大杉栄

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の三


1914 10月1日 シンヂカリズム研究会 大杉は講話を休む、『物質非不滅論』の印刷校正の為多忙

1914 10月5日 平民社より 栄

1914 10月15日 シンヂカリズム研究会 大杉は雑談に際し「平民新聞の発行禁止……」

1914 10月15日 『平民新聞』1号発行、即日発禁処分 <獄中の同志>大逆事件に坐し、危うく縊り残されたる同志諸君の消息を読者に語らねばならぬ。高木顯明君(秋田監獄)在監中病を得たということを側かに聞いたが、薬石更に効なく、去る7月中遂に再び不帰の客となった。悼むべし。飛松臧次郎君(秋田監獄)坂本清馬君(秋田監獄)一時非常に感傷的になっていたが、此節は落着いて、自然科学に関する書籍に親しんでいる。崎久保誓一君(秋田監獄)賞表を得て此頃は、通信も隔月のところ毎月許されるようになった由。岡本 武田 三浦 岡林 小松 佐々木 峰尾 成石 新田 新村

<片山潜氏送別会><センジカズム研究会> 大杉栄<労働者の自覚><カイゼル論><国際無政府党大会>

1914 10月20日 『微光』第1号発行、指ヶ谷町3番地  印刷人、渡辺政太郎 編集発行人、臼倉甲子造

1914 10月30日 『生の闘争』新潮社 刊行 第一評論集

1914 11月15日 シンヂカリズム研究会 講演を休み雑談

1914 11月20日 『微光』第2号発行、指ヶ谷町3番地

1914 11月20日 『平民新聞』2号発行 <秩序紊乱><平民経済学><平民社より>

1914 11月22日 発禁処分

1914 12月1日 シンヂカリズム研究会 大杉は佛国に於ける労働取引所及労働総同盟に関する講話を試みる

1914 12月18日 『平民新聞』3号発行 <野蛮人><平民経済学><発売禁止の記><平民社より> 栄

1914 12月18日 <平民社より>栄「新聞の印刷が出来る前から、14,5人の刑事が印刷所を取りまいている。少々シャクに触ったから、電話で自動車を呼んで、囲みを破って逃げ出した。…翌日十数名の同志は家宅捜策を受けた。しかし、新聞は殆ど何処からも出て来ない。」4号掲載。

1914 12月19日 調査書によるとこの日発禁処分

1914 12月20日 『微光』第3号発行、指ヶ谷町3番地

1915 1月15日 『平民新聞』4号発行、発禁処分なし <新事実の獲得>大杉栄 『新潮』1月号より転載

1915 1月15日 シンジカリズム研究会 大杉方 雑誌『民声』に掲げたる「クロポトキンの戦争観」という記事(漢文)の一部を講話

1915 1月20日 『微光』第4号発行、指ヶ谷町3番地

1915 2月1日 シンジカりズム研究会 大杉方

出席者9名、大杉談話「場所が不便だから来月からは…場所の便利な処にしようと思うて居る……『平民新聞』の無代配布……」

1915 2月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

(本会は席上荒畑勝三の演術せるところに依れば従来大杉等の主催に関わるシンヂカズム研究会を拡張し一層広義に社会問題を研究せんとするものにして今後毎月一日、十五日前記の場所に於て開催するものなりと)出席者30名(内名簿未編入者16名あり)大杉の演術「代議政治論」<状勢>神奈川より中村勇次郎、加藤治兵衛、小池潔「平民講演会」に出席

1915 2月16日 5号印刷中、発禁処分、押収

1915 2月20日 『微光』第5号発行、指ヶ谷町3番地

1915 3月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

参会者、大杉、荒畑、岡野辰之助、有吉三吉、渡辺政太郎、吉川守国、斎藤兼次郎、林倭衛、宮島信泰、島田一郎、山鹿泰治、八木ウラ、(以上主義者)辻潤……31名

1915 3月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

参会者、有吉三吉、百瀬晋、吉川守国、橋浦時雄、宮島信泰、渡辺政太郎、斎藤兼次郎、荒川義英、山鹿泰治、林倭衛、堀ヤス、八木ウラ、安成貞雄外7名、合計22名にして大杉、及安成貞雄の講話あり

