大杉栄

大杉栄・日本脱出記 4 「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二

「仏蘭西監獄及法廷の大杉栄」を読む  其の二


五章
一〇三頁。「翌朝、未だ夜の明け切らぬうちに汽車はリヨンに着いた。リヨンは僕には初めての土地だつた」。郊外へ外れかかるところの長屋風の家の前で大杉が車を停めさせ、二階の長い廊下を渡り突き当たりの戸を叩く。「これが支那の同志Jの住居だつた」と林倭衛の描写が始まる。
「『やあ帰りましたね。さあさあ』と彼は日本語でこう云うと、僕達をその室へ案内した。Jの容貌は日本人そっくりだった」

一〇四頁。続けて「彼は色褪せた詰襟の服を着て、松葉杖を持っていた。」「彼の日本語は完全とは云えなかったが、中々巧いものだ、普通の用事はそれで充分に事と足りた。日本に六年間留学していたが、日本を去ってすでに六年、その後日本語を使う機会がなかったので、あらかた忘れて了いましたと云っていたが、それにしては立派なものだった。」「彼はリヨンの中法学院にいる無政府主義者中の領袖株だった。」「彼の細君は支那の無政府主義者として有名だった、師復の妹だ。」と身元を推測させる記述になる。そして大杉が泊まっているホテルに向かう。
一〇五頁。散歩に出て堡塁跡の草原に寝転び、大杉はJの仲間の話を林にする。「支那の無政府主義者と云うのはどっちかと云えば、人道主義者と云った方がいい位なんだ。もともと彼方の方は人道主義から出発しているんだよ、いまにいたっても夫れがちっとも抜けていないんだよ。兎に角、日本のなどとは大分趣が異っている。」
 昼近くになり近くの中華料理店に行き、Jの仲間四、五人と合流する。最後に仲間は合わせて十人になり昼食会が始まる。日本語を話すのはJだけで、フランス語を話すUが大杉と頻りに話す。大杉は警察に寄りカル・ディダンティテをもらう。
 大杉はJと古本探しに行き、林は中国の無政府主義者たちに案内され美術館見学に行く。一人が審美学を専攻しているので詳しく説明をするが、林はフランス語が判らず退屈する。
 林と大杉はその夜十二時の汽車でマルセイユに向かう。

六章
 マルセイユに着いた大杉はマダムNを探す。郊外の別荘地に滞在しているNと再会をする。Nは「井上さん」と大杉を呼ぶが大杉は本名も経緯もNに伝えている。食事会でのマダムNの話が続く。Nは大杉に「革命家なんか止めろ」と云う。
 一〇八頁。林は翌日午後三時の汽車でアンチーヴに向かい、大杉もその夜のうちにリヨンに帰る。
 二、三日して大杉から林宛に手紙が届き、さらに二週間の間に続けての来信を記し、林は全文を掲載している。
 三月二一日付け。林倭衛宛「……マルセイユはいやな処だ。…僕はこれで、外国人とは二度目のプラトニックだ。がプラトニックはもういやだ。バルルタバランのダンスーズの方がよっぽどいい。二十日午後八時。今リオンに着いた。又あの色っぽい女の処にでも当分いよう。二一日朝。」
 三月二六日「……ドリイ、僕のダンスーズだ、にも、たいくつまぎれに(と云い訳しないとやはり気が済まない)ふざけた手紙を出しておいた。僕は本月一ぱいここにいる。そしてもしヴィザが貰えなければテクで行く。それまでにはこっちへ来られまいなこの三日ばかりいい天気になってほんとに春らしくなった。。が、病気だったり、殊に文なしだったりした日にや、春も女もへちまもない。二六日。
 僕はまだ見ない。君はまだものにしない、そして恐らくは二人とも永久にまだまだであるだろう。何んとかマドムアゼルによろしく」。大杉は林との手紙にマダムNのことを書き遥か日本を離れて旅先の無聊を伝えている。
 三月二八日付け「……ヴィザの方 は、きょうのパリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の十日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする。今度は早く財布の病気をよくしなくっちゃ。二十八日」。この頃はまだヴィザが出ることに対して楽観的である。
 三月二九日付け「…学校から君の二通の手紙をとどけてくれた。……パリからの返事を待っているうちに、それもまだ来ないんだがね、思いがけなくウチから金を送って来た。……それで、それが受取れたら、僕はすぐまたパリへ行くかも知れない。そして都合ではベルギーからオランダへ出て、さらにドイツにはいることになるかも知れない。そうなれば、それからオオストリ、スイス、イタリイと大旅行をして来る予定だ。……」
 三月三一日付け「K(註・小松清)の方に金が来んでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょう漸く金が受取れた。今晩は一つ、久しぶりでウンとうまい御馳走でも食おうと思う。僕はパリへ送ったパスを送り返すように言ってやったんだが、それがまだ着かないので、そして明日は日曜、明後日は祭日と来ているので、早くとも三日にならないとそれが受取れそうもない。それが来るとこんどはそれを持って、こっちの警察へヴィザを貰いに行くんだ。そしてもしドイツ行がうるさければ、ベルギイ行きにする。それからあとは又あとの事だ。すると、まだ、ここを立つのは四、五日後になりそうだ。約束なんか破ってそれまでに来いよ。三一日、」。大杉も林も同時期に金を得ることができ一安心し、ドイツへ直接行けなければベルギーなどを経由する手段を考え始める。
 四月二日付け「……僕は日曜のいい天気に田舎へ行ってうんと遊んだので、暫く寝ていて変になったからだがすっか回復した。きょうもまたうんとやれそうだ。バルビユスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(先づ無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが、それには三人の本を大ぶ読まなければならんのでまだいつのことになるか分らない。パリからまだパスが来ない。……火曜二日」。次章の林のバルビユス訪問記に先立ち、大杉の手紙により肖像画を描くエピソードが出される。


