知られ二日午後五時サン・ミシエルの広場で逮捕された氏はネクタイもむすばずチヨツキも付ず霜降りの古洋服を着たまま六名の刑事に警戒され大杉と名乗って警視庁に引致され折り柄出あったわれ等(特派員)に『とうたうやられたよ覚悟をしていた』とするどい目を光らして苦笑した。」



 外務省の動向は
一、上海から北京、奉天を経由して蒙古、あるいは極東ロシアからモスクワ入りの「情報」に振り回された時期。二、フランス滞在が確認され、入独、入露を阻止する意図が図られようとする時期。
三、メーデーでの逮捕者が大杉栄と確認されてからフランス政府による国外追放と日本への船便の代金を立替え便宜を図る時期。

 以上の三つに分けられる。時として日本の新聞報道に、またそれぞれ現地の情報通による大杉栄の「偽」動向に振り回されているお粗末な情報収集能力が露呈している。たまたま現地コミュニストと接触した日本人活動家が当該地に居たのであろうか。

 大杉栄の中国内滞在、移動説に振回された要因は大杉本人と山鹿泰治、中国の同志たちが図った情報かく乱が成功した結果であろう。山鹿は回想で触れていないが、和田久太郎の証言が伝聞ではあるが江口渙の回想に記されている。(『続・わが文学半世記』青木書店刊、一九六八年)。
 同書の「那須温泉の冬」の項(一〇八、九頁)から関連記述をそのまま引用する。

「松の内がすぎた頃から東京の新聞のどれもが、大杉栄のゆくえ不明についていっせいに書きはじめた。上海に渡ったのだ、ともいう。北京に姿をあらわしたともいう。また、満洲にいったとも報じている。そして彼の目的はいずれ労農ロシアに潜入することにあるのだ、と、どの新聞も書いている。
 私はそのことについて和田久太郎にただして見た。はじめは笑うだけで、なかなか話そうとはしなかった。だが三日後の夜だったが、さもさも、この世の重大事件を、とくべつに打ちあけて聞かすのだ、というような顔つきをして、ついにほんとうのところを聞かせた。
 大杉はこの年末にすでに日本を脱出することに成功していた。来るべき三月にベルリンで開かれる無政府主義者の世界大会に日本代表として参加するためである。

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法廷の和田久太郎
 (註・コロメルに大杉の名前を告げたのは小松清)

 まず上海に渡ってから、中国の無政府主義者の協力をえて、中国人になりすまし、うまく旅券を手に入れる。その旅券で船にのり、ひとまずフランスにゆき、フランスからさらに国境を突破してドイツに潜入する予定だ、というのである。そして大杉がハルビンや北京に姿をあらわしたとか、蒙古の砂漠を横断中である、とか、と、いう報道は中国の同志たちが、日本の官憲の追及の眼を混乱させるために、あちらの新聞社をとおして、ニセの電報を送ってよこさすためだと、和田は説明した。」

 大杉自身も『日本脱出記』(アルス刊、二三年十月、四五頁から四六頁)で触れている。
「上海に幾日いたか、又其の間何にをしていたか、と云ふことに就いては今はまだ何んにも云へない。ただそこにいる間に、ベルリンの大会が日延べになつた事が分つたので、ゆっくりと目的を果たす事が出来た。そして、その間に、日本では、僕が信州の何とか温泉へ行つたとか、ハルピンからロシアへ行ったとか、香港からヨオロッパへ渡つたとか、いや何処とかで補まつたとか、と云うふようないろんな新聞のうはさを見た。上海の支那人の新聞にも、さうしたうはさを伝へたほかに、ロシアから毎月幾らかの宣伝費を貰つている、と云ふやうな事までも伝へた。」

 
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『日本脱出記』中扉

 外務省外交史料
 一部を紹介する。(引用の順番は発信の日付を基準にする。発信者ごとに書式は異なる。手書きが主であり、少ないがタイピングされた本文もある。件名は内容が同趣旨でも統一はされていない場合もある。随時本文を引用した翻刻文は仮名を平仮名になおした。判読不明文字は■、以下略は「…」とした。)
大正十二年一月九日 内務省警保局長 外務省通商局長殿 機密受 第四号
《特別要視察人に関する件、警視庁編入甲号特別要視察人 大杉栄》
「右の者大正十一年十二月下旬上海経由北京に入り更に入露せむとする形跡有り本人の北京其の他の滞在地に於ける行動御内偵方…」
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大正十二年一月十二日 受信人 北京小幡公使 哈尓賓 山内総領事、在上海 松浦総領事 発信人名 内田大臣
《大杉栄の行動内査に関する件》
「大杉栄十二月下旬上海経由北京に入り更に入露せむとする形跡ある趣を以て同人の北京其他の滞在地に於ける行動内査方内務省より依頼有之候に付ては貴地に於ける同人行動御内偵の上御報告相成度此段申進候也」

大正十二年一月二十五日 山ノ内総領事発 第二六号 《片山潜と大杉栄との会合》 本文の主旨は知人某の電報を根拠にしている。

大正十二年一月二十六日 機密第二二号 在吉林 総領事 堺■■■ 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の赤化宣伝計画に関する件》

大正十二年一月三十日 機密第七七号 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の行動内査に関する件》
「首題の件に関し一月十二日附往電欧機密合第八号を以て御来示の趣承本件に就ては一月十二日在哈爾賓山内総領事よりも内務省警保局……大杉は最近知多に入込む目的を以て北京に向ひたる由に付動静内報ありたしとの旨来電の次第も有之精精探査したるも当地に入込める形跡なきのみならす或筋より得たる情報に拠るに大杉は…欧州経由莫斯科に向ひたるか…近着の満洲日日新聞所載一月二十五日発東京電報として同人は現に阿部倉温泉に閑遊中との記事も有之本人最近の動静に関する確報に接せさるも兎に角其の後とも今日迄大杉か北京に入込める事実を発見し得さる次第に有之候右回報旁申進候也」

大正十二年一月卅一日 機密第二四号 在上海総領事 船津辰一郎 外務大臣伯爵 内田康哉殿
《大杉栄の行動に関する件》
「本月十二日附…当地を経て北京奉天を通過し目下入露の途上に在りと謂へる警視庁編入甲号特別要視察人大杉栄の当地滞在中の行動其の他に就き内査候…」「記 上海に於ける支那人共産党員等の間に往復を重ねつつありて現に彼と会見したりと云ふ者の言に依れは「陳独秀(上海共産党首領)一派の者と接近して入露の計画を為したる趣にて彼は曾て上海に平民大学創設の計画あるや同人等より同大学教授に招聘せんとて其の交渉を受けたることあり旁上海一般の状況視察の為渡来せりとの風評専らなりしか実は陳独秀を首領とせる共産党の招待に依りたるものにて当地に於て無政府主義者及エスペランチストを集めて……労農露国と提携力説一部の支那人無政府主義者は今や大杉は共産主義に転換変節したる者にて其の行為唾棄すへきものとなし大に憤慨し居れりと謂ふ更に大杉は……平民女学校に於て職員生徒に対し《社会主義と女権問題》と題する講演を為し同日商務印書館編集員胡愈之を訪問し其の紹介によりて論文を同館発行の雑誌に発表することを約し若干の原稿料を収受せし形跡ありしか翌二十九日北京に向け出発せり大杉の当地を出発するや之と相踵いて一月一日田口運蔵来■し翌二日急遽北京に赴きたるを以て彼等の間には何等かの密約ありしものの如く察せられ次て…就て内偵せしに大杉の行動を知り居る様推測せられるたるも具体的事実に関しては言を左右にして語らさりき…」

大正十二年一月卅一日午前十一時 受信人 在奉天赤塚総領事宛 発信人名 内田大臣
《大杉栄の行動内査に関する件》
「往電欧一機密合第八号に関し大杉栄は客年十二月下旬上海に赴き■■北京に滞在したる上貴地経由西伯利に赴きたる形跡ある趣を以て同人の行動内査方内務省より依頼ありたるに付…」

大正十二年二月四日 一七一〇 暗 山内総領事 哈尓賓発 后三、〇〇 内田外務大臣宛 第三九号 
《貴電合第二二号に関し(大杉栄行動内偵方の件)》
「大久保内務次官の内話に依れば大杉栄は昨二日莫斯科より当地に潜入したる片山潜と出会したる上労農代表「ポゴージン」を訪問したる模様ありとのことなり、目下所在探査中。(長春経由二月四日前十一時四十五分)」

大正十二年二月九日 受信内務省後藤警保局長 発信松平欧米局長
《大杉栄の行動内査方に関する件》

大正十二年二月十日 受信内務省後藤警保局長 発信松平欧米局長
《大杉栄の行動内査方に関する件》

大正十二年二月十七日 電受第二六九七号 暗
山内総領事 哈爾賓発 本省着 大正十二年二月十七日 後十、〇〇 内田外務大臣 第五一号
《別紙》
「大杉栄は本年五月二十日莫斯科に開催せらるる第三回共産党国際会議に出席の目的を以て本月十七日頃北京を出発する筈にて同人北行の際は当地「ドルコム」に立寄る筈なりと右聞知の侭在京公使、天津、奉天、長春へ電報せり」

大正十二年二月二十日 二八一六 暗 赤塚総領事 内田外務大臣 第三五号
《貴電第一一号に関し(大杉栄の行動内偵方)》
「十九日夜十一時京奉鉄道にて来奉「ステーション、ホテル」に投宿二十日朝六時急行列車にて北行したる支那服外套を着したる者大杉栄の疑あり尚ほ同人は当地出発に際し四平街行の切符を買求めたりとのことなるに付同人の行動に付結果長春の報告する様四平街警察署の電報せり」

大正十二年二月二十日 在満州里 領事代理 田中文一郎 外務大臣伯爵内田健康哉殿
《大杉栄入露に関する件》
「知多より帰来せる邦人の言に依れば大杉栄は蒙古経由知多に着し同地の共産学校に於て佛語を以て主義に関する講演を為し聴衆に感動を与へたる趣にして其後同人の莫斯科に向け出発したりと云ふ」

大正十二年二月二十一日 警保乙第九八号 内務省警保局長 参謀次長殿 外務省欧米局長殿
《特別要視察人に関する件 大杉栄》
「一月末 蒙古「ウエルフネウジンスク」より知多に赴き一週間滞在」

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『二人の革命家』収載 広告


日本脱出記 2に続く

参考
2011年6月時点で古書サイト「日本の古本屋」ではアルス版が初版も含め13の古書店の所蔵がデータ上で確認できる。

他にはアルス版全集、そのリブリント版で世界文庫版、現代思潮社版が検索でアップされる。
岩波文庫版の『自叙伝・日本脱出記』も検索でアップ。

新刊としてはリンク・土曜社版(ペーパーバック)『日本脱出記』がこの春に刊行されたばかりである。
 <註 刊行書の当該サイトのURLに漢字が含まれるので直接のリンクがはれません。同社のトップサイトあるいはブログからアクセスしてください)
 
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表紙カバーのスキャン画像
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# by tosukina | 2011-06-12 22:06

大杉栄・日本脱出記  2 第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見・続

大正十二年二月廿二日 本省着 大正十二年二月十七日 後十、〇〇 在ハルビン 総領事  山内四郎
外務大臣伯爵 内田康哉殿
《高麗共産党員に於て大杉栄歓迎準備に関する件》
大正十二年三月十五日 機密第二四七号 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄の最近の行動に関し報告の件》
「…三月十五日信すべき某筋より得たる極秘情報に依るに大杉は事実当地に潜伏し居る模様なるに付…」「該情報の内容詳細は左掲の通に有之候」「大杉栄は秘かに上海より当地に入込みて一支那人宅に潜伏し主として学生方面と連絡し殊に北京大学関係学生と交際し居れり未た具体的飛躍を見さるも学生の外支那人同主義者とも連絡し北京大学講師たりし盲目露詩人より会て紹介を受けたる露国人とも往復し居れり尚彼は王正延の助手《幕下》と称する北京大学出身一支那人の宅に於て三月十一日夕開かれたる東三省学生旅大回収問題会議に出席せる事実あり其際に於ける彼の形相は顎鬚茫々、強度の近視的眼鏡を附け外見四十幾歳、背を屈め如何にも不健康にて肺患者に彷彿たる姿なりき尚彼は右席上温暖の候を往ち京奉線にて奉天に赴くへしと語れりと」

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大正十二年三月廿二日 四二七二 暗 巴里発大正十二年三月廿二日后一、三〇 本省着大正十二年三月廿三日前、一一、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第二〇八号
「大杉栄は支那旅券を帯有して香港より佛国汽船に乗船し三月五日頃馬耳寒に上陸後阿部の仮名を用ひて密かに巴里に滞在せり、当地に於ては■社会主義者の会合に臨席したる如きも特に同主義者有力者と往来せる形跡なし予て御通知の要視察人大石スチブン及林シヅエと交通し後者は常に同人に随伴せり本月十五日巴里発林を帯同し同月十七日より「フランクフルトアムマイン」に開会の無政府主義者大会に出席の為赴けり同人は入露を目的とせるもの如既に同国にある片山と連絡を取り経路は伊、墺国を経由するか或は独逸を経由するか目下処不明なり本電英、独、及馬耳塞へ転電し前記貴電と共に伊、墺へ郵送せり。」

大正十二年三月二三日 受信人名 後藤警保長 発信人名 松平欧米局長《大杉栄の行動に関する件》

大正十二年三月二十九日 機密第一五四号 在ハルビン 総領事山内四郎 外務大臣伯爵内田康哉殿
《大杉栄と朝鮮に関する件》

大正十二年四月十四日 在支那 特命全権公使 小幡酉吉 外務大臣伯爵内田康哉殿 機密第三六三号
《大杉栄の行動に関する件》
「其潜伏の場所も今に判明せさる処一方近来当地新聞紙上大杉来京の記事散見せらるる為支那警察側の注意をも喚起し京師警察庁機要課より大杉の写真の有無を我警察署に問合せ来りたるに付新聞紙所掲の写真を交付せしめたるに警察庁は■を複写し密偵に配布し且毎日郵便局に員を派して大杉等社会主義者輩の通信を検閲する等近来支那側の探査振りも相当厳重を加へたる模様なるも是又今に大杉の所在を確かむるに至らさる由に有之候尚今後共支那側と連絡を取り彼の行動内探を怠らさるへきも不取敢此段及進報候也」
写送付先 在上海在哈爾賓各総領事

大正十二年四月十九日 五六九三(暗)松田代理大使巴里発后六 本省着大正十二年四月二十日后二 内田外務大臣 第二八三号
《往電第二〇八号に関し(大杉消息)》
「大杉栄の「フランクフルトアムメイン」に於ける主義者大会参列は仝会合の招請に基きたる趣なる処仝人所持の支那旅券に必要の査証を取付けることの得ざりし故を以て同会へ参加することを得ず其侭佛国に滞在し居たるも所持金欠乏し■■生活に窮し来りたる尚既報の上海■■主義者との関係を辿りて里昴に滞在支那学生として保護を受け居れり仄聞する処に依れば■■(大杉)に於ても支那側の手先となることは潔しとせ■処なるのみならず佛支学会の保護を受たることも一層危険の処なり且今回砥渡欧の目的も各国主義者との連絡に非ずしも単に研究視察に止るものの如く目下入露を断念し近々独逸内に開かれるべき無政府主義者大会へのみは万難を排しての出席の覚悟なね趣にて同会終了の上は帰郷の希望を有する由なり目下在独日本人知人訪問無く金策を兼ね独逸へ入国の為再び支那旅券に所要の査証取付方を試み居れるが既に仏国官憲よりも不審なる人物として注意せられ居るやにて査証を得ること頗る困難なるに付■■海外旅券の交付を受けたる趣■■同人知人より特別の詮議ありたる旨願出の次第あり就ては同人に対する今後の処置に戴き至急付回電を請ふ独逸及里昴へ暗送せり。」

大正十二年四月廿八日午前十一時 受信人在佛松田代理大使 発信人名内田大臣
二二一号件名《大杉栄の海外旅券に関する件》大杉栄の入独を極力阻止という主旨。

大正十二年五月一日 六二〇〇暗 巴里発大正十二年五月一日后六、三五 本省着大正十二年五月二日前一〇、一五 内田外務大臣 松田代理大使 第二九九号
「佛国滞在中の大杉栄は五月一日万国労農祭に際し巴里に集会する社会主義者会合の席上に於て日本の仝主義者を代表して一場の演説を試むることとなり右演説の要旨は当地滞在中の東京日日新聞記者井澤某に依りて密に本邦に報道せらるることに仝記者と大杉との間に打合済なる趣なり、仝人演説の要旨は当方に於ても注意の上判明次第要報すべきも右聞込みの儘不取敢申進ず(了)」