1915 3月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

1915 3月15日 発行予定 『平民新聞』6号発行、四、五日発行が遅れる

1915 3月20日 『微光』第6号発行、白山前町38番地「社告 本社は本月より移転」

1915 3月20日 <状勢>中村勇次郎は歌会を催すと称し横浜市青木町21番地 貸席 「宮の館」の一室を借り受け、加藤治兵衛、伊藤公敬、吉田満太郎会合し大杉栄、荒畑勝三等も東京より来会せし形跡あり

1915 4月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 参会者25名、大杉の演術「裁判制度の批評、クロポトキン著『国家論』から引用」

1915 4月16日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

山鹿泰治は中国無政府主義者「師復」なる者の死を悼む旨を述べたるに大杉は談話を為せり

1915 4月20日 『微光』第7号発行、白山前町38番地

1915 4月25日 <状勢>中村勇次郎は「平民新聞」廃刊の已無むなきに至や大杉栄、荒畑勝三等と相謀り出版物発行の計画を為し4月25日「解放」と題して第一報を発行「平民新聞」の廃刊を惜しみ「近代思想」中より大杉栄執筆の「生の創造」を転載

1915 5月1日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方 参会者は21名

1915 5月2日 <状勢>中村勇次郎、加藤治兵衛の何れか横浜市福富町貸席「大正倶楽部」に至り俳句会を催すと称し二階奥座敷一室を借受け翌2日夜同所に於て両名及伊藤公敬、吉田満太郎並び在京大杉栄、荒畑勝三、荒川義英其他氏名不詳者1名計8名の者会合せし形跡あり

1915 5月15日 平民講演会 日本橋新常盤町堺井金次郎方

出席者15名、荒畑が露国革命運動の講演を為し、大杉は以下の講演を為す。<状勢>中村勇次郎 平民講演会に氏名不詳の者同伴出席

露国政府が革命者を迫害する程………

1915 5月20日 『微光』第8号発行、白山前町38番地

1915 6月1日 平民講演会 豊多摩郡大久保百人町352

参会者21名「日本に於ける社会主義運動の経過………日本社会主義協会の存在したる時代を第一期とし堺利彦及幸徳伝次郎等が萬朝報を退社して非戦運動を試みたる時代を第二期とす、幸徳が無政府主義の運動を起こしたるは第三期として同人が死刑に処せられたる時を該期の終わりとす其後は混沌時代となりて経過中堺利彦が茶話会を企て時々同志と会合中従来の同志が恐怖病に陥り主義運動の尚早を口実として之を避けたるに依り荒畑勝三と自分は堺と議論の結果分離して雑誌『近代思想』を発行し後之を平民新聞に変更したるは第四期の序幕なり而して平民新聞は僅か6号を以て廃刊したるも此間地方に於て多数の読者を得………横浜、大阪及其の他地方に於て運動を萌芽したるに付吾人は従来と異りたる運動を為さざる可からず就いては労働者■■■(をして?)不利益なる事を生じたときは之を扇動して労働者の反逆を為さしむる習慣を養成せしことを急務とすべし若し夫れ労働者にして反逆を始むる■■■ず■ば到底社会運動は絶望なり云々」

一、荒畑曰 『労働者』(宮島信泰が発行兼編集人となりり吉川守国が印刷人となて前月発行したる雑誌なり)発行に就て相談をせぬとて同志中に不平の奴が■■■(大杉、荒畑は旧同志を措ち新同志の宮島を発行兼編集人に選定したるに対して■発刊以来百瀬、荒川、相坂、有吉等憤慨し居れるものなり)数名の者が蔭で不服を言ってるさうだが此席に居るなら起立して呉れと語りつつ百瀬晋、有吉三吉、相坂佶等を尻目にかけ幹部が専横とは何事ぞと呶鳴りたる処何人も起つ者なかりしと