七章
 一一一頁。林はアンチーヴで絵も描かず、相変らず落着のない日を過ごしている。或る日、K(小松清)からバルビユス訪問への同行を誘われる。
一一二頁。ツウロン行の汽車に乗り、カンヌを過ぎ四つ五つの小さな駅を経てトラヤという三方山に囲まれた駅で降りる。海に沿った街道を歩き、住人に尋ね朱色の小さな家を目指す。
一一三頁。二人は粗末な仕事着で小船にニスを塗っていたアンリ・バルビユスと崖の下で会う。
「今、彼はアナトル・フランスを論じ、労農ソビエットを讃え、クラルテ運動の趨勢に及び、その運動がいまや彼の双肩にかかっていることを語って、自ら噴気せねばならぬ秋と大見得を切っているバルビュスなのである。」と林は「美しい声で革命を語る」バルビユスを描写する。
「話の詳細に至っては遺憾乍ら分らなかったが、その大体は共産主義の賛美、無政府主義を非難するものであろうと朧げ乍らそれを察しられた。」
 一一四頁。「僕はふと彼の肖像を描きたい気になった。そのことを彼に云うと、四、五日ならモデルになってもいいと云う返辞だ」。三人は食堂で赤葡萄酒を飲む。バルビユスは自転車で二人を停車場まで送る。林はバルビユスの思想的立場はともかくとして人間的に惹かれたようである。
 しかしこの後、林はリヨンに行く決心がつき、バルビユスには断りの手紙を出す。
「リヨンの大杉から、何日シュトラスブルグ経由でドイツへ立つという電報が来た」。すれ違いになるのを避けるため林はリヨンの大杉に「しばらく待ってくれ」と返辞の電報を出し、パリへ出る小松と一緒にアンチーヴを去る。