大正十二年五月二日 六二五八暗 巴里発大正十二年五月二日后五、三〇 本省着大正十二年五月三日前一〇、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第三〇一号
《往電第二九九号に関し(大杉栄演説に関する件)》
「当地新聞報に依れば一名の日本人五月一日午後巴里郊外サンドニに開かれたる労働者の集会に於て演説せんとしたる際警察より身分を証明する文書の提示を要求せられたる処右文書を所有せざりしを以て直に警察署に拉致せられたり…」

大正十二年五月二日六二七六暗 巴里発大正十二年五月二日后六、一〇 本省着大正十二年五月三日后五、五〇 内田外務大臣 松田代理大使 第三〇二号
《往電第三〇一号に関し(大杉栄演説に関する件)》
警視庁に問合せたる処右日本人は支那人Tun Chen Tong と自称する由なるも里昴chemin de toill に住居したる趣なれば或は右は大杉が旅券の関係上偽名せるものかと察せられ里昴へ転電せり。

大正十二年五月二五日 七五四二 暗 巴里発大正十二年五月二五日后五、三五 本省着大正十二年五月二六日后一、三五 内田外務大臣 杉田代理大使 第三五五号

「大杉栄五月二十四日国外追放の言渡を受け即夜巴里発馬耳塞に護送せらる同人今後の動静に付ては菅領事とも連絡を執り判明次第直に電報すへし同人追放に先ち警視庁より旅券を所持せざる外国人は何れの国も入国を拒絶すへく又佛国の法律上一度追放せられたるに拘らす再ひ帰来せるもは厳罰に処せらるるを以て大杉の如く曾て所持したる支那旅券は里昴の警察に押収せられ目下全然旅券なきものは何時迄も佛国官憲の厄介にならさるを得す就ては佛国側の迷惑も諒とせられ旅券発給取計はれたしと懇請の次第ありたるも電第二二一号御訓令の次第もあるを以て体能く之を拒絶し居る次第なるも同人の為め此上更に外国官憲に迷惑を掛けるも好ましからされは成るへく速に帰国せしむる方与えへく日本迄の旅券を発給し深く将来を戒めて出立せしむることと致したく右は内務省藤岡書記官の意見も徴したる上特に申進する次第に付何分の義至急御回訓相仰きたし」


大正十二年五月二十六日 七五八四 暗 巴里発大正十二年五月二十六日后三、四〇 本省着大正十二年五月二十七日前八、五〇 内田外務大臣 杉田代理大使 第三五八号
《往電第三五五号に関し》
「二十五日大杉馬耳塞領事館に出頭最寄便船にて帰朝したき考えるが右手続に関し何等の援助を得たき旨申出たる趣管領事より当方に来電あり就ては前記往電の次第御詮議の上至急仝領事へ何分の御電訓ありたり当方へも転電ありたし(了)」

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大正十二年五月廿八日 暗号 発電大正十二年五月廿八日午後五時二十分 発電番号三八九四
受信人名 在佛 松田代理大使 発信人名 内田大臣 第三〇六号
《大杉栄に対する旅券発給差控方に関する件》
「省電第三五五号及第三五八号に同し帝国臣民にして帰朝せんとする者は日本船に依る場合は勿論外国船に依る場合と云えども別に海外旅券を必要とせさる義に付大杉に対し旅券を発給することは差控」

大正十二年五月二十九日 七七一〇 暗 巴里発大正十二年五月二十九日后一〇、二〇 本省着大正十二年五月三〇日后二、三五 内田外務大臣 杉田代理大使 第三六三号
《大使発馬耳塞宛電報第三九号大臣発大使宛第三〇六号に関し(大杉旅券の件)》
「大杉に船賃用意なきは勿論当地の友人等に於ても才覚覚束なきやに察せらるる処船賃は本人帰国の為是非必要に付乗船迄に時日あらば本省に御請訓然るべし若し其の時日なくば当館の機密費を一時流用し本省の追認を仰ぐべく貴官に於て本件御取計上の御参考迄に電報す。」


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大正十二年六月二日 七八四二暗 馬耳塞発大正十二年六月一日后二、四〇 本省着大正十二年六月二日前一〇、〇 内田外務大臣 菅領事 第一二号
《本官発在佛大使宛電報第一四号貴電第三九号に関し》
「大杉の申立る処に依れば船賃は本邦よりの送金等に依整ふへき見込なる趣にして当館としても成る可く本人に工面せしめたき考なる処既に来る二日出帆の箱根丸に乗船し得る様手配済にして且万一船賃不足の為出発叶へとする当国官憲に更に迷惑を掛けることと相成るへきに付右用意として英貨百磅御送附相成度し」

大正十二年六月三日 七九三九暗 馬耳塞発大正十二年六月三日前一〇、一五 本省着大正十二年六月四日前八、一五 内田外務大臣 菅領事 第一四号
《貴大臣発在佛大使宛電報第三〇六号に関し》
「大杉は三日箱根丸にて無旅券の儘帰国の途に就けり尚同人二等船賃は巴里よりの送金にて立て替換置けり在佛大使へ転電せり。」

本文はここまで。

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アルス版表紙裏 「仏蘭西追放状」とキャプション




コラム・内閲と検閲
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初版 18,19頁

 出版法による検閲は出版物を印刷製本した後、発行の三日前に納本し事後検閲を受けるという制度で出発した。しかし実態はゲラ刷りの段階で内々に見てもらう内閲が慣例化し、「内閲制度」になった。
                       (参照 『検閲と文学』1920年代の攻防 紅野謙介 河出ブックス2009年)
 さらに「内部検閲」として、かつて削除処分を受けたか予め削除されると予想される語句を発行者が編集により、通常は伏せ字分を「××」として活字を組む自主規制が行われた。「自主」削除した文字数と×の数を同数としたかは検証が必要である。
 ××以外の活字潰し(活字表面をヤスリで削ったような痕跡)、そして空白(活字を抜いたママ)或いは……(何行削除と記し……記号を組み込む)の箇所はゲラ刷りを提出した内閲時に削除の指示があった箇所と推測。
 大杉栄の著作でいえば結局は発売禁止処分を受けた『労働運動の哲学』は活字潰しが散見される。また初版と重版では削除頁の異動がある。(リンク頁の画像の同書2,3頁の一部の活字は潰されて印刷)。
 アルス版の『日本脱出記』は画像をアップしたように初版と60版では同頁の、おそらく内閲後の処理が異なる。
初版では…を組み直す時間が無く活字を抜いた空白のママである。60版ではすでに処分を受けていたので削除の行数を記し、…の記号活字で組み直している。
 活版印刷の紙型が耐え得る刷り部数は何部であるのか。1,000部程度という説もある。


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土曜社版『日本脱出記』凡例

『日本脱出記』の初版と重版の18,19頁の画像。
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初版 

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初版奥付


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60版


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『大杉栄全集』 頁組みが異なるので本文のずれがあります。

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土曜社版『日本脱出記』26頁


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初版

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60版

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『大杉栄全集』

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土曜社版『日本脱出記』27頁

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初版
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60版 18,19頁


『大杉栄全集』続きの頁
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リンク 
『1920年、大杉栄を上海へ誘った 「コミンテルンの密使」は李増林か李春熟か』


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土曜社版『日本脱出記』 カバー





日本脱出記 3に続く















































 
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# by tosukina | 2011-06-11 22:17

大杉栄・日本脱出記  3  第二章 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む 

第二章 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む 
 

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』の一九二四年六月号に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。


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「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。

 しかし松本は「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に登場し、かなりの時間を林と過ごす在フランスの井澤と鴨居という「毎日」新聞の「先輩」記者になぜか関心を寄せていない。林は頻繁に名を挙げているが松本は名を出さず「二人の記者」としか表現をしていない。林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない。

 『トスキナア』創刊号に小松清の評伝である『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ(一九九九年発行、白亜書房刊)の紹介をした。同書から小松清の未発表自筆原稿「エゴイスト」の存在を知った。再引用をすると「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」という内容であり、林の「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」と対をなす。大杉がフランスに来たきっかけは小松が「コロメル」に名を挙げたからである。
 
 大杉の評伝でフランス滞在に頁を割いている著作は他に『大杉栄 自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松清の作品に触れていない。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を掲載をした『改造』六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。

「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれている。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を執筆するにあたり自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た
 二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。
 三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。
 四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。
 五章、リヨンでの中国の同志との交友。
 六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。
 七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。
 八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章である。
 九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。
 十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
  十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
  十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。

 本文全体は『改造』の四七頁分であり、これまでは『未刊 大杉栄遺稿』安谷寛一編(一九二八年、金星堂)にしか全文が再録されていない。両文献とも入手し難いので、林と大杉が絡む箇所を中心に本文テキストを部分的に転載して行く。頁数は『改造』誌。


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大杉栄自筆原稿  『大杉栄全集』第三巻
 
 一章 八九頁 
「二月十三日、この日大杉はフランス船のアンドレ・ルボンに乗つて馬耳塞港に着いた、と、彼はその手記『入獄から追放まで』に書いてゐる。」
 林は大杉がマルセイユに上陸をしたことを知らなかったと回想。その日の描写から始まる。
「前年の十二月中旬、巴里を立つて、その時マルセーユに近いエスタツクと云ふ、海邊の小さな町に居た。最初マルセーユに宿をとつて、その邊を物色して歩いた後ちエスタツクを見つけた僕たちは、充分満足して、そこへ荷物を運んで行つた。」
 九〇頁「Mは僕より先にフランスに来てゐたが、巴里を離れたことがなく、これが初旅だつた。」
「そこへこれも画家の前田嘉三郎が、この近くを旅してゐたと云つて、飄然としてやつて来た。」
 九一頁「恰度その日の夕方巴里の井澤弘から明朝十時マルセーユに着くと電報が来た。これは豫じめ分つてゐたのだが、彼の来かたの遅いのを僕はもどかしがつてゐたのだつた。井澤の電報を見ると元気づいて、その夜は前田とMと三人で海岸に列んでゐるカフエに行つて酔ふまで酒を呑んだ。それが二月十二日だ。」
「馬耳塞驛のプラツト、ホームで、車窓から首を出してゐた井澤を見つけた時、これで助つたと云ふ気がした。井澤は大阪毎日記者の鴨居と同行だつた。彼等はこれから伊太利の旅に出掛ける途中だつたが、僕のところへ寄つて二三日休養して行きたいと、マルセイユに下車したのだ。」
 九二頁「この日大杉が馬耳塞に上陸してゐようなどゝは、夢にも思ふ筈もなく、妙らしくいゝ気持になつて、ひとり饒舌り散らした。」

二章 九四頁「もうとうに伊太李の旅に立つたものと思ひ込んでゐた、井澤と鴨居が飄々として現はれた。」
 そして林はエスタックに戻り大杉の手紙を受取る。
「ひとつの軽い封筒を開けて、そこに書かれた文字を一目見て、僕はハツとした。その手紙は──。
 僕もやつて来た。
 けふ──街へ行つてYに会つた。君が四五日中にこちらへ来ると云ふようなうはさだそうだ。若し本当ら大至急やつて来ないか、若し又君が来られなければ、僕の方から行く。尤も今直ぐと云ふわけには行かないが。
 最近に伊藤から君にあてゝはあるが、実は僕にあてたものなのだ。
《僕の来たことは絶対秘密。 栄》
 この後とへ彼の支那人としての名と、アドレスが書いてあつた。
  略
彼は又とない僕の親友だ。
それだけに歓びも大きい。
──初めて、大杉を知った時から、僕が日本を去るまでの永い間の事は、今こゝに書かないが、たゞ一し言、云つて置きたい。──
 彼と初めて知りあつたのは、恰度十年前になる。その頃、彼は荒畑君と共に最初の近代思想を出し、大久保の住居で極く内輪同志のセンデカリズム研究会をやつていた、……略……
 その後二年ほども経つて、僕が絵を描くようになつて、自然それまでの同志とのつき合も疎遠になつて来た頃から、以前のように同じ主義、同志と云ふ意味を寧ろ除いて、却つて彼との交わりは深くなつて行つた。──」
 林が大杉と出会ったのはサンジカリズム研究会の時期であり、『近代思想』を刊行していた。
「エスタツクの往復の途中、僕は井澤を選んで同乗した。大分話が溜つて居たからだつた。そして帰へりの車中で、僕はそつと彼に大杉の来た事を漏らした。無論『絶対秘密』なんだが彼には包んで置けなかつた。二人で色々と話して見たが、大杉がどう云ふ風にして日本を脱けて来たものか分らなかつた。いつも乍らだが彼の斯くうしたやり口、特に今度の手際には、ふたりで感歎したものだ。」
 林は井澤と親密であり大杉の来フランスを打ち明けた。井澤は日本でも大杉と面識があった。
 九六頁「アンチーヴから一緒に来て貰った、ピエールの事を忘れていた。」「巴里の方を一二日延ばす事にして、直ぐ大杉へは電報を打った。」「夕方から鴨居も誘つて五人で日本料理屋へ行つた」。「アンチーヴ行の汽車に乗ったのは一時過ぎていた。」「もう夜が白みかけていた。」「その日の午後一二時の列車でマルセイユへ向かう。」「翌日、午後七時の特急で巴里へ立つた。」「朝七時に巴里に着く。」「大杉の宿の方へとタクシーに乗つた。」
 林の行動もかなり成り行きのところがある。

 三章 九六頁「三月上旬とは云ふものの巴里はまだ冬の姿そのままだつた。」
 九七頁 林は巴里廿区で大杉の宿を探す。木賃宿で大杉との再会をする。
「戸を叩くと、内側から『──ハヤシ?』まがいもなく大杉の声だつた。
『──よくやつて来れたなァ、君が来るとは──何にしろ思ひがけない事だつた、』
『その事ならずつと前に、話しだけは鳥度きいていたよ、何んでも昨年の夏頃だつたか、君と岩佐作太郎君に勧誘状を出したと、その頃リベルテールへ出入りしている男からきいては居たが、どうせ来られやしまいと思つたので、気にも留めずに忘れていた。第一旅券が下りつこないと思ふからね』」

九八頁 伊藤野枝からの手紙が大杉に手渡される。林宛に届いていたが、その内容を理解できなかった。くしゃくしゃにしてしまった手紙を渡すと大杉は「洗面器に水を湛へ、手紙を片方から段々に水に浸し乍ら読んでいた。」
伊藤野枝からの手紙は官憲に万が一渡ってしまつた場合を考え、簡単に読めないように記述を工夫していたようだ。岩佐作太郎も招請がされていたようだが、岩佐は回想で触れていない。二人はモンマルトルに移る相談をする。

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大杉栄のラサンテ刑務所におけるメモ  『大杉栄全集第三巻』

 二人はレパブリツク広場に出る。宿を探すのを画家のYに頼むことにしてYの住居へ大杉も一緒に行く。筆者も一九八六年と八八年にフランスのアナキスト連盟が運営している書店を訪ね、十一区にある地下鉄リパブリック駅から同広場に出て至近の距離の書店へ向かったことがある。また同広場に面した同聯盟が運営していた古い劇場でレオ・フェーレのライブコンサートを聴いた経験をもつ。 
 九九頁 「遠い道程を、Yの住居に行つた。」「Yは日本に居た頃、僕の紹介で二三度大杉に会つていた。」
巴里の林のアドレスがYの処になつていた関係から、最初大杉はYを訪ねて林の行く先を知った。そしてYが新たな宿を探すことになり林と大杉は木賃宿に荷物を引取に行く。当初、中国の同志のJと自炊生活をしていたので道具もあったが、カフェの道具は引き続き持って行くことにした。林はたまたまラ・サンテ刑務所の近くにある画室で「今も使つている」と回想をしている。

 四章 モンマルトルでの生活が一〇一頁から一〇二頁にかけて記述される。 中国の同志との交流も描写されている。
「その頃巴里郊外の工場で労働し乍ら、その余暇で謄写版印刷の『工餘』と云ふ無政府主義の雑誌を出していた。若い支那人のLがちよいちよい大杉の処へ尋ねて来ていた。」 
一〇三頁はリヨンでの記述になる。
「昼も夜も二人でたゞ遊び暮らした。そして少し尠し飽きて来た頃だつた。日本の方から大使館宛で、僕の行動、素行を至急取調べろと云ふ電報が、既に三週間も前に来ていたが、大使館では別に取合つていないと云ふことを或る処から聴きこんだ。要するに僕を調べれば大杉がフランスに来ているか、居ないかは判明する、と云ふ日本当局の見込なんだ。この場合大使館が日本からの訓電に拠つて取調べやうとしなかつたことは有難かつた、が、この頃は例の大会が四月一日から伯林で開かれる筈になつていた時で、彼はそれ迄に独逸に行かなければならなかつた。まだまだ巴里で見つかるには少しばかり早かつた。」
 