一、大杉は君は突然そう言ては困る知らぬ人は判らぬぢゃないか……『労働者』は平民新聞廃刊後4月中旬吉川守国と相談の上纏めめたものだ宮島の選んだのは他に入獄してまでもという意気込の者が見当たらぬので勇敢なる宮島に法律の責任を負せ財政の方は兎も角も吉川が責を負うと云う事尚お宮島に多少の報酬をやると云う事もあったが雑誌が出ると直ぐ或る者が代理として来たのであるが(当月24日夜有吉三吉が前記百瀬外数名を代表して前月15日平民講演会の節同人より宮島へ編集費として5円を与ふるに■■■寄付金を同志より募るべく依頼を受け爾来奔走したるも前記不服を以て出金する者なき旨の事情を語りたるものなり)女の腐った様に僕の前へ来ずに蔭で意張ってるとは何だか卑怯だ一体そんな奴は居のも邪魔だこっちで絶縁して仕舞ふ僕は僕自身でやる僕■仕事が僕が責任を負う■誰も専横だと言う奴はあるまいと語りつつ百瀬、相坂、有吉を睨みつけて罵倒し此処に居る者は全部一人一党主義で同じ理想に向って活動せむ事を望む但し其の間に可成連絡の保ちたいと思う側へは荒畑君は荒畑を中心としたる団体を造るが如く各人各所に於て秘密に秘密的結社甲乙丙丁と各団体を造りて運動し其の団体の間には連絡を取ってやった方が便利で有効と思う之がアナキストのやり方であるそして各人秘密を守り自覚的に秘密に実質的運動をせらられば………何か言って貰いたく待ってます云々……

1915 6月12日 <状勢>小石川区白山前町38番地なる同宅に於て同志者の「家庭会」を開く参会者は渡辺政太郎 小原慎三 吉川守国 原子基 久板卯之助 外に無編入者 古川啓一郎 井上猛一若林ヤヨ(渡辺政太郎内縁の妻)の8名にして小原慎三の欧州戦争に関する談話等あり次回の会合を来る7月10日に申合せの上散会せり

(附記)1915年6月15日開催に係る平民講演会に於て渡辺政太郎は左記の如く口外せり

「此の頃自宅で同志の茶話会の様に同志の家庭会を催し7,8人集って小原君に講話をして貰ったのであるが之は毎月一回第二の土曜日に開く事にしました」

1915 6月15日 平民講演会 小石川水道端町2丁目16番地(本人の借家)佛蘭西文学研究会場 

参会者24名、大杉談話、来たる19日より佛語の教授を始めた……

1915 6月17日 『微光』第9号発行、白山前町38番地 終刊号

1915 6月 <状勢>6月20日より11月20日迄数回に亘り「家庭会」(8月20日より「平民自由団」と改称す)を開催し10名内外の同志等会合して主義の研究をなし又添田平吉、原子基の両名は相謀りて「茶話会」又は「親交会」と称し労働者の親交を計るの目的を以て 1915年11月10日及1916年2月15日の二回会合を催し一部の同志及び主義的臭味を有する労働者等数名出席せり

1915 7月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場 エロシェンコの英国でのクロポトキン訪問 講演通訳は福田武三郎→国太郎か? 21名出席

1915 7月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

出席者21名、兵役制度非認及徴兵拒否に関する演術あり……

1915 8月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者は大杉共20名、荒畑は「日本に於ける労働運動」大杉栄は「個人主義の進化」と題し講術

大杉は附言せり

「荒畑が唯今労働運動の経過に於て同盟罷工の事を話しましたが僕は之は社会主義や労働運動の結果で無いと思う労働者自身にそういう事を為したのである云々労働者は人に扇動されなくとも自分に為すべき力を持って居るさればとて何も労働運動が無効だと云うのではない伝道は必要であると思う云々、新村善兵衛の出獄