八章
 一一六頁。林は二十日ぶりでリヨンに滞在していた大杉と一緒になる。小松は、その日の夜行でパリに向かう。
警視庁に旅券を預けてから二十日も経つが、大杉に対してドイツ行きのヴィザが出ない。林は「大杉はリヨンのJのグループと思われているので引き延ばされているのではないか」と推測をする。
林は大杉が検討をしたベルギーやオランダを経由してのドイツ行きを勧めていたが、中国の同志たちは穏健な方法でのドイツ行きを提言していた。
一一七頁。リヨンで林はJたちに部屋を探してもらい、食事は大杉と一緒にJの家で食べるようになった。
大杉はヴィザに関しては成り行きまかせにした。
そして『日本脱出記』草稿を林を経由してパリに送り、そこから日本に送らせている。「改造に送る(註 掲載誌では「送った」)『日本脱出記』に手を入れ、其が出来たので僕の手を経て巴里に廻し、そこから日本へ送つた。」
 一一八頁。大杉はリヨンに滞在しているうちにドイツ行きの旅費を使ってしまい、ヴィザがおりても出発できなくなった。林の部屋も見つからず、二人はリヨンに厭気がさし、林は一時リヨンを離れパリに出ることにする。

九章  
 林は巴里に出、その日のうちに金を工面、大杉に送金をする。推測で書くしかないが、大石七分が融通したのであろうか。大杉からの手紙二通を林は掲載している。
 四月十七日付け「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Painという自叙伝小説を買って来て、きょうまでそれを読み耽っている。パリはどうだ。……僕の手紙は二重封にして、そとはJにあてて学校へ送ってくれ。もう十七日だ、いやになっちまうよ」。
一一九頁。
 

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『大杉栄全集』第三巻綴じ込み写真頁
編者近藤憲二によると撮影者は林倭衛、女性は下宿屋の娘

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四月一九日付け「……きのうの午後また警視庁へ行った。……ア・ラスメエン・プロシエン(来月に)になるのかもしれない。……事によると、パリでも君のことを調べているかも知れない。こんなにして一々調べて行って、それがいっさい済んでからヴィザをくれるとなると、オ・モ・プロシエンがこんどはまたア・ランネ・プロシエン(来年)になるだろう。くさくさすることおびただしい。十九日」
 新聞記者と再会した四月二十日からの動きを林は描いている。
「井澤と鴨居も、僕と同じホテルに泊つてゐた。十九日付の大杉の手紙を受取つた二十日の晩、井澤と僕はサン・ミイシエル橋のそばのカフエで遅くまで飲んでゐた。井澤は、二十二日の晩に巴里を発つ。宮様の霊柩車に従ひてマルセーユへ行く筈だつた。鴨居は先発として、その日の朝だかにマルセーユへ立つてゐる」。「宮様の霊柩車」というのは北白川宮家成久の霊柩車であった。

四月一日、パリ近郊で自動車事故で死亡した。


 林は続けて書く。「早晩、大杉がフランスに居ることは日本の方へ知れる事だ、いまでは又知れたつていゝんだらう、どうせ分ることなら、大杉に一応訊いたうへで、君が社の方へ電報を打つてはどうかと、僕から話を持ちかけた『それでは一日前に発つて、里昴に寄つて大杉に会ふことにしよう。一緒に行つて呉れるか』『行かう』夜中の一時半頃だつたが二人はタクシーを見つけて、巴里中央取引所構内の夜間電報扱所まで行つて、大杉に電報を打つた」。

と林は井澤に「特ダネ」として大杉のフランス滞在を報道させようとする。
「翌晩、十時の汽車に乗るつもりで、飯を食つたが僅か五六分の差で乗遅れた。で二十二日朝八時の特急で立つて、里昴に四時頃着いた。僕は大杉の手紙に拠つて、直接彼の宿へ行くのは危いと思つたからJの家へ行つた。

Jは留守で、妻君に大杉の宿へ行つて貰つた。彼はJの妻君とつれ立つてやつて来た。井澤とは既に日本で大分以前だが会つてゐたので、わざわざ紹介の要もなかつた。だがお互に顔は忘れかけてゐたらう」。大杉と井澤は対面をした。

「Jの家を出て三人で里昴の街へ下りた。カフェで一杯やり乍ら話の打合せをして、鳥度贅沢なレストランで晩食を喰ひ乍ら僕と井澤は又飲んだ。井澤はその夜四時里昴を通過する、宮様の霊柩車と共にマルセーユに行かなければならなかつた。それまでの永い時間、僕等は飲み歩いて過した。仕舞にはどこでも閉め出しを喰つて、停車場構内のビユツフエに入つた。