 大杉と話をしているうちに林もベルリンへ一緒に行くと云う話が浮上する。
「つい僕も里心が出て一緒に行きたくなつた。伯林は前後四回に亘つて七八ヶ月暮らした処ではあるし、どうせいい加減だが言葉だつて、他かの事にしろフランスに居るより慣れていた。そして又伯林で大杉を案内してやりたい気も起きて来た。『僕も一緒に行かうか』と云ふと『うん行かふ』と云ふ返辞だ。伯林で大会に出席すれば、必らず其処で捕まる。彼はそう思つていた」
「『僕が捕まれば君も巻添を喰つて捕つたうへ追放になるが、そいつは鳥渡まづいな、尤も捕まるとしても最終日だらうから、その日君は僕と居ない事にしたら大丈夫だらう』などと云つていたが、僕も迂つかり捕つて追放など喰ふのは有難くないと思つた。彼もひとりで独逸入りをするより僕と云ふ連れがあつて行く方がいゝと思つたにはちがいない。併し最後の捕つたり、追放になつたりする事を考へると、矢張りひとりで行く方がいゝと思つたやうだ。」
 大杉はパリのアナキストたちの事務所に寄る。
「『リベルテール』へ行つたところ例のマダムから大杉への手紙が届いていた
このマダムと云ふのは彼の『入獄から追放まで』の最初の方に書かれてある、彼と日本から同船して来たマダムNと云ふロシア婦人だ」
 そして、伯林の大会が延期になつた事、リヨンからカルトディダンテイテがもらえるという便りが来ていたことが語られる。
 林は「これは僕が巴里へ出て来て、彼と一緒になつてから恰度二週間目の三月十七日だ。」と結ぶ。

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林倭衛

 すでに三月十五日頃から二十二日までの間に大杉栄と林倭衛の行動は把握されていた。前号で紹介をした外務省史料の三月二十二日付け外交文書に中国旅券で三月五日に上陸し、大石七分、林倭衛と「交通」をし後者は常に同人に随伴せり……と報告がされている。上陸の日付は間違った情報であるが、林倭衛との交友は把握されている。
 前述の林が知人から得た情報として「日本の方から大使館宛で、僕の行動、素行を至急取調べろと云ふ電報が、既に三週間も前に来ていたが、大使館では別に取合つていないと云ふことを或る処から聴きこんだ。」
「要するに僕を調べれば大杉がフランスに来ているか、居ないかは判明する、と云ふ日本当局の見込なんだ。」「この場合大使館が日本からの訓電に拠つて取調べやうとしなかつたことは有難かつた。」

 外務省の該当史料を引用する。 
大正十二年三月廿二日 四二七二 暗 巴里発大正十二年三月廿二日后一、三〇 本省着大正十二年三月廿三日前、一一、三〇 内田外務大臣 松田代理大使 第二〇八号
「大杉栄は支那旅券を帯有して香港より佛国汽船に乗船し三月五日頃馬耳寒に上陸後阿部の仮名を用ひて密かに巴里に滞在せり、当地に於ては■社会主義者の会合に臨席したる如きも特に同主義者有力者と往来せる形跡なし予て御通知の要視察人大石スチブン及林シヅエと交通し後者は常に同人に随伴せり本月十五日巴里発林を帯同し同月十七日より「フランクフルトアムマイン」に開会の無政府主義者大会に出席の為赴けり同人は入露を目的とせるもの如既に同国にある片山と連絡を取り経路は伊、墺国を経由するか或は独逸を経由するか目下処不明なり本電英、独、及馬耳塞へ転電し前記貴電と共に伊、墺へ郵送せり。」


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 林は大使館から直接の聴取は無いということで楽観をしていたが、林の周辺から情報は伝わっていたようだ。ベルリンに同行をする話まで把握をされていた。
 林は大石七分の名を記述をしていないが、イニシャルで登場をさせていたのではないか。
                             

日本脱出記 4に続く



リンク

コロメルに大杉の名を告げたのは小松清


パリにおける大杉栄氏
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# by tosukina | 2011-06-10 22:23

大杉栄・日本脱出記 4 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二


五章
一〇三頁。「翌朝、未だ夜の明け切らぬうちに汽車はリヨンに着いた。リヨンは僕には初めての土地だつた」。郊外へ外れかかるところの長屋風の家の前で大杉が車を停めさせ、二階の長い廊下を渡り突き当たりの戸を叩く。「これが支那の同志Jの住居だつた」と林倭衛の描写が始まる。
「『やあ帰りましたね。さあさあ』と彼は日本語でこう云うと、僕達をその室へ案内した。Jの容貌は日本人そっくりだった」

一〇四頁。続けて「彼は色褪せた詰襟の服を着て、松葉杖を持っていた。」「彼の日本語は完全とは云えなかったが、中々巧いものだ、普通の用事はそれで充分に事と足りた。日本に六年間留学していたが、日本を去ってすでに六年、その後日本語を使う機会がなかったので、あらかた忘れて了いましたと云っていたが、それにしては立派なものだった。」「彼はリヨンの中法学院にいる無政府主義者中の領袖株だった。」「彼の細君は支那の無政府主義者として有名だった、師復の妹だ。」と身元を推測させる記述になる。そして大杉が泊まっているホテルに向かう。
一〇五頁。散歩に出て堡塁跡の草原に寝転び、大杉はJの仲間の話を林にする。「支那の無政府主義者と云うのはどっちかと云えば、人道主義者と云った方がいい位なんだ。もともと彼方の方は人道主義から出発しているんだよ、いまにいたっても夫れがちっとも抜けていないんだよ。兎に角、日本のなどとは大分趣が異っている。」
 昼近くになり近くの中華料理店に行き、Jの仲間四、五人と合流する。最後に仲間は合わせて十人になり昼食会が始まる。日本語を話すのはJだけで、フランス語を話すUが大杉と頻りに話す。大杉は警察に寄りカル・ディダンティテをもらう。
 大杉はJと古本探しに行き、林は中国の無政府主義者たちに案内され美術館見学に行く。一人が審美学を専攻しているので詳しく説明をするが、林はフランス語が判らず退屈する。
 林と大杉はその夜十二時の汽車でマルセイユに向かう。

六章
 マルセイユに着いた大杉はマダムNを探す。郊外の別荘地に滞在しているNと再会をする。Nは「井上さん」と大杉を呼ぶが大杉は本名も経緯もNに伝えている。食事会でのマダムNの話が続く。Nは大杉に「革命家なんか止めろ」と云う。
 一〇八頁。林は翌日午後三時の汽車でアンチーヴに向かい、大杉もその夜のうちにリヨンに帰る。
 二、三日して大杉から林宛に手紙が届き、さらに二週間の間に続けての来信を記し、林は全文を掲載している。
 三月二一日付け。林倭衛宛「……マルセイユはいやな処だ。…僕はこれで、外国人とは二度目のプラトニックだ。がプラトニックはもういやだ。バルルタバランのダンスーズの方がよっぽどいい。二十日午後八時。今リオンに着いた。又あの色っぽい女の処にでも当分いよう。二一日朝。」
 三月二六日「……ドリイ、僕のダンスーズだ、にも、たいくつまぎれに(と云い訳しないとやはり気が済まない)ふざけた手紙を出しておいた。僕は本月一ぱいここにいる。そしてもしヴィザが貰えなければテクで行く。それまでにはこっちへ来られまいなこの三日ばかりいい天気になってほんとに春らしくなった。。が、病気だったり、殊に文なしだったりした日にや、春も女もへちまもない。二六日。
 僕はまだ見ない。君はまだものにしない、そして恐らくは二人とも永久にまだまだであるだろう。何んとかマドムアゼルによろしく」。大杉は林との手紙にマダムNのことを書き遥か日本を離れて旅先の無聊を伝えている。
 三月二八日付け「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の十日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする。今度は早く財布の病気をよくしなくっちゃ。二十八日」。この頃はまだヴィザが出ることに対して楽観的である。
 三月二九日付け「…学校から君の二通の手紙をとどけてくれた。……パリからの返事を待っているうちに、それもまだ来ないんだがね、思いがけなくウチから金を送って来た。……それで、それが受取れたら、僕はすぐまたパリへ行くかも知れない。そして都合ではベルギーからオランダへ出て、さらにドイツにはいることになるかも知れない。そうなれば、それからオオストリ、スイス、イタリイと大旅行をして来る予定だ。……」
 三月三一日付け「K(註・小松清)の方に金が来んでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょう漸く金が受取れた。今晩は一つ、久しぶりでウンとうまい御馳走でも食おうと思う。僕はパリへ送ったパスを送り返すように言ってやったんだが、それがまだ着かないので、そして明日は日曜、明後日は祭日と来ているので、早くとも三日にならないとそれが受取れそうもない。それが来るとこんどはそれを持って、こっちの警察へヴィザを貰いに行くんだ。そしてもしドイツ行がうるさければ、ベルギイ行きにする。それからあとは又あとの事だ。すると、まだ、ここを立つのは四、五日後になりそうだ。約束なんか破ってそれまでに来いよ。三一日、」。大杉も林も同時期に金を得ることができ一安心し、ドイツへ直接行けなければベルギーなどを経由する手段を考え始める。
 四月二日付け「……僕は日曜のいい天気に田舎へ行ってうんと遊んだので、暫く寝ていて変になったからだがすっか回復した。きょうもまたうんとやれそうだ。バルビユスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(先づ無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが、それには三人の本を大ぶ読まなければならんのでまだいつのことになるか分らない。パリからまだパスが来ない。……火曜二日」。次章の林のバルビユス訪問記に先立ち、大杉の手紙により肖像画を描くエピソードが出される。


七章
 一一一頁。林はアンチーヴで絵も描かず、相変らず落着のない日を過ごしている。或る日、K(小松清)からバルビユス訪問への同行を誘われる。
一一二頁。ツウロン行の汽車に乗り、カンヌを過ぎ四つ五つの小さな駅を経てトラヤという三方山に囲まれた駅で降りる。海に沿った街道を歩き、住人に尋ね朱色の小さな家を目指す。
一一三頁。二人は粗末な仕事着で小船にニスを塗っていたアンリ・バルビユスと崖の下で会う。
「今、彼はアナトル・フランスを論じ、労農ソビエットを讃え、クラルテ運動の趨勢に及び、その運動がいまや彼の双肩にかかっていることを語って、自ら噴気せねばならぬ秋と大見得を切っているバルビュスなのである。」と林は「美しい声で革命を語る」バルビユスを描写する。
「話の詳細に至っては遺憾乍ら分らなかったが、その大体は共産主義の賛美、無政府主義を非難するものであろうと朧げ乍らそれを察しられた。」
 一一四頁。「僕はふと彼の肖像を描きたい気になった。そのことを彼に云うと、四、五日ならモデルになってもいいと云う返辞だ」。三人は食堂で赤葡萄酒を飲む。バルビユスは自転車で二人を停車場まで送る。林はバルビユスの思想的立場はともかくとして人間的に惹かれたようである。
 しかしこの後、林はリヨンに行く決心がつき、バルビユスには断りの手紙を出す。
「リヨンの大杉から、何日シュトラスブルグ経由でドイツへ立つという電報が来た」。すれ違いになるのを避けるため林はリヨンの大杉に「しばらく待ってくれ」と返辞の電報を出し、パリへ出る小松と一緒にアンチーヴを去る。

八章
 一一六頁。林は二十日ぶりでリヨンに滞在していた大杉と一緒になる。小松は、その日の夜行でパリに向かう。
警視庁に旅券を預けてから二十日も経つが、大杉に対してドイツ行きのヴィザが出ない。林は「大杉はリヨンのJのグループと思われているので引き延ばされているのではないか」と推測をする。
林は大杉が検討をしたベルギーやオランダを経由してのドイツ行きを勧めていたが、中国の同志たちは穏健な方法でのドイツ行きを提言していた。
一一七頁。リヨンで林はJたちに部屋を探してもらい、食事は大杉と一緒にJの家で食べるようになった。
大杉はヴィザに関しては成り行きまかせにした。
そして『日本脱出記』草稿を林を経由してパリに送り、そこから日本に送らせている。「改造に送る(註 掲載誌では「送った」)『日本脱出記』に手を入れ、其が出来たので僕の手を経て巴里に廻し、そこから日本へ送つた。」
 一一八頁。大杉はリヨンに滞在しているうちにドイツ行きの旅費を使ってしまい、ヴィザがおりても出発できなくなった。林の部屋も見つからず、二人はリヨンに厭気がさし、林は一時リヨンを離れパリに出ることにする。

九章  
 林は巴里に出、その日のうちに金を工面、大杉に送金をする。推測で書くしかないが、大石七分が融通したのであろうか。大杉からの手紙二通を林は掲載している。
 四月十七日付け「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Painという自叙伝小説を買って来て、きょうまでそれを読み耽っている。パリはどうだ。……僕の手紙は二重封にして、そとはJにあてて学校へ送ってくれ。もう十七日だ、いやになっちまうよ」。
一一九頁。
 

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『大杉栄全集』第三巻綴じ込み写真頁
編者近藤憲二によると撮影者は林倭衛、女性は下宿屋の娘

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四月一九日付け「……きのうの午後また警視庁へ行った。……ア・ラスメエン・プロシエン(来月に)になるのかもしれない。……事によると、パリでも君のことを調べているかも知れない。こんなにして一々調べて行って、それがいっさい済んでからヴィザをくれるとなると、オ・モ・プロシエンがこんどはまたア・ランネ・プロシエン(来年)になるだろう。くさくさすることおびただしい。十九日」
 新聞記者と再会した四月二十日からの動きを林は描いている。
「井澤と鴨居も、僕と同じホテルに泊つてゐた。十九日付の大杉の手紙を受取つた二十日の晩、井澤と僕はサン・ミイシエル橋のそばのカフエで遅くまで飲んでゐた。井澤は、二十二日の晩に巴里を発つ。宮様の霊柩車に従ひてマルセーユへ行く筈だつた。鴨居は先発として、その日の朝だかにマルセーユへ立つてゐる」。「宮様の霊柩車」というのは北白川宮家成久の霊柩車であった。

四月一日、パリ近郊で自動車事故で死亡した。


 林は続けて書く。「早晩、大杉がフランスに居ることは日本の方へ知れる事だ、いまでは又知れたつていゝんだらう、どうせ分ることなら、大杉に一応訊いたうへで、君が社の方へ電報を打つてはどうかと、僕から話を持ちかけた『それでは一日前に発つて、里昴に寄つて大杉に会ふことにしよう。一緒に行つて呉れるか』『行かう』夜中の一時半頃だつたが二人はタクシーを見つけて、巴里中央取引所構内の夜間電報扱所まで行つて、大杉に電報を打つた」。

と林は井澤に「特ダネ」として大杉のフランス滞在を報道させようとする。
「翌晩、十時の汽車に乗るつもりで、飯を食つたが僅か五六分の差で乗遅れた。で二十二日朝八時の特急で立つて、里昴に四時頃着いた。僕は大杉の手紙に拠つて、直接彼の宿へ行くのは危いと思つたからJの家へ行つた。

Jは留守で、妻君に大杉の宿へ行つて貰つた。彼はJの妻君とつれ立つてやつて来た。井澤とは既に日本で大分以前だが会つてゐたので、わざわざ紹介の要もなかつた。だがお互に顔は忘れかけてゐたらう」。大杉と井澤は対面をした。

「Jの家を出て三人で里昴の街へ下りた。カフェで一杯やり乍ら話の打合せをして、鳥度贅沢なレストランで晩食を喰ひ乍ら僕と井澤は又飲んだ。井澤はその夜四時里昴を通過する、宮様の霊柩車と共にマルセーユに行かなければならなかつた。それまでの永い時間、僕等は飲み歩いて過した。仕舞にはどこでも閉め出しを喰つて、停車場構内のビユツフエに入つた。

そこでも三時頃になつて追い出された。それで汽車の到着までには未だ間があつたが井澤と別れて帰へることにした。振り返つて見ると、彼は黒い折鞄をかゝへ、ステツキを持つて、ヒヨロヒヨロとプラツトホームに蹌踉としてゐた。(後にきいたが、彼はその折鞄とステツキほベンチの上に残して、汽車に乗つたそうだ)大杉はその晩僕の宿で泊つた。」。大杉は酒を飲めず、林と井澤は酒を飲み続けている。三人は何を話したのであろうか。井澤記者も会談記を残していない。



 一二一頁。「夜は必ず二人で里昴へ下りた。一緒に飯を喰い大抵十二時頃まで、カフェを歩いて、僕がいゝ加減醉ふまで、ぶらぶらして過した。井澤は、四日経ち五日過ぎてもかえつてこない、井澤からは何んの音沙汰もなく、午後になつてJの家へ出掛けて、大杉と一緒になるまでは、ほとほと身を持て余してゐた」。リヨンで井澤を待つ日々である。
 一二二頁。「恰度一週間目で、井澤は鴨居と連れ立つてやつて来た。その晩は四人で夜更けまで飲んだ。ふたりの呑気者は帰へることを忘れて、マルセイユで飲んで居たにちがいなかつた。翌日午後二時の汽車で僕等三人は巴里へ立つた。別れ際に、大杉は、僕も巴里の五月一日祭を観たいから、吃度二三中にこゝを抜け出して行くと去つてゐた」。
 林と二人の記者は大杉をリヨンに残してパリに向かう。メーデーを観るとすでに決意していた。
 