1915 8月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

大杉及中国人呉塵外20名、荒畑の英国に於ける労働運動に関する講術、大杉は前回に続き「個人主義」を話す筈なりしも当日は休講せり

1915 9月1日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者は大杉共25名、講話なく「『近代思想』を出す、付いては15日は編集で忙しい最中であるから今後此会を一日丈にしようと思うと告げ……」

1915 9月15日 平民講演会 小石川水道端町佛蘭西文学研究会場

参会者大杉共16名、雑談、渡辺政太郎「赤羽一の著述にして去る1910年発売頒布を禁止せられたる小冊子『農民の福音』二三冊つつ山鹿泰治は過日秘密に出版したるストライキの話一枚つつを配与し又千賀俊蔵が携帯せし写真器械にて一同を撮影して散会せり」

1915 9月25日 野澤重吉死亡

1915 10月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

参会者大杉共20名、荒畑の演術「マリー・スピリドノワ」の経歴

雑談中、大杉は友愛会に関する談話、又故主義者野澤重吉(9月25日死亡)の功績を

1915 10月7日 『近代思想』復活号掲載、大杉栄テキスト<築地の親爺><労働運動とプラグマティズム><二種の個人的自由><所謂軍国主義><平民経済学><復活号>

1915 10月    大杉栄『近代思想』 <復活号>「……『平民新聞』を廃刊してから丁度半年になった……横浜の同志中村勇次郎板谷漂葉の二君が『解放』と題する雑誌を出した事を特筆して置きたい。次には東京の吉川守邦君が『労働者』を、大阪の若林勝造君が『烟』を函館の久保田鬼平君が『足跡』を出した。何れも2,3号で休刊若しくは廃刊したが、僕はこれ等の諸雑誌が、及びこれに類する諸雑誌が、再び彼地此地に現われん事を望む。僕等の運動又は伝道は、斯くして各地方に、自治自発的に行われなければならぬ。……京都の上田蟻善君の『へいみん』、埼玉の臼倉甲子造君の『微光』、東京の西村陽吉君の『青テーブル』、加藤時次郎君の『生活の力』なども、多少の色彩を帯ている。寒村君と僕とがやっていた平民講演会は、貸席の方を警察からの干渉でことわられたので、遂に小石川区水道町の旧水彩画研究所を借り切る事にした。そして其処を『平民倶楽部』と名づけて、宮嶋資夫君夫婦に住んで貰った。これは随分大きな家なので、何れは図書館も設け、其他いろいろと労働者の倶楽部的組織をつくる考であったのだが、これ亦家主と地主からの苦情で、遂に移転の止むなきに至った。で、其近所に家を借りて、其処に僕一家が住み、講演会も其処でやり、そして宮嶋君は『近代思想』の発行人として郡部の調布に移転した。これで平民倶楽部の企ても当分思いとまった。奥付にある宮嶋信泰と云うのは資夫君と同一人であり、麗子君と云うのは同君の細君である。…平民講演会は毎月1日 15日の午後6時に開き、1日は寒村と僕が講演し、15日は茶話会にする。僕等の信用ある人の紹介があれば、どなたでも、そして成るべく多くの御来会を希望する。…渡邊君の通知にあるような事件が、東京の相坂佶、山鹿泰治の両君によって、大ぶ猛烈に行われだ。一週間と云うもの二君は警察の厳重な警戒の網をくぐって東京及び附近の工場地に出没して、数千部の『平民新聞』の残りを配布した。そして遂に捕われたが、結果は矢張り、渡邊君と同様に直ぐに放還された。其他近来何処からか、秘密出版物らしいものが、ちょいちょい現われる。斯う云う国法を破るような事は、甚だ怪しからぬ仕方だと、折々方々からお叱りを受ける。……堺利彦君の方でも『新社会』を出す。………最後に一寸紹介をして置くが、山川均君と云うのは、新しい人達には知られていないだろうが……」『近代思想』10月号