そこでも三時頃になつて追い出された。それで汽車の到着までには未だ間があつたが井澤と別れて帰へることにした。振り返つて見ると、彼は黒い折鞄をかゝへ、ステツキを持つて、ヒヨロヒヨロとプラツトホームに蹌踉としてゐた。(後にきいたが、彼はその折鞄とステツキほベンチの上に残して、汽車に乗つたそうだ)大杉はその晩僕の宿で泊つた。」。大杉は酒を飲めず、林と井澤は酒を飲み続けている。三人は何を話したのであろうか。井澤記者も会談記を残していない。



 一二一頁。「夜は必ず二人で里昴へ下りた。一緒に飯を喰い大抵十二時頃まで、カフェを歩いて、僕がいゝ加減醉ふまで、ぶらぶらして過した。井澤は、四日経ち五日過ぎてもかえつてこない、井澤からは何んの音沙汰もなく、午後になつてJの家へ出掛けて、大杉と一緒になるまでは、ほとほと身を持て余してゐた」。リヨンで井澤を待つ日々である。
 一二二頁。「恰度一週間目で、井澤は鴨居と連れ立つてやつて来た。その晩は四人で夜更けまで飲んだ。ふたりの呑気者は帰へることを忘れて、マルセイユで飲んで居たにちがいなかつた。翌日午後二時の汽車で僕等三人は巴里へ立つた。別れ際に、大杉は、僕も巴里の五月一日祭を観たいから、吃度二三中にこゝを抜け出して行くと去つてゐた」。
 林と二人の記者は大杉をリヨンに残してパリに向かう。メーデーを観るとすでに決意していた。
 

この時期の大杉の動きは外務省に把握されていた。四月十九日付けの松田代理大使名による報告書を再掲する。
「大正十二年四月十九日 五六九三(暗)松田代理大使巴里 后六 本省着大正十二年四月二十日后二 内田外務大臣 第二八三号」
《往電第二〇八号に関し(大杉消息)》
「大杉栄の《フランクフルトアムメイン》に於ける主義者大会参列は仝会合の招請に基きたる趣なる処仝人所持の支那旅券に必要の査証を取付けることの得ざりし故を以て同会へ参加することを得ず其侭佛国に滞在し居たるも所持金欠乏し■■生活に窮し来りたる尚既報の上海■■主義者との関係を辿りて里昴に滞在支那学生として保護を受け居れり仄聞する処に依れば■■(大杉)に於ても支那側の手先となることは潔しとせ■処なるのみならず佛支学会の保護を受たることも一層危険の処なり且今回砥渡欧の目的も各国主義者との連絡に非ずしも単に研究視察に止るものの如く目下入露を断念し近々独逸内に開かれるべき無政府主義者大会へのみは万難を排しての出席の覚悟なね趣にて同会終了の上は帰郷の希望を有する由なり目下在独日本人知人訪問無く金策を兼ね独逸へ入国の為再び支那旅券に所要の査証取付方を試み居れるが既に仏国官憲よりも不審なる人物として注意せられ居るやにて査証を得ること頗る困難なるに付■■海外旅券の交付を受けたる趣■■同人知人より特別の詮議ありたる旨願出の次第あり就ては同人に対する今後の処置に戴き至急付回電を請ふ独逸及里昴へ暗送せり。」
 中国の同志たちの「保護」を受けていること、ドイツに行けず金欠状態であること、金策に動こうとしていることが報告されている。
                   

註 以下は「メモ」

十 

二十九日の夜、里昴の大杉から、明朝巴里に着く、と、電報がきた。
…彼は午後になつて、ぶらりと這入つて来た。
…リベルテールへメーデーの集会の場所をきゝに行つて来た。そう云つて今度は裁縫女工の罷工に就て、彼女等の生活状態の詳細な統計などを見せ乍ら話してきかせた。
東京日日に掲載された原稿を持参していたことを匂わせているのか
僕が話の末に文士のS・Kが巴里に来てゐることを話すと、S・Kは僕も一寸知つてゐるし、芝居のことを話したいから直ぐ訪ねて見よう、と彼が云ひ出した。
S・Kと林との巴里の一夜