この時期の大杉の動きは外務省に把握されていた。四月十九日付けの松田代理大使名による報告書を再掲する。
「大正十二年四月十九日 五六九三(暗)松田代理大使巴里 后六 本省着大正十二年四月二十日后二 内田外務大臣 第二八三号」
《往電第二〇八号に関し(大杉消息)》
「大杉栄の《フランクフルトアムメイン》に於ける主義者大会参列は仝会合の招請に基きたる趣なる処仝人所持の支那旅券に必要の査証を取付けることの得ざりし故を以て同会へ参加することを得ず其侭佛国に滞在し居たるも所持金欠乏し■■生活に窮し来りたる尚既報の上海■■主義者との関係を辿りて里昴に滞在支那学生として保護を受け居れり仄聞する処に依れば■■(大杉)に於ても支那側の手先となることは潔しとせ■処なるのみならず佛支学会の保護を受たることも一層危険の処なり且今回砥渡欧の目的も各国主義者との連絡に非ずしも単に研究視察に止るものの如く目下入露を断念し近々独逸内に開かれるべき無政府主義者大会へのみは万難を排しての出席の覚悟なね趣にて同会終了の上は帰郷の希望を有する由なり目下在独日本人知人訪問無く金策を兼ね独逸へ入国の為再び支那旅券に所要の査証取付方を試み居れるが既に仏国官憲よりも不審なる人物として注意せられ居るやにて査証を得ること頗る困難なるに付■■海外旅券の交付を受けたる趣■■同人知人より特別の詮議ありたる旨願出の次第あり就ては同人に対する今後の処置に戴き至急付回電を請ふ独逸及里昴へ暗送せり。」
 中国の同志たちの「保護」を受けていること、ドイツに行けず金欠状態であること、金策に動こうとしていることが報告されている。
                   

註 以下は「メモ」

十 

二十九日の夜、里昴の大杉から、明朝巴里に着く、と、電報がきた。
…彼は午後になつて、ぶらりと這入つて来た。
…リベルテールへメーデーの集会の場所をきゝに行つて来た。そう云つて今度は裁縫女工の罷工に就て、彼女等の生活状態の詳細な統計などを見せ乍ら話してきかせた。
東京日日に掲載された原稿を持参していたことを匂わせているのか
僕が話の末に文士のS・Kが巴里に来てゐることを話すと、S・Kは僕も一寸知つてゐるし、芝居のことを話したいから直ぐ訪ねて見よう、と彼が云ひ出した。
S・Kと林との巴里の一夜


一二三頁 五月一日から二日
五月一日のメーデーには十一時頃、彼は僕が寝てゐる内にやつて来た。これからサン・ドニーの集会に行くんだと云ふので、僕も起きて十二時頃一緒に戸外へ出た。
…翌日はひる頃までねて起きたが、彼は未だ姿を見せなかつた。
…五時頃だつたらうか、烈しく戸を叩く音と共に、たゞ者とも覚へない、人相の悪い男が五六人、荒らあらしく、どやどやつと僕の室に這入り込んできた。後とから大杉がこゝろもち蒼ざめた顔で、稍々亢奮した沈黙の体で続いて入つて来た。


一二四頁
ホテルのビユウロウで、鴨居が二人の男に調べられてゐた。
宿をたまたま離れようとしていたときに来た林を調べに警官と出会った


一二五頁
林も警視庁へ同行を求められる
 僕は大杉に追ひついた。『どうして露見つたんだ』と声をかけた『新聞に出て了つたそうだよ』『僕は何にも知らないで通すぜ』『うん、それでいゝ』


一二六頁

…明朝九時に茲へ来いと言渡されて、そこを出た。

十一 あくる朝、十時頃警視庁へ出掛けて行つた。


一二七頁
それからは鳥度忙がしい日が続いた。S・KやA新聞の特派員で、大杉とは語学校の同窓だつたMや、僕の友人のHに色々と世話になつた。Mは早速或る弁護士を訪ねて、事件の成行、牢屋の様子などを訊いて来て呉れた。

コロメが牢屋に行くというので手紙を書くことを勧められた

一二八頁
警視庁の人間カモイも訪ねた

一二九頁
巴里法院


一三〇
トレス弁護士、ゼルメン・ベルトンの裁判を弁護、一月に無罪


十二
公判の翌朝、Hを訪ね彼を通じて大使館へその後の成り行きを聴き合わせてもらうため。Hは大使館に電話をかけた。
 日本から、北方の国々へは入れるなと云ふ訓電が来ているから、結局西班牙へ行くより他あるまいと云ふことだつた。それに警視庁でも西班牙へやる事に決めて、今晩の八時の汽車で立たせる手筈になつている事まで判つた。

林は大使館までHと一緒に行く
「大使館の杉村氏が警視庁から帰つて来たところで、警視庁との行きさつを聴いた。」この事は大杉が同じく『入獄から追放まで』に書いている。
 すると翌日の夕刻マルセイユから電報が来た。
西班牙行きを中止されてマルセーユに送られた、委細は手紙を出したとあつた。

二五日の手紙

箱根丸の出帆
六月三日
大杉の船室で領事と三人で話す

七日 地中海にて 栄  
 
六月十九日  コロンボから

七月に無事に着いたという電報

リヨンから手紙
大杉に関連したといふだけで他に何の理由もなく佛国政府から追放命令を受けた
二三日の後に巴里に来た送別の晩餐
フライブルグに不自由な身をとどめている
僕は八月十日頃追放された事を大杉に知らせたが、恐らくその手紙は今度の大震災に遭つて紛失したか或は彼の手に入らない前に彼は殺されていたらうと思ふ
 一九二三 十二月三十日
      巴里にて 



(引用文献は外務省外交史料館所蔵、『日本脱出記』アルス刊、及びアルス発売元の『大杉栄全集』所載の「大杉栄書簡」、『金子文子・朴烈大審院裁判記録』等の資料による) 


ブログにおける補注
画像としてアップの「校正を終えて」に関して

 アルス版編者にして労働運動社同志、近藤憲二による『日本脱出記』編集記
土曜社版では収載されず言及もない。
タイトルを同じにするならば元本との収載文の異動は記すべき事柄である。

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アルス版『日本脱出記』に収載されている論文

「無政府主義将軍」 1923年8月10日


「マルクスとバクウニン」 1922年12月5日東京にて

初出『労働運動』11号1923年2月10日発行 同タイトル<上>
   『労働運動』12号1923年3月10日発行        <下>


日本脱出記 5  に続く



 リンク

コロメルに大杉の名を告げたのは小松清


パリにおける大杉栄氏
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# by tosukina | 2011-06-01 16:28

日本脱出記6  パリにおける大杉栄氏     佐藤紅緑  

パリにおける大杉栄氏     佐藤紅緑  


もう随分古くなった。七年の過去だ。巴里に於てたった一日大杉栄氏と遊んで暮らした。其れは私としてあまりに不思議な一日である。 私は此の一日を何かに書こうと思って居たが、毎も事故があって果たさなかった。
 一年々々と延びて七年の年月が流れ、私の記憶が次第に朧になった。  だが私は私として奇妙に頭に遺り、其後も折り折り回想する事柄けを記したい。  

 大正十二年の四月二十九日であった、私は私の下宿して居る家族と昼飯を食べて居た。食事が済んで珈琲を飲みかけて処へギャルソンが二人の紳士を伴って入って来た。巴里はいま春である、巴里の春の光は日本の其れよりも烈しく和かである。私の住居は絵葉書によくあるエッフェル塔の裾で、公園のあらゆる樹木と明るい天の反射が私の家の廊下にあらゆる部屋々々に溢れて居る。  

 突然扉を開けたので恐ろしい明るさが颯とサロンに流れた。きらきらした光の中に二人の姿が見えたが眩くて誰だか解からなかった、私は林氏を漸と見分けて声を掛けた。「やあ」  卓子には未だ家族の娘さん達やマダーム達が椅子を離れずに居たので私は席を立った。そうして二人を私の室に案内した。

「馬鹿に娘さんが沢山居るね」と林氏はにやにやして言った。階段を昇って私の室に入るまで私は今一人の人は誰だか解からなかった。其人は草色の服を着て私よりは遙かに若く林氏よりは少し老けて見えた。「やあ、しばらく。八年振りでしたね」  其人は帽子を脱いだ。禿げたという程でもないが額が脱け上がって、髪が少し薄い人だと私は思った。其れでも私は誰だか解からなかった。「大杉君だ」と林氏が言った。 「ああ、そうだ」  一言に言えば私は大杉氏には何の親しみもない、交際もないと言ってよい。私は社会主義は大嫌いなのだ。  

 大杉氏と初めて会ったのは著作家組合を創立しようというので相馬御風氏や岩野泡鳴氏や其他約十五六人が相談会を開いた。此の会合が二三度あった。私は一度も欠席しなかった。大杉氏もそうであった。四回目が終わりで当日は来会者がほんの五六人であった。私は組合創立の熱心者として大杉氏を知った、大杉氏は一番若かった。  
 大杉氏と私との関係はこの席上で会合したに過ぎぬ。 いろいろな話が断片的に出た。  私が彼が何の目的で来たのかと訊いた。 「九月にベルリンに世界労働組合の大会があるから其れに行こうと思って居る」と彼は言った。  彼は私よりも三月ばかり前にフランスへ来た。そうしてリオンに隠れて居たのである。リオンに中国人の同主義者二十人ばかり一つの町を巣窟として住んで居る。彼は中国人になって其等と同居して居るのだ。 「君は日本では日本のお尋ね者であったが今度は世界的のお尋ね者になったのだね」と私は言った。