一二三頁 五月一日から二日
五月一日のメーデーには十一時頃、彼は僕が寝てゐる内にやつて来た。これからサン・ドニーの集会に行くんだと云ふので、僕も起きて十二時頃一緒に戸外へ出た。
…翌日はひる頃までねて起きたが、彼は未だ姿を見せなかつた。
…五時頃だつたらうか、烈しく戸を叩く音と共に、たゞ者とも覚へない、人相の悪い男が五六人、荒らあらしく、どやどやつと僕の室に這入り込んできた。後とから大杉がこゝろもち蒼ざめた顔で、稍々亢奮した沈黙の体で続いて入つて来た。


一二四頁
ホテルのビユウロウで、鴨居が二人の男に調べられてゐた。
宿をたまたま離れようとしていたときに来た林を調べに警官と出会った


一二五頁
林も警視庁へ同行を求められる
 僕は大杉に追ひついた。『どうして露見つたんだ』と声をかけた『新聞に出て了つたそうだよ』『僕は何にも知らないで通すぜ』『うん、それでいゝ』


一二六頁

…明朝九時に茲へ来いと言渡されて、そこを出た。

十一 あくる朝、十時頃警視庁へ出掛けて行つた。


一二七頁
それからは鳥度忙がしい日が続いた。S・KやA新聞の特派員で、大杉とは語学校の同窓だつたMや、僕の友人のHに色々と世話になつた。Mは早速或る弁護士を訪ねて、事件の成行、牢屋の様子などを訊いて来て呉れた。

コロメが牢屋に行くというので手紙を書くことを勧められた

一二八頁
警視庁の人間カモイも訪ねた

一二九頁
巴里法院


一三〇
トレス弁護士、ゼルメン・ベルトンの裁判を弁護、一月に無罪


十二
公判の翌朝、Hを訪ね彼を通じて大使館へその後の成り行きを聴き合わせてもらうため。Hは大使館に電話をかけた。
 日本から、北方の国々へは入れるなと云ふ訓電が来ているから、結局西班牙へ行くより他あるまいと云ふことだつた。それに警視庁でも西班牙へやる事に決めて、今晩の八時の汽車で立たせる手筈になつている事まで判つた。

林は大使館までHと一緒に行く
「大使館の杉村氏が警視庁から帰つて来たところで、警視庁との行きさつを聴いた。」この事は大杉が同じく『入獄から追放まで』に書いている。
 すると翌日の夕刻マルセイユから電報が来た。
西班牙行きを中止されてマルセーユに送られた、委細は手紙を出したとあつた。

二五日の手紙

箱根丸の出帆
六月三日
大杉の船室で領事と三人で話す

七日 地中海にて 栄  
 
六月十九日  コロンボから

七月に無事に着いたという電報

リヨンから手紙
大杉に関連したといふだけで他に何の理由もなく佛国政府から追放命令を受けた
二三日の後に巴里に来た送別の晩餐
フライブルグに不自由な身をとどめている
僕は八月十日頃追放された事を大杉に知らせたが、恐らくその手紙は今度の大震災に遭つて紛失したか或は彼の手に入らない前に彼は殺されていたらうと思ふ
 一九二三 十二月三十日
      巴里にて 



(引用文献は外務省外交史料館所蔵、『日本脱出記』アルス刊、及びアルス発売元の『大杉栄全集』所載の「大杉栄書簡」、『金子文子・朴烈大審院裁判記録』等の資料による) 


ブログにおける補注
画像としてアップの「校正を終えて」に関して

 アルス版編者にして労働運動社同志、近藤憲二による『日本脱出記』編集記
土曜社版では収載されず言及もない。
タイトルを同じにするならば元本との収載文の異動は記すべき事柄である。

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アルス版『日本脱出記』に収載されている論文

「無政府主義将軍」 1923年8月10日


「マルクスとバクウニン」 1922年12月5日東京にて

初出『労働運動』11号1923年2月10日発行 同タイトル<上>
   『労働運動』12号1923年3月10日発行        <下>


日本脱出記 5  に続く



 リンク

コロメルに大杉の名を告げたのは小松清


パリにおける大杉栄氏
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by tosukina | 2011-06-01 16:28

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