「そうだ」と彼は笑った。

「何処から金がでたのか」

「横浜の某氏から貰った」

「後藤新平伯が出したという新聞が出たがあれは?」

「嘘でもないが本当でもない」

「其れで君は何時パリへ来たのか」

「昨夜」

「密偵が從いてるだろう」

「多分!」

「何処へ宿った」

「林君の宿へ」

「どうしてパリへ来たのか」

「君がパリへ来た事を新聞で見た、一寸会いたくなったから」

「そうか」  私は極めて奇妙な気持ちに襲われたので黙った。  

 元来彼の主張するものは何か、共産主義、労農主義、

彼は露西亜の其れと同じ主義を有て居るのか、

但しは夫等と異なった考を有て居るのか。  

 私は精しく聞きもし、又私の考えも吐露したいと思った。

だが私には其の勇気がなかった。

私は遙かに私を訪ねて来た人に議論を

吹っ掛けて不愉快な思いをさせたくなかった。

主義よりももっと大きなものが二人を結び付けたのだ。

面白く一日を暮らそう。  

 三人は宿を出た。  

 三人は散々遊んで疲れた。

 すると大杉氏はパリで第一等の料理を食いたいと言った。

「よし、行こう」林氏は第一等の料理屋と称する処へ案内した。  

 三人はキャッフェ廻りをしようという事になった。

どれだけ廻ったか解からないが

其中にラモルト(死んだ鼠)という店があった事を記憶する。

此処で林氏と私は故国へ葉書を書いた。  

 其れでも感興が尽きなかった。大杉氏は女郎屋を見たいと言い出した。

其れは私も同感であった、パリの公娼はどんな風にして居るか、

私としては視察の一要件なのである。  

 私達は、寂しい町の赤い軒燈の點った家へ入った。

トンネルの様な細長い路地を突き当たって扉を押すと、

驚くべし其処に昼の如く明るい電燈の下に十人ばかりの裸の

女が並んでいる。余りに突然なので私は逡巡した。

室は日本の十六畳位、壁は真赤に塗られて腰張 は全て鏡である。

上には淫らな裸体画が掛けてある。

向かって右の赤い壁の下に腰掛が長く打ち付けてあり、

其前に卓子ヵ五六脚並んで居る。右側の奥は二階の寝室へ

行く階段で入口に近い処にスタンドがあり、

酒の壜や食器など日本のキャフェと異らない。

何しろ身体に一糸を纏わぬ十人の女、

身に着けたものは靴だけである、

が私達を見るや否や灯取蟲が電燈に群がる様に

跳び付いて来たのだから堪らない。  

 モデルを見慣れた林氏には一向珍しくもなかろうが

私はただ途方に暮れた。

どうして此の肉陣を脱出しようかが差し当たっての問題である。

いかに肉を売るのが商売とはいうものの赤裸々の肉其のものを

店頭に曝すに至っては外国人は日本人よりも遙かに残忍であり

低級趣味であると思った。  だがそんな事を考えて居られない。

女はどしどし肱を取り首に巻き付き大蛇の様な唇を寄せて来るのだ。

私は巴里のサロンやブルュセルの博物館にある「虐殺」の画を連想した。

私達はまるで女に擒にされて今将に虐殺されんとして居る様なものだ。  

流石の豪傑林氏もこれにはすっかり参ってしまった。

「やあどうもこれは」  彼は唸り唸り退却した。

「やあ、やあ」  

此のやあという当惑の声は滑稽でもあるが悲惨である。

私達は何時の間にか壁際の腰掛に押付けられてしまった。

私は考える処あって一番入口へ近い処に座った。

私の隣は大杉氏で林氏は一番奥の方である。

「ビールを飲もう」と大杉は言い出した。

裸体女の曲芸が始まった。

女の中に一人の黒人種があった、白人の中の黒人は益々黒く見える。

其顔は破れた古靴の如く横に拡がって唇だけは赤子を食った様に赤い、

此の怪物は私を目がけて突進して来た。

恰も夫れは有色人種同士だから同情してくれと言うかの如く見えた。

同情はするが近寄られては困る、私は逃げ出そうとした。

すると大杉氏は彼女を自分の傍らに坐らせた。

「こいつは可愛そうだよ」と彼は言った。

私はそこに大杉氏の片鱗を見た。

彼は洋盃を捧げて女に飲ませ、それから煙草を一本くれてやった。  

 そこへ一人の労働者風の客が見えた。

汚れた服を着て袋になった中折帽を阿弥陀に被って居る。

スタンドの主人が何か号令を掛けた。

十人の女はぱっと私達の傍らを離れて卓子の向側に整列した。

労働者はじろりと其れを見やった。  

 此の隙に私は雲を霞と逃げ出した。

トンネルを過ぎて入り口へ出た時に大杉氏が逃げて来た。

「林君は?」 「どうしたろう」  

言う間もなく林氏はのそりのそりと落ち着き払って出て来た。

「君等はなかなか速いね」  私は彼の沈勇に感服した。

私達は妙に憂鬱になった。

人間の最も残忍な醜悪な状態を明からさまに見せられたのある。

「あれに比べると、日本の公娼の方が遙かに上品だ」と大杉氏が言った。  

 廃娼論者の私でも其れには首肯しないわけに行かなかった。

世界の都たる巴里にもこんなものがある。

人類の住む処にはどんな醜悪が動いて居るか測り知る事が出来ない。  

 私達は再びキャフェへ行った。もう二時である。ソロボン附近は其れでも

一軒だけまだ盛んに騒いでるキャフェがあった。  

 私は到頭二人に別れた。私がタクシーに乗る時大杉氏は私に恁う言った。

「明後日の労働祭にイタリーの付近で労働者が芝居をやります。

木戸銭は一フランです。見て行きませんか」

「結構、見たいな」

「じゃ、僕が迎えに行くから待っててくれ給え」

「ああ待ってるよ」  

 私は宿へ帰って疲れた身体を寝床へ横たえるや否や熟睡に落ちた。  

 一日過ぐれば五月一日である。私は朝から大杉氏を待って居た。

九時になり十時になった。大杉氏は見えない、私は郵便を出しに外へ出た。

町行く人々はどれもどれも鈴蘭の花を胸に着けて居る。

花屋の屋台には鈴蘭が山の如く積まれて居た。

私は一束を買って宿へ帰った。  


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 大杉氏は未だ見えない。午後になった、夜になった。

到頭私は一フランの貧民芝居を見る事が出来なかった。  

 翌朝私は散歩にでようと思って階段を降りると其処で此の家の

秘書役たるC婆さんに逢った。C婆さんは英国人で大きなべっ甲縁の眼鏡を掛け

何時も腕首まで袖のあるコスチュームを着て居る。

頭は斑白でもう五十だというに自分で処女だと言って威張って居る。

「サグ、ムッシューサトウ」と彼女は声を掛けた。

「貴方は今日のゴーロラを見ましたか」と彼女は言った。

「いや見ません」

「日本の共産主義者が逮捕されましたね」

「日本の?」  

 私の頭に大杉栄の姿がはっきりと浮かんだ。

「そうです、そうですお待ちなさい」  

婆さんは慌ただしいく部屋へ引き込んで新聞を持って来た。

「それここをご覧なさい」  

 其れはほんの十行ばかりの記事であった。

昨日のメーデーで労働者大会の連中が路傍演説を始めた

其中に一人の中国人が極めて露骨で大胆な演説をした。

警官が夫れに中止を命じたが肯かないので拘引しようとした、

すると労働者共は中国人を助けるために警官に抵抗した。

応援巡査がやって来た。見る見る双方の戦いが激しくなり、

互いに負傷があった。そうして到頭二十余名を拘引した。

この過激な演説をした中国人は自ら中国人と称して居るが

実際は日本人らしいと当局者が睨んで居る。  

 私は此の記事を読むと思わず手を額に当てた。

「困った事をしてくれたなあ」  

 其れだけである、其他の考は何も浮ばなかった。

「知ってる人か」と婆さんが言った。

私は可い加減な返事をして家を出た。

「無論大杉だ、其れに違いない、大杉だとすると扨てどうして可いものか」  

 私は考え考え歩いた。私は兎も角、林氏を訪ねる事にした。  

漸と林氏を訪ねたが留守である。  

 私は直ぐ大使館へ行って見る事にした。

 大使館で私は×氏に会った。私が話かける×氏の方から言った。

「あれに就いては実に困ってるんです。警視庁では

日本人だと睨んで居る其れに違いない。

確かに大杉ですからね。だが大杉は中国人だと言って居るから

今の所では都合が可い。

どうか日本人と言はずに押し通してくれれば可いがなあ」

「其れじゃ、いま此処で騒がない方が可いですね」

「そうです、先刻警視庁から電話で訊いて来たが多分其れは

中国人だろうと言ってやりました。

そういう風ですから様子を見る方が可いでしょう、

貴方は大杉とどういう間柄なんですか」

「何でもないけれども僕に会おうと思って巴里へ出て来たのが、

急にあんな事をやったもんだから僕としては見捨てて置かれないのです」

「其れは御尤もです、僕にした処が官職を離れて単に

一日本人の立場から考えると、

同国人が拘引されたと聞くと、黙って居られない様な気がしますよ。

其れは貴方も飛んだ災難ですね。」

「災難という程でもないが、只だ大杉は肺病が漸く癒りかけた許ですから

此処で監獄に打ち込まれると可愛そうです。

こっちの監獄はパンと水ばかりだそうですからな」

「そう、どうしてあんな事をやったんですな」

「計画的じゃないと思います。九月に伯林へ行かなきゃならないと

言いますから……若いから大会の空気に興奮して気勢を挙げたんだと思います」

「一体大杉の主義は何ですか」  

 突然×氏は恁う言て其の大きな肩を揺すった。

「僕にも能くわかりませんが……」

「幸徳などとは全然異う様ですね。国体破壊などという過激な考えはない様ですね」  

 彼は凝と考え込んでから又言た。

「何しろ、中国へ行て中国人の名前で旅行券を取てリオンへ来て、

中国人と共に生活して其れから巴里へ出るまでに、

随分苦労したに違いありません。

主義に於ては賛成が出来ないが、

個人として考えると、大杉はえらいと思いますよ。

主義に殉ずる志、これは矢張り尊敬しなきゃなりませんね。

只だね、其の主義なるものが本当に日本のため、

人類のために善いものものなら可いが……、

あれだけの熱心をもっと立派な主義に向けたらどんなに

日本のためになるか……惜しいものですな」  

 私は何から何まで×氏の説に同感であった。

一社会主義者、私達の立場から見て異端者である彼に対して、

恁くまで理解ある同情を有った人があるかと思うと私は何となく

喜ばしくなった。  

 私は大使を出て再び林氏を訪ねた。

林氏は依然として留守である。

帰ろうとして外へ出て上を見ると窓から日本人の顔が見えた。

彼は四階の上から河を眺めて居たのある。

私は彼を知らない。だが日本人である以上は同宿の林氏を知らない筈がない。

「君、林君はどうした」と私は大声で言った。

「居ません」

「何処へ行ったろう」

「今朝警察の奴が来て林君の荷物を全部持って行ったので其の事でしょう」

「林のものを取り押さえたって仕様がないじゃないか」

「巴里の警察が林の画でも買い上げる積もりでしょう」

 私は此の青年画家の名を忘れた事を残念に思っている。

「林君が帰ったら、僕の処へ来る様に言ってくれ給え」  

私は恁う言って引返した。其翌日私は林氏を待ったが来ない。

仕方なしに再び大使館へ行って×氏に逢った。

「駄目だったあれは」  

 ×氏は大きな目に微笑みを浮かべて言った。

「とうとう日本人だと言ってしまった。

今警視庁から電話が掛かって来ました。

一寸行って来ます」

「其れじゃ後で又来ましょう」  

 私は大使館を出た。もう大杉である事に確定した以上は方針は

只一つに向かえば可いのだ。第一は大杉を釈放して貰う運動だ。

第二は釈放が出来ないとしても差入物や何かの用意だ。  

 日本に居ると隣に火事があっても尻を上げないというので友人に

笑われて居る私が、大杉釈放や差入物などの運動をするという事は

実に負いきれない努力で或。其上に言語が不自由である。

私は全く弱ってしまった。  

 私は不図某新聞記者のM氏を憶い出した。 

 M氏を訪ねると留守である。  

 大使館の×氏も個人として大杉氏を尊敬しながら主義に

於ては接近する事を避けて居る、M氏も大杉氏を助けたろうが

累を本社に及ぼさせては大変である、

私としても只一ボヘミアンたる佐藤ならどんな事でも出来るが、

今の処では日本政府の嘱託という肩書きを有して居る。

「やるだけの事はやらねばならん」  私は恁う決心した。

そこで私は直ぐ車に乗って警視庁を訪ねた。

私が会ったのは何の位の資格の人だか解からないが

兎に角保安課長の次席位の人であった。  

 私が来意を告げると彼は微笑した。

其れから長い指を組み合わして胸の処へ置き。

「何でもない事です」と言った。

「何時になったら釈放してくれますか」

「さあ、もう二三日……一週間……或いは二週間……」  

 私は驚いた、二三日と二週間とは大変な違いである。

「何しろね、日本大使館が引き取ってくれれば可いが、

引取らなければ相当に長くなります」

「引取る引取らないは別問題として、

兎に角巴里の警視庁が此の事件をどう取扱うかに就て私は心配して居ます、

一体恁ういう国事犯に就ては今までどういう風に取扱って

居たのですか」

「左様左様、其は至極簡単にお答えがで出来ます、

つまり追放ですな」  

 其れから私は大杉が病弱であるから長い間

牢獄には堪えがたき事や、

出来る限り早く追放して貰いたい事などを頼んだ、

そうして最後に現下の牢獄状態に就いて訊ねた。  

 そこで私は差入物の手続きをして帰った。  

 それで大杉氏に対する大略の要件が終わった、  

伊太利行きは延ばすべく決心した、

が此処に飛んでもない事件が出来らいした。

其れは大杉氏の同志と症する青年達が

毎日私の家へやって来る事である。

「佐藤という男が警視庁へ行って大杉のために奔走して居る」 

此の報知が次から次へと伝わったと見える、

事件で入獄したものは大杉ばかりでない、

大杉と共に巡査を殴った二十人である。

此の中にはロシヤ人もあり、瑞西人もありポーランド人もあり、

獨逸系のアルサスローレン人もある、

私は今は其等の人の名を悉く記憶しないがGという兄弟だけは

はっきり記憶している。

Gはロシヤ人を母とし佛蘭西人を父として居る、

兄は大きな男で吃りではあるが恐ろしく雄弁である。

弟は黙って居るが、いつも最後の決断は弟の一言に依るのであった。

兄はもう四十位、弟は其れより五つ位は若い様に見えた、

其他二十一歳の青年や白髪の老人もあり、

特に私の注意を惹いたのはTという若き婦人で彼女の恋人は巡査をなぐって

収監された一人である。Tは市場でバナナを売る女であった。

最初の日彼女は私にバナナが好きかと訊ねた、

私はそうまでにすきでもないが御世辞に好きだと言た、

すると彼女は翌日バナナを持て来た。  

 此の事件に依って端なくも私は欧州に於ける共産主義者の群に

接近する事が出来た。

大杉のために奔走して居るという事が彼等をして

私を誤解せしめた、

彼等は私を同主義者だと信じて居たのである。

何れの国でも破壊的思想を有て居る者の精神は

いつも興奮して居る、彼等は絶えず戦闘状態にあるのだ。  

 彼等は極めて無遠慮に私の室へ入って来て其の大きな手で

私の手を痛いほど握る、

其れから室一ぱいに煙草の煙を漲らして議論を初じめる椅子が

足りないので三人位は寝台の上に乗って足をぶら下げて居る。

私は彼等から主義の上に於て若くは彼等の運動方針に就て

何も聞く事は出来なかった、

無論私の語学の力は其れを聞き逃したのかも知らぬ、

彼等は大杉氏及び其の共犯者(?)が何時釈放せらるるか、

当局の意向はどんな風にか、長びくか、

但しは近々になるか、そんな事に就て私に訊ねた。

そうして又銘々に其の意見を述べた。  

 或日Gの兄が一人でやって来てロシヤの労農政府を罵倒した、

労農政府がアメリカの機嫌取をやるのは怪しからぬ、

そんな事をするよりはも今吾々が第一に着手しなければならぬ事は埃及だ、

印度だ、土耳古だ、そうして中国だ、本当の共産主義は東洋を根拠地と

しなければならぬ。  

 彼は手を振り眼を■って長々と独り演説をやった、

其れから折々私に返事を促して英語交じりで戦争の惨苦が

世界人の頭から冷めきらぬ中に共産主義を浸み込ませなければならぬと言った。

そこへ弟のGが入って来てそんな空漠たる事を言って居るべき場合でない、

独逸の食料組合が大資本家に買収されんとして居る、

先ず欧州の食料問題で一と軍しょうじゃないかと言った、

二人は恐ろしく興奮して論じ合った。

そこへいろいろな人達が入って来た、

終わりにT女が来て例のバナナを私の卓子に置き、

私から五フランの勘定を取って行った、

私は貰ったのだと思って居たが、彼女は私にうりつけたのである。  

 四日も恁ういう状態が続いた、毎日彼等がやって来て議論をしてバナナを食って

解散する、私の室は恰ら共産主義者の事務所の様になってしまった。

これには私も堪えられなかった。

私は日本人倶楽部へ遊びに行った、

異郷にあると同国人と日本語で語るのが

何よりの楽しみである。

無論私は林氏が倶楽部に来て居るだろうとの予想もあった。  

 林氏は見えなかった、私は帰ろうとすると偶然大住氏が

一人の友と共に入って来た。

「日本主義愛国主義たる君が、非日本主義非国家主義たる

大杉のために奔走して居るのは可笑しいじゃないか」

「ありがとう、僕は明日伊太利へ行くよ」

私は大使館へ行って後の事を×氏に頼んで翌日伊太利へ出発した。

其れから一月以上私は大杉氏の消息を知らなかった。  

 私は巴里へ帰ってから直ぐ白耳義に遊び和蘭を経て伯林に入った。

三月は夢の如く過ぎた、と本国震災の報に接した。私は帰らねばならぬ。  

 私は三度巴里に入った。

「やあ」  

林氏は椅子を私に与える事も出来ずに

只声を掛けたのみであった、

若き芸術家達の瞳は一斉に私の方へ向けられた。

「僕は明日帰るよ」と私は言った。

「そうか」  

林氏はまぢまぢと眼を動かした、

其れから二三の人の頭越しに顔を挙げて私の眼を見詰めながら。

「あれがね」  

しばらく考えてから又続けた。

「あれがね、帰ったよ、君にくれぐれもよろしくって……僕はマルセーユまで送って行った」

「そうか」  

其の翌日、私は倫敦の客となり、

翌日(多分九月二十四日頃)大使館を訪ねて二三の友と応接室で語って居た、

そこへKという私の友人がエレベーターを降りて入って来た。 「大杉がやられたよ」  

彼は恁う言った、やられたという意味は私にも人人にも解からなかった。

「殺されたんだ、憲兵に殺されたんだ、今電報が着いた」  

私は大西洋を渡って紐育へ着いた。

日本人倶楽部に日本の新聞が幾種も来て居る、

私は其れを貪る様に読む中に事の真相がはっきり解かった。

「危険を慮って甘粕大尉が独断で殺したのだ」 

ああ、余りに呆気なき大杉の最後である。

此の大尉は私の大切な仕事の一つを

私の手から奪ってしまったのだ。


2005年7月31日アップ


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# by tosukina | 2011-05-31 04:45

大杉栄・日本脱出記 5 「大杉栄のフランス行、滞在時のクロニクル」

一九二二年一二月一一日、大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる。

一二月一二日朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す。


一二月一四日、イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

一二月、上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く。

一九二三年一月五日、大杉栄、ル・ボン号で上海を出る。伊藤野枝宛「…『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」。

二月一三日、大杉栄、「パリに着くモンマルトルの真ん中に宿をとった。」

二月、林倭衛宛「僕もやって来た。……僕の来たことは絶対秘密。」。

三月一日、伊藤野枝宛「パリにて。ここに来てもう一〇日近くなる。停車場からすぐリベルテール社へ行って、前に手紙をよこしたコロメルという男に会った。フランスでは老人連は戦後みなひっこんでしまって、今ではこの男が一番の働き手だ。まだ三十そこそこだろう。……翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。……その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも一〇人ばかりいたが、ここにも二〇人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。し……船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。………本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。……」。


三月二八日、伊藤野枝宛「僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。…社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。純然たるアナキスト運動というそのことにはまだ僕は疑いを持っているのだ。これはヨーロッパで今問題の焦点になっている。そのことは通信で書いて行く。……とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。……もう目がまいそうだ。二月号の『労運』見た。三月二八日」。

日付不明。近藤憲二宛「いろんな奴に会ってみたが、理論家としては偉い奴は一人もいないね。その方がかえっていいのかも知れないが。が、戦争中すっかり駄目になった運動が、今ようやく復活しかけているところで、その点はなかなか面白い。そして若いしっかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るようだ。………ドイツはよほど、というよりはむしろ、今ヨーロッパで一番面白そうだ。そこでは無政府党と一番勢力のある労働組合とが、ほとんど一体のようになっている。そしてロシアから追い出された無政府主義の連中が大勢かたまっている」。

三月三一日、林倭衛宛「K(小松清・建設者同盟、ジイド、マルローの訳がある)の方も金が来たんでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょうようやく金が受取れた。」。

四月二日、林倭衛宛「……バルビュスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(まず無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが……火曜二日。」

四月五日、「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿。



四月二九日、大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う。

リンク
パリにおける大杉氏 佐藤紅録

五月二四日「裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。四時頃、一等書記官の杉村なんとか(註・陽)太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。

五月二五日、林倭衛宛「友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。……僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。……二十五日正午」。

六月三日、大杉を乗せた船出港「朝早く、碇をあげた」。

七月一日、『労働運動』一五号《編集室から》近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」《国際無政府主義大会の延期、捕われる以前》在仏大杉栄。

七月一一日、箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿。

七月一一日、神戸和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」。七月一二日、大杉、東京に戻り駒込片町一五労運社に落ち着く。

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八月一〇日、「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿。

八月一八日、自由人社で大杉栄の仏国行の話。

八月二〇日《三〇日の説もある》大杉、アナキストの《連合》を企図して根津権現の貸し席で集りを開く。不逞社新山初代の《証言》「望月桂、岩佐作太郎等、二、三〇名集まって無政府主義者の連合組織問題の相談会がありました。私は鄭と一緒にその会に行きました。金重漢、洪鎮裕が来て居りましたが朴烈夫婦は来て居りませぬでした」
註「不逞社」は金子文子と朴烈たちが組織した日本に住む日本人と朝鮮人のアナキズム的傾向をもつ人たちの集まり。
リンク  金子文子の生き方


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『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀会場内部
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『大杉栄全集』第三巻 写真頁より 大杉栄・伊東野枝・橘宗一葬儀に参集した民衆

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大杉栄・日本脱出記  番外 「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛

大杉栄・日本脱出記 番外 2011林倭衛展  上田・槐多庵
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# by tosukina | 2011-05-01 17:48

大杉栄・日本脱出記 番外 2011林倭衛展  上田・槐多庵

大杉栄・日本脱出記  第一章 大杉栄の「日本脱出」と外務省史料、「東京日日新聞」記者との会見

「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛



信濃デッサン館別館
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百瀬二郎の肖像
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今回の「風紋」遠足・鑑賞ツァーの呼びかけ人、説明をする林聖子さん(倭衛さんの娘さん)
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別所温泉の桜

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上田市北國街道柳町 岡崎商店 「亀齢」酒造元 お雛さま
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http://www.ueda.ne.jp/~okazaki/index.html

柳町 天然酵母パンの店「ルヴァン」
二階の畳カフェ
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参考・関連リンク
上田地域ポータルサイト「ルヴァン上田店」

北国街道柳町

駅前の飯島商店
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# by tosukina | 2011-04-30 13:09

大杉栄・日本脱出記  番外 「林倭衛-没後65年・その孤愁のゆくえ」展と林倭衛

2011林倭衛展  上田・槐多庵 2011年4月1日ー5月8日(リンク)



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「H氏の肖像」
H氏は久板卯之助 彼の貴重な写真が「発見」され『トスキナア』11号 4月発行に掲載。

大杉栄と同志たち「久板卯之助」(リンク)


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『文明批評』創刊号掲載 原本掲載頁画像 拡大   2011年7月8日 追補 

雀隠れ日記 「2011年7月7日」 (リンク)に敬意を表して

所蔵の書籍『死刑囚の思い出』林倭衛装幀、大杉栄『獄中記』中扉、林倭衛画を
展示用に提供
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『死刑囚の思い出』はカバーと本体の表紙に古田大次郎の肖像画
《古田大次郎・ 関連項目リンクは一番下にスクロールを》
ギロチン社(リンク)

林倭衛装幀・画 『死刑囚の思い出』発行後発売禁止になった。上記展示はカバー

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2月26日展示終了後午後8時から『トスキナア』誌10号刊行・記念「講座」
キッド・アイラック・アートホール3F・4F 
講師・正津勉(詩人)「林倭衛とアナキストたち」

京王線「明大前駅」近くキッド・アイラック・アートホール3F・4Fで2月28日まで
開催中。11:00から20:00 同時企画展・酒場「風紋」開店時間中。
 同展案内の引用
「林倭衛は私の<信濃デッサン館>がある信州上田生まれの人。上京してアナーキスト大杉栄や画家硲伊之助、有島生馬らを知り、道路人夫などしながら画道に励んだ。倭衛の代表作といえば大杉栄をモデルにした「出獄の日のO氏」。
ひとくちにいえば倭衛は<反骨>を貫いた画家だったといいいえるけれども、フランスから帰国して春陽会々になってからの平明な風景画にもいいのがたくさんある。平明と反骨、抵抗と温順。
晩年の倭衛は日々酒浸りでのんだくれていたそうだが、私にとっての倭衛は、一生自分の真の姿を隠していた「孤愁の画家」のように思われる。倭衛の絵の底にある、色彩や線にひめられたふしぎな静けさをみていてそう思うのだ。
 今回の展覧会を「その孤愁のゆくえ」と題した所以である。」
             キッド・アイラック・アートホール 窪島誠一郎

『文明批評』創刊号 伊藤野枝、大杉栄編輯 林倭衛の詩掲載 1917年12月31日発行
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他館の展示
府中市美術館
http://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/katudou/houshin/hayasisizue/index.html

「長野県上田に生まれ、東京で育った作者の林 倭衛(1895-1945)は、伸びやかな筆致と鮮やかな色彩で、詩情あふれる風景画を多く残しました。林倭衛といえば、のちに関東大震災で官憲に虐殺されたアナーキスト・大杉 栄をモデルに描いた《出獄の日のO氏》(1919年、長野県信濃美術館蔵)がつとに有名です。略  林は、「センジカリズム研究会」に加わり、当時のアナーキストたちと親交を結びました。

アートログ「林倭衛_出獄の日のO氏」
http://www.gallerysugie.com/mtdocs/artlog/archives/000157.html
『出獄の日のO氏』 大正8年作 長野県信濃美術館所蔵
苦学しながら油絵を習得する。大正8年の二科展に出品された本作は、モデルが反体制運動の中心人物「大杉栄」だったため、治安を乱したという理由で警視庁から撤回命令が出され会場から外されてしまった。

八二文化財団
http://www.82bunka.or.jp/gallery/1989/06/post-33.php
出獄の日のO氏 1919年 油彩
モデルは反体制運動の中心人物、大杉栄。第6回二科展に出品した。しかし警視庁から撤回命令が出され会場から外された。日本が軍国主義に傾斜していくなかで、芸術に対して思想問題での権力介入が行われた最初であり、日本近代美術史上、最大の汚点となった。しかし、この作品は彼の肖像画の中でも傑出。性格描写のすぐれた作品として評価が高い。
 
埼玉県立近代美術館 積藁
http://www.museum.spec.ed.jp/monoshiri/stock/kinbi/kin0057.html
2度目の滞仏から帰国後、林倭衛は病弱な妻の転地療養をかねて千葉県市川市に移る。本作はこの時期に描かれ、翌年の新文展に出品されたもの。松田改組によるこの新文展で彼は審査員に推されている。見るものの視線は、中央奥へと連なる積藁によって青紫がかった山影へと導かれ、ついで画面右半分を占める、刈入れのすんだ野の茫漠としたひろがりをさまようこととなる。ほぼ同じ構図の作品が神奈川県立近代美術館に所蔵されている。

同館 別所沼風景
http://www.momas.jp/004josetu/J2006/j2006.07/j200607.htm

姫路市立美術館 デジタルミュージアム 静物
http://www.city.himeji.lg.jp/art/digital_museum/meihin/nihon/siz_hayasi/index.html

愛知県美術館 サント・ヴィクトワール
http://search-art.aac.pref.aichi.jp/p/sakuhin.php?OI=OBJ199704947

上田人物伝
http://museum.umic.jp/jinbutu/data/026.html
やがてバクーニン宣言に巡りあい、倭衛は当時としては「究極的な理想主義」の言葉に巡り合えたような情熱を覚え、同じような青年たちとサンジカリスム研究の仲間を作ったのです。そんなグループが社会改革を目指して『近代思想』誌を発刊し、進んで『平民新聞』を刊行に至ったのが大正3年の秋でした。同じ風潮が画檀では二科会を立ち上げていました。

1月22日付け『朝日新聞』クリックすると多少は拡大されます
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仏蘭西監獄及法廷の大杉栄を読む『トスキナア』誌10号 2009年10月発行掲載・冒頭転載

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」は『改造』誌一九二四年六月に掲載された。画家林倭衛による大杉栄のフランス滞在時のドキュメンタリー記である。一九二三年、林は大杉栄とリヨン、パリで多くの時間を共に過ごした。大杉からの手紙を含む五万字余の報告記は林による大杉栄への長大な追悼記である。
 大杉が虐殺されて半年余の時期に発表され、まだ関係者に影響が及ぶことを考慮し詳細な描写を避けている箇所もあるが、林自身と大杉を中心に滞在中の日々が詳細に語られている。
 一九七〇年代に初出誌の『改造』を入手し黒色戦線社の大島英三郎さんに存在を伝えたが復刻版刊行に至らなかった。同時期に提供をした関連文献は復刻されている。
「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」に着目した松本伸夫は『日本的風土をはみだした男 パリの大杉栄』(一九九六年、雄山閣)を著した。松本伸夫は東京外語大仏文科を卒業、毎日新聞記者時代にパリ駐在員を経験、新聞社を離れた後は作家としてパリと日本人の関係をテーマに取材と著作を続け同書は二冊目の単行本となる。
 同書では大杉栄の思想にもひかれた著者が「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を軸にパリの大杉を再現しヨーロッパ、フランスの社会状況も含め時代状況を語っている。また林の友人で当事パリに滞在していた画家青山義雄に取材を行い、青山がラ・サンテ刑務所の大杉栄に差入れをしたことを初めて明らかにした貴重な記述もある。
 松本によると、青山は一九一八年一月、林に大杉と伊藤野枝を紹介され『文明批評』創刊号に挿絵を描く相談をしたという。
しかし井澤と鴨居という松本にとって「毎日」新聞の「先輩」記者の記述に関心を寄せず、固有名詞ではなく「二人の記者」としか表現をしていないこと、林が井澤記者に大杉のフランス滞在を告げようとする箇所では誤読もある。また小松清の「青春記」も参考にしているが、大杉との関連を表面的にしか把握していない点が残念である。
 小松清と大杉栄との関係に関して筆者は数年前に『小松清 ヒューマニストの肖像』林俊、クロード・ピショワ、(一九九九年発行、白亜書房刊)を知り、小松清の未発表自筆原稿は「エゴイスト」の存在から間接的に知り『トスキナア』創刊号に紹介をした。
同書で「エゴイスト」は「彼(小松)と大杉とのリヨンでの出会いが描かれているという点では、彼の『青春記』とよく似ている。だが、『青春記』に登場する人物がすべて仮名であるのに対して、この作品では、大杉、林(倭衛)、胡(フランス滞在の中国のアナキスト)、および彼自身と、すべて実名で書かれている。その内容においても『青春記』と比較して格段にリアルである。」と解説をしている。大杉のフランス滞在に頁を割いている著作として他に『大杉栄自由への疾走』がある。著者は鎌田慧、一九九七年に岩波書店から刊行されているが、同書では小松の作品に触れていない。
 掲載号『改造』の一九二四年六月号は他にどのような論文、作品が掲載されているのだろうか。目次から主たるものをあげておく。
「無産政党は必ず出現す」。巻頭言として書かれる。特集は「東洋人聯盟批判」。安倍磯雄、小川未明、アールビー・ボース、平林初之輔、秋田雨雀、千葉龜雄、生田長江らが執筆。創作のパートは山本有三、中條百合子、正宗白鳥、菊池寛らが執筆をしている。

 林は自身の日記から再現したのであろうか。林の滞在地はパリ、リヨン、マルセイーユ、エスタックと大杉と同行、時に離れて滞在地は移る。各章に見出しはついていない。各章の概要をあげる。
 
一章、林は大杉が二月十三日にマルセイユに着いていたことを回想し、その時、林はルセーユに近いエスタックという海辺の小さな町に居た

二章、大杉と会う。日本での大杉との出会いを述べている。大杉の来佛を井澤記者に伝える。

三章、三月上旬、巴里で大杉の宿を探す。モンマルトルの宿になる。

四章、モンマルトルでの生活。大杉は三月十七日に巴里を離れリヨンに向かう。

五章、リヨンでの中国の同志との交友。

六章、大杉とマルセイユで同じ船に乗船をしていたマダムNに会い行く。林はアンチーヴに行く、大杉から手紙が届く。

七章、林と小松清がバルビュスに会いに行く。

八章、林と大杉は二十日ぶりに会う、二人はリヨンで中国の同志Jの家で食事をとるようになる。大杉は『改造』誌に原稿を書き、林が代わりに送る。後に近藤憲二により『日本脱出記』としてまとめられるうちの一章。

九章、林は巴里に出る、大杉からの四月十九日付け手紙を掲載。井澤を大杉に引き会わせる。

十章、四月三十日、巴里、大杉は東京日日新聞に掲載の原稿を書く。
佐藤紅緑と林、大杉の三人で巴里の歓楽街での一夜を楽しむ。大杉のメーデーでの逮捕。佐藤は後年『文藝春秋』誌にこの時の交流を描く。
 
十一章、林の大杉に対する救援活動、裁判。
 
十二章、林は大使館へ問合せをする、マルセイユでの大杉との別れ、箱根丸大杉からの手紙 中国人同志Jの追放されたという消息が述べられる。



久板君の追悼   村木源次郎

天城の山麓 村木源次郎 ああ久板君!  

冬枯のうら淋しい山村の墓場から、やがて堀りだされた

寝棺の裡に静寂として眠っている君の姿は、

あり日の平和な顔をそのままに、

物問えば直ちに答えそうである。

薄紅を止めた、頬のあたりは、

暖き心臓を以て抱擁した

なら復活しそうに思われるが……

けれども君は永久に

眠って了っている。  

『年齢四十五才にて色白く高き鼻に銀ぶちの眼鏡を掛け……』

とあった廿四日の夕刊記事に依って、

テッキリ君と決めて了った望月、岩佐、僕の三人は、

今朝東京を出発してから此天城山麓に着す迄、

汽車の窓、馬車の中に、君が生前の奇行逸話を語り耽った。

湯ヶ島の村役場では君の遺留品を見た。

そこから山を辿って一理半、

いま眼前に君の死の姿を眺める。

されど殊更な駭きも嘆きも起らない。

現制度の矛盾残虐に憤り、世の苦しみに倦き果てたお互いは、

「如何にして死に打突らうか」と、いつもの死の方法や、

時と所とを考えさせられている。

いま僕の頭は、君の平和そうな面影に接して、

ただ羨望の感に満ちるのみだ。  

 

僕等が理想とする共産制に些かでも近い、

この質朴醇厚な村の人々の親切な手によって

葬られた君は、実に幸福だ。  

二十一日の夕暮、天城の南麓、

字宮の原の一茶店に憩うた時に、

その茶店の老母から受けた注意も聞き入れず、

『ナーニ僕は雪景色が大好きです』とばかり、

数葉のカンパスと絵の具箱と全財産を入れた

小さな合財袋を肩にして山へ懸った君……。

途中の雪に悩まされて山上御料林の番小屋を訪ねても、

留守の為にまた其所を立ち出た君の様子……そして遂に、

峠の頂上の暗黒と積雪に倒れた君の行動は、

平常の君を知っている僕等をして『どこまでも久板君だ!』

と呼ばせずにおかなかった。  

二十二日の午後、山の人に発見された君の凍死体は喜ぶ者と共に喜び、

悲しむ者と共に悲しむ古き習慣の残った村人の、

しかも戸別から一人宛集った四十余の肩と手に負い抱かれて山を降ろされ、

最も手厚く葬られた。古洋服に銀ぶち眼鏡を掛けた旅の凍死人は、

質朴な村の人々に、何んとなく『善い人だ』との感じを与えたそうである。  

この親切な村人は、

いままた僕等の為に彼方の谷間此方の山蔭の茅屋から集って来て、

誠心からこの寒き一夜を君の火葬に費して呉れる。  

ああ久板君!

僕はいま最後の握手をして君と別れて麓の湯ヶ島に帰る。

岩佐望月の両君は、明日君が最後に倒れた猫越峠へ二里余の嶮を踏む。

月は中空に、仰げば白皚々たる雪の猫越、

伏しては脚下を走る滔々天城の流此處幽玄なる字金山の小丘に、

君は永久に眠り給え。

去らば久板君!

(廿五日夜墓地にて記す)

 

□ヒサイタチャン

ゲンニイチャンカラ、

アマギヤマノ、

エハガキヲ、

モライマシタ。

ウタガ、

アリマス。

オオスギ・マコ

コノ山ノオクノオクノ

オクヤマデ ヒサイタオヂサン ネテイマス。

オテテヲムネニ チャントオキ、

雪ヲヒトネニ ワライガオ。

カヘラナイカト キイタラバ、

静カデイイヨトイヒマシタ。

1922 1月21日 久板卯之助凍死
1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」
1922 2月1日 『労働運動』第2号<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄<久板卯之助君凍死す> 1月25日
『労働運動』第3号  1922.3.15
1922 3月15日 『労働運動』第3号
<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」
<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 <追悼日誌> 
<性格の異彩(一)>久太
「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」
<真の革命家> 紀伊 村井林三郎<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……<彼と性欲> 岡野辰之介<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」
1922 4月15日 『労働運動』4号
<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」
1922 6月1日 『労働運動』5号
<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」
1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

関係項目リンク

古田大次郎

サイト・アナキズム 大杉栄クロニクル 林倭衛宛手紙部分 記載複数 1923年


アナキストたちの記憶〈大杉栄より、林倭衛宛手紙〉


リンク「山の本」ブログ


『アナキズム運動人名事典』データサイト


執筆・編著書籍紹介ブログ


『トスキナア』誌 皓星社ウェブサイト


久板君の追悼   村木源次郎 (他の久板関連リンクは現在「切れた」状態です)
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# by tosukina | 2010-01-22 13:01

2008年10月

旅順・大連

瀋陽

大連・中山広場、旧満鉄本社、SLパシナ

1909年夏目漱石の宿

<東京・散策>二本榎 2008年9月22日

世田谷の陸地測量図の一部
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# by tosukina | 2009-10-14 19:50

笹川教授インタビュー「日韓併合は無効」

記事入力 : 2009/01/11 09:03:54
明治大・笹川教授インタビュー「日韓併合は無効」
 「身体的な威嚇を加えた無効な条約で、損害賠償請求は今でも可能」

 1910年の日韓併合の不当性を力説した日韓の学者による共同研究の成果が、最近日本で出版された。800ページある『韓国併合と現在』(明石書店)だ。李泰鎮(イ・テジン)ソウル大国史学科教授や故・白忠鉉(ペク・チュンヒョン)元ソウル大教授(1939-2007)が2001年から進めてきた日韓併合の歴史的・国際法的再検討の結実で、韓国版は来年初めに出版される予定。これまで日韓の学者は9度にわたり会議を開き、この問題を議論した。

 最近韓国を訪れた笹川紀勝・明治大学法学部教授(68)にインタビューを行った。著名な憲法学者である笹川教授は、李泰鎮教授とともに本書の共同編者となり、日韓併合が国際法的に不法なものだったことを論証する4編の論文を載せた。笹川教授は、荒井信一・茨城大学名誉教授とともに、日韓併合の不当性を主張している日本の学者の一人だ。

―日韓併合が無効だと見る理由は何か?

 「国際法上、条約が有効であるためには、“合意の自由”がなければならない。これは、条約の当事者に“選択の自由”がなければならない、という意味で、脅迫や身体的強制があればそれは成立しない。ところで1905年の乙巳条約(第2次日韓協約)の際、伊藤博文は韓国の大臣たちを漱玉軒(現在の重明殿)の一室に軟禁し、身体上の威嚇を加えた。また、日本軍は宮殿を包囲し、威嚇した。皇帝と大臣たちが自由意志により条約を承認したのではないから、国際法上無効で、それを基盤とした日韓併合もまた不法だ」

―今になってそれが無効だと主張することに、何の意味があるのか?

 「100年余り前のことだとしても、それが無効であれば損害賠償請求をすることができ、歴史の真実を人々に知らせることになる」

―類似した事例が、よそにもあったか?

 「1793年にポーランド議会がロシア・プロイセンに対する領土分割を承認した際、ロシアは軍隊を動員し議会を包囲、高圧的に承認を要求した。スイスの法律学者ベーナーはポーランドと韓国のケースを比較し、双方とも不法だと結論付けた。1773年の第1次ポーランド分割の際にも同様の状況が起こったが、当時の条約は既に国際連盟によって無効だと認定されている」


笹川紀勝教授は「現在の日本を良い国にするためには、自ら誤りを認め、改めなければならない」と語った。/写真=チョン・ギピョン記者
兪碩在(ユ・ソクジェ)記者

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
<記事、写真、画像の無断転載を禁じます。 Copyright (c) 2008 The Chosun Il
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# by tosukina | 2009-01-12 22:28

李会栄・始栄兄弟

記事入力 : 2008/04/20 00:02:30
【萬物相】李会栄・始栄兄弟

 高宗(在位1863年‐1907年)の時代、吏曹判書(文官の叙勲などの事務をつかさどった中央行政機関「吏曹」の長官)を務めた李裕承(イ・ユスン)の息子6人は、日本に国を奪われた直後の1910年12月、家族・親族数十人を連れ中国との国境の川、鴨緑江を渡った。彼らがソウルを出発し、自動車・馬車・ソリと乗り換え、新義州を経て1カ月かけ着いたところは、中国の西間島(現・吉林省)柳河県三源浦だった。朝鮮時代中期の文官・李恒福(イ・ハンボク)=1556年‐1618年=の子孫で、10人の宰相を輩出した名門一族が、満州(元・中国東北部)に独立運動の拠点を築こうと中国に渡ったと聞くや、大勢の民族志士たちがその後を追った。

 李家の兄弟たちの移住を率いたのは四男の会栄(フェヨン)だった。早々に開化と民族運動に身を投じ、新民会創設の主役だった彼は、国がなくなるとすぐ満州に活動の舞台を移すことにした。移住資金には、二男の石栄(ソクヨン)が領議政(朝鮮時代最高の中央官職)・李裕元(イ・ユウォン)の養子になり、相続した財産2万石を処分し当てた。以前科挙に合格し、平安道観察使や漢城裁判所長を務めた五男・始栄(シヨン)をはじめ、ほかの兄弟たちも喜んでこれに従った。

 李会栄兄弟は、独立運動家の李相竜(イ・サンリョン)や李東寧(イ・ドンニョン)と共に1911年、「耕学社」と「新興講習所」を建てた。耕学社は移住してきた韓国人の定着と団結を率いる組織で、満州地域の民族運動の先駆的存在として評価されている。新興講習所は後に新興武官学校となり、1920年に日本軍の圧力を受け閉校されるまで、独立軍約3000人を輩出した。独立運動史に輝く鳳梧洞戦闘や青山里戦闘(ともに1920年)の中核を担う戦力がそこで育成された。

 李会栄は無政府主義者になり活動していた1932年、日本の警察に逮捕され獄死した。ほかの兄弟4人も中国全域で独立運動を行い、この世を去った。6兄弟のうち生きて祖国の地を踏んだのは李始栄だけだ。1919年の3・1独立運動後、臨時政府に参加し法務総長・財務総長・監察委員長を務めた。大韓民国政府が樹立されると、初代副大統領に選ばれたが、1951年に李承晩(イ・スンマン)大統領(当時)の非民主的統治に抗議するため辞任した。

 1953年4月に84歳で逝去した李始栄は、ソウル市城北区にある貞陵に埋葬された後、江北区水踰里の北漢山のふもとに移された。時は過ぎ、李始栄の息子たちも世を去り、今年99歳になった二男の嫁がなんとかその墓所を守っている。遺族らは李始栄の墓を「副大統領にふさわしく国立墓地に建ててほしい。それが難しいなら現在の墓所を国で管理してほしい」と望んでいる。今年建国60年の行事を準備するという政府が、「建国時の副大統領」の墓所に知らん顔していていはならない。子孫に針1本刺すほどの土地も残さなかったほど実直だった李始栄に、大韓民国は最低限の敬意を払うべきだ。

李先敏(イ・ソンミン)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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# by tosukina | 2009-01-09 17:17

日清戦争の名に隠される朝鮮農民「兵」虐殺

甲午農民戦争、シベリア出兵
『異端の民衆反乱 東学の甲午農民戦争』313頁 「農民軍の犠牲者は膨大に数にのぼっていることを確認しておかなければならない。東学側の記録では『天道教創建史』が「殺された者」二〇万人、『東学史』が「被害者」三、四〇万人と推定している。各戦闘での犠牲者の数から考えて、この数字は誇張されているもののように思われるが、実はそれほど誇張したものだとは言えない。というのは、連合軍は戦闘以外の局面でも東学徒を捜し出して殺害しているからである。
 以下要旨
農民軍「討伐」において日本軍と朝鮮軍は共同作戦を採ることになっていたが、その指揮権は日本側にあった
 果たしてどれだけの東学徒が殺害されたかは、当時の「討伐」側もその全貌を把握できないほどの規模であったというしかなく、もはや正確に知ることはできない。しかし以上の少ない材料からごく粗い概算なら可能である。......
全体の犠牲者は三万人を優に超えていたのは確実であり、医療の未熟さからかなり多かったと想定される負傷後死を加えれば五万人に迫る勢いであったと推定される。「殺された者」だけで二〇万人という『天道教創建史』の数字はともかく「被害者」三、四〇万人とという『東学史』の数字は当然に負傷者が死亡者をはるかに上回ることから考えて、決して根拠のないものではないと思われる。

チョ・キョンダル
趙景達
98年、岩波書店

『シベリア出兵──革命と干渉 1917年─1922年』原暉之 はらてるゆき
1989年 筑摩書房 
日本軍が始めて直面した本格的な人民戦争であった。不敗を誇った天皇の軍隊がはじめて経験する無残な敗戦であった。
1918年から1920年戦闘死 1538人 病死591人
1921年陸軍省統計
1922年撤兵
1925年北サハリンからの撤兵完了山辺健太郎『日韓併合小史』1966年2月岩波新書
1875年5月25日 軍艦「雲揚」は釜山に予告なく入港
1875年5月26日 日本との交渉の任の訓導、玄昔運は軍艦入港を森山茂に詰問
観覧希望を認めるが随員も含めて18名が乗艦すると発砲演習をはじめた、砲声に驚いた一行は演習停止を求めた

徳富猪一郎『公爵山県有朋伝』中巻11章「公と江華湾事変」
「明治8年朝鮮近海に於ける軍艦「雲揚」井上海軍少佐の海軍演習は川村と黙契の下に計画された示威運動であった」「是より先に8年9月「雲揚」艦長井上少佐は韓国西海岸より清国牛荘に至るまでの海路を研究する名義の下に暗に韓国に対する示威運動に従ふべき旨、海軍省よりの内訓に接した」

1875年9月19日 軍艦「雲揚」が江華島沖にくる
「飲料水を探すためボートで江華湾にはいったところ砲台から砲撃を受けたので引返す」軍艦「雲揚」は応戦、砲台を破壊、永宗島を占領、民家を焼き払い戦利品として砲38門をとり9月28日に長崎に帰る 
江華砲台の射程はみじかく軍艦「雲揚」まで届かない
日本側に損害はない
軍艦「雲揚」は9月20日に江華沖を離れて28日に長崎まで途中飲料水を補給せず帰る

江華島事件
しかし海軍当当局と井上良馨との「黙契」のもとに行われた事件である
日本政府は出兵の用意をととのえる
1876年1月 艦隊を朝鮮に派遣し賠償と修好条約締結を求める

『日本による朝鮮支配の40年』かん在彦 朝日文庫 1992年9月
朝鮮の近代、時期をはっきりさせたい、学者の見解の相違もあるが私個人は1876年2月からにしたい、江華島条約 カンフワド条約 正式には日朝修好条規が結ばれた年
「私は朝鮮の近代はここからはじまったと考えています」

山辺
日朝修好条規
明治9年2月27日調印
3月22日批准(同日太政官布告)
公使交換、十五個月の後、花房義質が公使として朝鮮国王に謁見、国書を呈したのは修好条規が成立して四年後に正式に開国、宗主国清の勧告があった

岩波新書、原田敬一
86頁
参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』
一八九四年七月二五日から九五年一一月三〇日が戦争期間
本書は朝鮮との「七月二三日戦争」も組み入れ
広義の「日清戦争」を
一、七月二三日の日朝戦争
二、狭義の日清戦争、一八九四年七月二五日から一八九五年四月一七日
三、台湾征服戦争一八九五年五月一〇日から一一月三〇日
の三期間を合わせたものと考える
参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』は七月二三日戦争を否定した。
公式戦史の上では存在をしない
リアルタイムでこの戦争を報じていたが「日清戦争」が終わった時には新聞各紙は
七月二三日戦争のことを忘れていた

72頁
「東学農民軍への本格的な弾圧が、一一月から翌九五年四月初旬にかけて続けられる。
弾圧部隊の主力は一一月初旬に到着した後備歩兵独立第一九大隊など二七〇〇名の日本軍。それに二八〇〇名の朝鮮政府軍、各地の両班士族や土豪などが組織する反動的な民ぽ軍が加わり村の隅々まで捜索する「討伐」作戦を続け最西南端の海南・珍島まで追いつめ文字通り殲滅した。
もう一つの日清戦争であった



甲午農民戦争、
『異端の民衆反乱 東学の甲午農民戦争』313頁 「農民軍の犠牲者は膨大に数にのぼっていることを確認しておかなければならない。東学側の記録では『天道教創建史』が「殺された者」二〇万人、『東学史』が「被害者」三、四〇万人と推定している。各戦闘での犠牲者の数から考えて、この数字は誇張されているもののように思われるが、実はそれほど誇張したものだとは言えない。というのは、連合軍は戦闘以外の局面でも東学徒を捜し出して殺害しているからである。
 以下要旨
農民軍「討伐」において日本軍と朝鮮軍は共同作戦を採ることになっていたが、その指揮権は日本側にあった
 果たしてどれだけの東学徒が殺害されたかは、当時の「討伐」側もその全貌を把握できないほどの規模であったというしかなく、もはや正確に知ることはできない。しかし以上の少ない材料からごく粗い概算なら可能である。......
全体の犠牲者は三万人を優に超えていたのは確実であり、医療の未熟さからかなり多かったと想定される負傷後死を加えれば五万人に迫る勢いであったと推定される。「殺された者」だけで二〇万人という『天道教創建史』の数字はともかく「被害者」三、四〇万人とという『東学史』の数字は当然に負傷者が死亡者をはるかに上回ることから考えて、決して根拠のないものではないと思われる。

チョ・キョンダル
趙景達
98年、岩波書店
山辺健太郎『日韓併合小史』1966年2月
「朝鮮支配をめぐる日清の衝突」83頁
「農民戦争としての東学乱」
「斥和洋」反日の民族主義的な運動

『日清戦争』檜山幸夫 1997年8月 講談社
第一章朝鮮出兵事件と日朝・日清開戦
1 出兵政策の決定
23,4頁
1894年2月15日 朝鮮農民反乱
5月31日 東学農民軍は政府軍を破り全羅道の全州府を占領
朝鮮国王、清国軍による鎮圧案を認める
5月31日 日本政府は朝鮮の事態の推移によっては陸海軍を派遣するという消極的出兵論で固まっていた、政策的意図は日清均衡論、日清対立論にはなかった
6月2日 臨時閣議 陸奥は公使館と在留邦人を保護するために出兵を閣議請願、閣議は出兵方針を決定
6月4日政府は海軍陸戦隊による派兵決断
清国軍 900名 山砲四門 1500名 臼砲四門
日本軍 反乱鎮圧部隊 2400名
在留邦人保護の部隊 7000名から8000名 過大な兵力の投入
2朝鮮出兵
6月8日 インチョンに大鳥公使 海兵70名 警視庁警部以下巡査21名 陸戦隊の編成
将兵433名 横須賀海兵団と巡査が帯同488名が京城に入った 第一次出兵
6月10日 午前3時 陸戦隊が日本領事館前に集結
6月12日までに在韓清国軍は2400名
『日清戦争実記』によると1893年12月末朝鮮在住日本人は男が5112人女が3713人 8825人 
『京城府史』によると京城在住日本人は234戸 779人 500人名余りの兵員が宿営
6月9日 廣島第五師団 1024人の兵員 宇品を出港 陸軍による第二次出兵
6月15日 「即時同時撤兵」で日清合意、調印されず
6月27日 京城は日本軍の制圧下
6月末 英国、露西亜の介入
7月 対韓外交 内政改革方案提示 朝鮮国の主権侵害、露骨な侵略主義的意図をもつ
7月16日 拒否回答
7月19日 朝鮮政府の撤兵要求を公然と無視、在留日本軍のための兵舎建設を要求
7月20日 「清国属邦」論を否定するならば朝鮮国は清国軍隊を国外に放逐すべきと照会、回答期限を7月22日とする
7月22日 朝鮮政府は属邦論を否定、清国政府へ速やかに撤退を求めていると回答
7月23日午前2時、大鳥、回答は日朝平等の原則を無視と、こじつけ「時宜により我権利を保護するが為め兵力を用ふる事も可有之に付右予め御承知相成度」と宣戦布告のような公文を送りつける、同時に大島混成旅団長に王宮攻撃占領の実地を指示、ここに日朝開戦が起きる
7月23日 午前4時49分 歩兵第二一連隊が迎秋門に到着
王宮包囲に対し日本軍の攻撃と判断、王宮守備隊は射撃を開始、日本軍も応射日朝両軍は戦闘状態に入る

迎秋門にあった一隊が門を破壊し王宮に侵入
朝鮮軍の武器を没収、両軍の戦闘は午前6時20分にほとんど終息
朝鮮国軍は戦死傷者40名余り
日本軍の犠牲者 戦死1名負傷1名 政府は国内世論を慮って公表せず
「この戦闘をもって朝鮮国軍の組織的抵抗は止み日朝戦争は事実上終結し外交的処置による戦争終結が図られることになる」44頁

日朝戦争の終息
大鳥による王宮攻撃占領の否定「龍山の兵は午前四時頃入京し王宮の後に当る丘に駐陣する為め南門より王宮に沿ひて進みたるに王宮護衛兵及ひ街頭に配置しあるところの多数の兵士は我兵に向て発砲せり依て我兵をして余儀無く之に応して発砲し王宮に入て之を守備せしむ」『日本外交文書』27 と発表せざるを得なかった。 47頁

7月25日 豊島沖で日清両国海軍による海戦、日清戦争が開始 48頁
対清開戦はあくまで朝鮮国の独立扶助が戦争名目、にもかかわらず朝鮮国と開戦したことはすでに戦争名目が消失、対清国開戦外交戦略そのものに大きな矛盾を生じさせる

8月

大鳥は陸奥へ「仮条約案」を上申、内政改革、京釜間鉄道、京釜京仁間電信、政務法律の顧問や軍務教師に日本人を招聘するという内容
第七条「本年七月廿三日大闕附近の地に於て両国兵互に衝突を起したる件は双方互に之を挙論せさるへし」
大鳥は京城事件を不問に付しいっさいがなかったこととして処理しようとしていた。

8月7日 陸奥は伊藤へ朝鮮国軍の武器を取り上げかつ警察権を規制しているのは「事実上一国の独立権を侵犯せし形跡有之」列国の疑いを招くおそれがあることから「朝鮮国独立の対面を全ふし併せて同盟の実を挙くる事」『日本外交文書』27が必要であるとした閣議請議を求めた、
8月8日 閣議で請議案を承認
8月9日 陸奥は大鳥へ武器の返還と王宮、市内警備を日本兵から朝鮮兵に代えることを命令
8月15日 陸奥は「朝鮮国の地位は同盟にして敵国に無之」『日本外交文書』27との原則を確認、閣議請議
8月17日 対韓政策の方策四条を示し、いずれかの確定を求める閣議請議をしたが閣議は容易に対韓方針を決定できなかった
「朝鮮を名義上独立国と公認するが永遠もしくは長期間日本が独立援助するとした大意を決定」したにとどまる
8月20日 朝鮮政府と「暫定合同条款」七か条を締結
前文し五条は「京城事件は日朝両国兵による偶発的な衝突事件であることから、両国はこの問題について追及しないという、事件そのものを歴史から消し去るというものであった。」
「事件処理については朝鮮政府も政治的に決着させたいと考えていたことから日韓両国の思惑は一致していた」
「こうして京城事件による開戦は≪戦争にしてはならない戦争」としてフタをすることになった。」
「こうした戦争処理がなされたことから朝鮮国は敵対国から同盟国へと転換させることが可能となり、8月26日「大日本大朝鮮両国同盟」という日韓攻守同盟が結ばれ、ここに日韓関係は新たな段階に入っていったのである」50頁


『平民新聞論説集』1961年 岩波文庫
「朝鮮併呑論を評す」第36号 明治37年 1904年 7月17日 二頁
 吾人は近刊の新聞雑誌に於て朝鮮に関する有力なる二論文を見たり
▲『韓国経営の実行』『韓国経営と実力』(国民新聞社説 7月8日、7月12日)
▲『朝鮮民族の運命を観じて日韓合同を奨説す』(新人第七号社説)
『国民』の徳富氏が如何に今の政府及び軍人に親しきかを知り『新人』の海老名氏が如何に今の青年の一部に持て居るかを知る者は、吾人が此二論文を批評するを見て、決して無用の業と為さざるべし
『国民』子先づ『韓国経営の実行』に於て曰く
▲日露開戦以来既に五個月を経過し、日韓議定書調印後既に四個月を経過す、然りと雖も、此間に於ける韓国経営は……実質的に殆んど一の見るべきものあるなく、日韓議定書の精神の如き、未だ一として具体的に実現せられたるものなし。
▲略
▲略
▲夫れ韓国に対するの途  略 唯だ韓国が一に我国の保護の下にあることを知らしめ、実力を以て之を指導掖し、我に対して被保護者の実を挙げしむるのみ。

嗚呼『日韓議定書の精神』とは何ぞや『我国の意志』とは何ぞや、『我実力』とは何ぞや、吾人は未だここに其明答を得ず、然れども国民子は其最後に於て、韓国を『我国の保護の下に』置くべきを言へり。而して国民子更に其『韓国経営と実力』の冒頭に於て曰く
▲略
嗚呼『韓国の領土保全』乎、『独立扶植』の警語は何時の間にやら消え失せたるこそ笑止なれ、既に保護国と云ふからは独立の二字は余り声高に語り得ざる筈也、清盛の甲は弥々多く法衣の裾より現れたり、而も其『領土保全』を説明するや亦更に甚だしきものあり、曰く
▲略
▲略
▲略
▲略
▲略
清盛は既に自ら其法衣を脱ぎ棄てたり、実力とは、即ち兵力の事也、領土保全とは明かに領土併呑の事也、此に至っては独立も保護もあつたものに非ず、世の義戦を説く者、世の『韓国の独立扶植』を説く者、之を読で果して何の感あるか
 次に吾人して新人子に聞かしめよ、新人子は『日清戦争の当時、日本軍が朝鮮独立の為に出征したるを喜び、日本帝国を東奔西馳して愛隣の大義を完うせんことを論じた』る人なり、而して『近頃宇内の大勢と東洋の形勢に深く感激する所あり、韓国民族に一片の忠言を呈』して曰く
▲韓国は大陸に圧せられざれば、大海に制せられて、遂に自主独立の権威を発揚すること能はざりき。


狼は法衣を着すましたり、保護国は不可也、属国は不可也、而も只『合同』と称すれば甚だ可也、合同乎、合呑乎、併呑乎、『実なきの名は君子の恥づる所なり』とせば、吾人は韓人が、無実の合同を為さんより『寧ろ滅亡するに如かず』と言はんことを恐る。此点に於て吾人は寧ろ国民子の露骨を愛す、新人子更に曰く

吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪寒を懐き居るかは、彼れが謂ゆる新平民に対することにても明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、それは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、新人子最後に曰く

▲日本民族より見れば、韓民族と合同することは或は其光栄とする所にあらざるべし、故に日本人の未だ発せざるに先ち、東洋平和の大義に基き此合同を日本人に迫らば日本人も之を辞するの言葉なからん。

嗚呼何ぞ其言の幽婉なるや、吾人は新人子を以て直ちに法衣を着たる狼なりと為す者に非ず、然れども此時此文を以て国民子の言に比すれば、吾人は実に此感なきを得ざる也
見よ、領土保全と称するも、合同と称する、其の結果は只より大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく會つて韓国の独立扶植を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り
斯くて吾人は此の有力なる二論文が、或いは法衣を脱ぎ、或いは法衣を纏ひ、或いは表となり、或いは裏となり、或いは威し、或いは騙し、百方苦心、韓国滅亡の為に働きつつありを見たり、而して吾人は又日本の浮浪の輩が斯の如き論議を背後に負ひて或は長森案を韓廷に提出し、或いは塩専売権、或は煙草専売権、或は仁川埋立工事、或は水田買収計画等に奔走し居るを見たり、日本が文明の為に戦ひて東洋諸国を指導すと謂ふものの其の公明正大なること一に何ぞ此に至るや


「帝国日本の東アジア支配」江口圭一 『植民地帝国日本』
「近代日本と植民地Ⅰ」1992年第一刷 2005年第四刷
二 韓国併合から第一次世界大戦へ
1朝鮮
「日本が日清戦争と日露戦争を戦った最大の目的は朝鮮(1897年10月「大韓」と改称)を支配下に収めるためであった。
1904年2月 日露開戦直後 日韓議定書により韓国での軍事行動の自由を確保
1904年8月 第一次日韓協約により日本推薦の財政・外交顧問を就任させる
1905年7月 桂・タフト協定により
1905年8月 第二次日英同盟により
1905年9月 ポーツマス条約により 日本はアメリカ、イギリス、ロシアにそれぞれ韓国支配権を認めさせた
1905年11月 第二次日韓条約を強要、韓国の外交権を奪い統監府を設置
1905年12月 初代統監に伊藤博文が就任、韓国の保護化を推進
1907年7月 第三次日韓協約によって韓国の全権を掌握
1907年8月 韓国軍隊の解散を強行
1909年10月 ハルビンで伊藤博文はアン・ジュングンに射殺される
1910年8月 日韓併合条約 併合=廃滅 朝鮮植民地化
1911年2月 日米通商条約により日本ははじめて関税自主権を獲得、1899年の法権の回復とあわせ、幕末以来の不平等条約体制から脱出名実ともに大日本帝国として自己を確立
「しかし日本による韓国の植民地化は近代帝国主義史においてきわめて特異」
「欧米列強が植民地化の対象としたのは帝国主義本国から文化水準・経済的発展にいちじるしく立ち遅れたしばしば未開でもあった地域」
「隔絶した文化・経済の力で容易にこれらの地域を圧倒し統治することができた」
「これにたいして日本にとって朝鮮は歴史的には文化先進国でさえあった」
「新天皇国家の指導者が欧米と対峙しうる対外的威信の確立を至上課題とした」
「そのために朝鮮を制圧・支配することを一貫して追求したこと」
「先進列強間の相互対立・競合を巧みに利用しえたことが、韓国併合の道を開いた」172頁
おわりに 184頁
1937年7月 盧溝橋事件を機として中国の全面的な侵略に乗り出したとき大日本帝国はその植民地支配体制を全方位的に形成し終わり、その完成に向けて最終的な膨張をとげようとしていた。
 北に南樺太、北西に「満洲国」と朝鮮と関東州、西に冀東と天津と内蒙古(チャハル)、西から南へ向って山東と揚子江流域と台湾・澎湖諸島、南に南洋群島、唯一空白の東方は太平洋が広大な天然の要害をなしている
 帝国主義本国を中核として膨張の成果をこのように全方位的かつ集約的に結実させた近代帝国は他に例をみな




『ナショナルヒストリーを学び捨てる』
言説分析が開示する歴史を「導きの糸」として国民史の逆学習(アン・ラーニング)の方策を追究してみよう。

昭和史論争、亀井勝一郎がいう「人間」が日本人でしかなかった

「パンドラの箱」民衆思想史研究の課題、ひろたまさき
「民衆」概念の検討

人民の運動を主軸にして歴史を語るべきである
遠山茂樹らによる『昭和史』1955年はまさにそういう人民の運動を主軸にした現代史の叙述、「政治・経済・外交」を中心として、階級闘争の視点から一五年戦争を総括しようとした、当時のマルクス主義歴史学の一つの到達点を示す
昭和史論争、批判が一番大きかったのは「人間が描かれていない」であった。
遠山らにとって「歴史の発展と日本人民の解放闘争を描く」ことに主眼があった
階級闘争史の基本姿勢を変えなかった
著者たちは「国民の生活」を強調していた、国民の主体的な営みは人民・労働者階級の代弁者としての前衛党の動きに集約されてしまい、民衆の独自な営みをとらえることが弱かった
井上清『日本の歴史』1966年もまた人民の歴史の通史を意欲したたものであるが近代の主役に労働者階級を設定する
「帝国主義民族」と「労働者階級」も慎重に使い分けられている。
 マルクス主義歴史学で民衆意識の認識について反省を示したのは石母田正『「国民のための歴史学」おぼえがき』1960年
アイヌ・沖縄民衆をはじめとする周辺的存在に対する姿勢とともに、それが民衆概念(人民概念)にどのような変革を生んだかは疑問としなければならない。

安保闘争の政治的敗北の後に出てくるのが民衆思想史研究である。
鹿野政直
色川大吉『明治精神史』
安丸良夫、<民衆思想研究>広汎な民衆の内面性を通してとらえるため
近代日本のイデオロギー構造の全体をとらえるための基礎作業
民衆の日常的生活に密着しつつしかもそれをのりこえてゆく真に「土着的」な思想形成の可能性について考えたい
1968年

日本の近代歴史学マルクス主義を経て民衆思想史研究に至るまで、実は「国民の歴史」を語るということで共通していた

「民衆」が「日本人」となり「国民」となってしまう

民衆思想史研究の潮流に大きな衝撃を与えたのは、七〇年代後半からのポスト・モダニズムと社会史の流行
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# by tosukina | 2008-11-09 03:17

安達太良山の虹

 二日続けて安達太良山の虹を観ることができました。
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11月2日の下山途中
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11月1日、東北自動車道、二本松で降りる少し前の車中から窓ガラスを通しての撮影。
 虹が山肌を覆うようにかかっていました。次の画像も。
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★↑
安達太良山の頂きから展望。頂上まで、くろがね小屋から1時間5分。8時半の到着

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 稜線は烈風が吹き続け煽られてよろける程です(稜線に出るまでは半袖ポロシャツでした・雪が降ってきても対応できるウェアはザックに用意)

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★↑

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どなたかが放置した山頂標識の正面が見えるように直しましたが、石の間でもすぐに風で押されます。

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山頂下からピークの岩場を望んだところです。

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山の頂きからの展望


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★↑



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山腹の山小屋、「くろがね小屋」。奥岳温泉の登山口から1時間15分。晩餐はスキ焼
のため重い鉄鍋をザックに入れて登りました。
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温泉が噴出しているので小屋に引き込まれています。

 11月1日、7時15分過ぎに池袋駅西口を出発。首都高速から東北自動車道に続くルートは大渋滞のため距離的に大回りの常磐自動車道に迂回。全く渋滞なし。
 奥岳温泉登山口に12時近くに到着。
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# by tosukina | 2008-11-02 19:23

台高山脈・三峰(みうね)山

山の本倶楽部山行。講師は正津勉さん。  「Bゼミ」公式サイト
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講師の正津勉さんと語らう参加者。 この夏詩集『喜遊曲』刊行
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# by tosukina | 2008-10-25 12:52

1909年夏目漱石の宿

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 大連市・路面電車 1元 16円
1940年代製造の車輌が活用されています。床面、座席部分は古のイメージで改装されています。

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 大連駅から大連港への引込み線にかかる跨線橋。
1908年、関東都督府による五連アーチ、鉄筋コンクリート製、華麗な欄干の飾りは前田松韻設計のバロック様式、全長97m、当時「日本橋」→現「勝利橋」(『観光コースでない「満州」』より)

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ダーリニー時代に最初に整えられた街区。正面遠方の建物が「東清鉄道事務所」(1899年建設か?)→「ダーリニー市役所」。左右に当時の建築物が遺されている。

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 東清鉄道事務所(1899年建設か?)→ダーリニー市役所→遼東守備軍司令部→関東省民生署→関東都督府民生部→満鉄本社→大連ヤマトホテル分館(?)→大連医院→満洲資源館→大連自然博物館」(『観光コースでない「満州」』より)
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満韓ところどころ 1909年 ≪10月21日-12月30日『朝日新聞』≫ 連載
夏目漱石 テキストは<青空文庫>より
そのうち広い部屋がようやく暗くなりかけた。じゃどこぞ宿屋へでも行って待ちましょうと云うと、社の宿屋ですから、やっぱり大和(やまと)ホテルがいいでしょうと、沼田さんが親切に自分で余をホテルまで案内してくれた。
        


 湯を立ててもらって、久しぶりに塩気(しおけ)のない真水(まみず)の中に長くなって寝ている最中に、湯殿の戸をこつこつ叩(たた)くものがある。風呂場で訪問を受けた試(ため)しはいまだかつてないんだから、湯槽(ゆぶね)の中で身を浮かしながら少々逡巡(しゅんじゅん)していると、叩く方ではどうあっても訪問の礼を尽くさねばやまぬという決心と見えて、なおのこと、こつこつやる。

いくらこつこつやったって、まさか赤裸(はだか)で飛び出して、室(へや)の錠(じょう)を明ける訳にも行かないから、風呂の中から大きな声で、おい何だと用事を聞いて見た。すると摺硝子(すりガラス)の向側(むこうがわ)で、ちょっと明けなさいと云う声がする。この声なら明けても差支(さしつか)えないと思って、身体(からだ)全体から雫(しずく)を垂らしながら、素裸(すっぱだか)でボールトを外(はず)すと、はたして是公(ぜこう)が杖(つえ)を突いて戸口に立っていた。

来るなら電報でもちょっとかければ好いものをと云う。どこへ行っていたんだと聞くと、ベースボールを観(み)て、それから舟を漕(こ)いでいたと云う挨拶(あいさつ)である。飯を食ったら遊びに来なさいと案内をするから、よろしいと答えてまた戸を締(し)めた。締めながら、おいこの宿は少し窮屈だね、浴衣(ゆかた)でぶらぶらする事は禁制なんだろうと聞いたら、ここが厭(いや)なら遼東(りょうとう)ホテルへでも行けと云って帰って行った。

 例刻に食堂へ下りて飯を食ったら、知らない西洋人といっしょの卓(テーブル)へ坐らせられた。その男が御免(ごめん)なさい、どうも嚏(くしゃみ)が出てと、手帛(ハンケチ)を鼻へ当てたが、嚏の音はちっともしなかったから、余はさあさあと、暗(あん)に嚏を奨励(しょうれい)しておいた。この男は自分で英人だと名乗った。


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屋根のアップ
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正面に噴水。

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街区を囲っている門扉を抜けて横手に出ると建物の右翼は「解体」? 途中。鉄筋は後年の補強工事か。


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屋根部分は木造のみ。

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警察車輌の先が門扉内。街区の行き止まり。
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行き止まりの広場の左手に位置しているホテルを転用したアパートメント。詳細不明。画像手前は噴水の飾り。広場に合わせて湾曲している。


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# by tosukina | 2008-10-12 19:04

大連・大連駅、中山広場、旧満鉄本社、SLパシナ

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大連駅。基本構造は建設時と変化がない。建設当時、上野駅を模した作り。一階が入場口、地下が出場口と改札が区分けされている。
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中山広場「大連大和ホテル新館」。
1909年に基礎工事を始め1914年に完工。8月1日営業開始。四階建て客室115。(『満鉄四十年史』より)。現在もホテルとして利用されている。二代目 「大連大和ホテル」は 1909年、夏目漱石の宿に紹介をしている。

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「旧横浜正金銀行大連支店」(現・中国銀行大連市分行)。1909年竣工、広場に作られた二番目の建物。
建築家・妻木頼黄の基本設計。1907年建設工事開始。(『観光旅行て゜ない「満州」』より)


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再び「旧大連ヤマトホテル」


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「南満洲鉄道」(満鉄)本社ビル内部。現在は観光「資源」として活用されている。二階には展示室が今年から開設されている。(撮影禁止とのこと)。
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階段の飾り。
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一階廊下。

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別のエリアであるが「南満洲鉄道」の基幹、鉄道部門の象徴、パシナ蒸気機関車の展示。
車輪。

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機関部分。

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正面。
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# by tosukina | 2008-10-11 19:23

史料、画像アップのためのブログ
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