1915 10月10日 大杉栄、野沢重吉法会に参加

1915 10月15日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

1915 10月 大杉栄 <編集の後>「……なるべく理屈でではなく、事実によって示したいと思う。…そして此の、なるべく理屈でではなく事実によってと云うのは、此の雑誌全体の編集方針としたいのだが、そうなると又『平民新聞』の運命を其儘継承する恐れがある。……雑誌の売れ行きは大ぶいいようだ。7日に発行したのが10日には売り切れになって了って僅かながらも再版をした。………11月中には僕の『生の闘争』以後の論集『個人と社会』が、新潮社から出る筈。…クラポトキンの『相互扶助論』も矢張り新潮社から出る筈で、目下翻訳中だが、これも近いうちには出せるだろう。…」『近代思想』11月号

1915 11月 『近代思想』11月号、大杉栄テキスト<秩序紊乱><意志の教育><事実と解釈><所謂政府的思想><平民経済学><編集の役>

1915 11月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

大杉外16名(主義者14名)講演なく木鐸事件、尾行巡査を晦したる実例及火薬盗難に関する雑談

1915 11月   神近市子、大杉栄と親しくなる

1915 11月初旬 『近代思想』講演会、警視庁により中止に追い込まれる

1915 11月10日 即位式当日は堀ヤスを伴い午後三時頃外出して小石川区表町伝通院前なる内田大弓場に到り国民一斉万歳を三唱して奉祝の意を表すべき3時30分時に達するを待って標的に矢を発射し引続き約1時間弓戯を試みたる上帰宅せり 

1915 11月15日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方

参会者は20名(内主義者14名)大杉の講演は「無政府主義の起源に就て」

1915 11月25日 『社会的個人主義』新潮社 刊行 第二評論集

1915 11月25日 大杉宅にて会合「『近代思想』経営難に迫り、善後策」

1915 11月26日 再び大杉宅にて協議会を開く

1915 11月 大杉栄 <廿日鼠とドラ猫>「……印刷所から社への持ち運びにも、其の妙な奴が隧いて来る。社では、丁度平民講演の来会者が、大がい皆一人づつのお供を連れて来ているので、門前市をなしている。其処を、こちらも例の奥の手の自動車で、有吉、山鹿、及び○の三人が、大きな声で『馬鹿、馬鹿、馬鹿』と連呼しながら、何処とも知れず突っ走って了う。翌2日の朝、発売禁止の命令は来たが、生憎、編集用のたった2部しか差上げる事が出来なかった。……『早稲田文学』……秩序紊乱の為発売禁止……流行の気味がある。……酒田の同志の斎藤恵が、同町発行の雑誌『木鐸』に、アルツイバセフ作労働者セイオフの紹介を載せた為に、雑誌は禁止、筆者は直ちに山形の未決監に投ぜられて、今まだ公判中らしい。………ヤレ火薬庫忍入りのヤレ爆弾泥棒のヤレ汽車暗打ちのと、時もあろうに未曾有の不安が国民の心中にわだかまっている際だから、途方もない馬鹿者どもが僕等に嫌疑をかけて無法な事でも仕出かしやないかと、お上では、そればっかりが御心配だったのだそうだ。………護衛仲間の間に廿日鼠の称を得ている。山鹿に其の話をすると、道理で俺にはあんなドラ猫のような奴がつくのだな、と憤慨している。<同志諸君>「近代思想社の体制変更」『近代思想』12月号                            

1915 11月頃 <状勢>長崎、深町作次(海軍工廠筆生)……大杉栄を崇拝すること厚く、大杉夫婦の肖像を雑誌(新潮?)の口絵よりり切取り笈上に掲げたりとの事実……大杉の紹介に依り支那無政府主義者呉塵(医学生)及其他の同志とも交際を開始するに至り一面大杉一派と脈絡を通じ多数の同志を糾合して主義の発達を期待しつつあるが如し

 呉塵は修学の目的を以て1914年3月渡来入京…「海鳴録」(後「民声」と解題)を購読し且同人と交際を結び……渡来後早くも在京大杉栄等と懇親を結び……「平民講演会」に出席し……常に同人と書信を往復する等………

1915 12月1日『近代思想』第3巻3号 発売頒布禁止処分 12月号掲載、大杉栄テキスト<労働運動と個人主義><『社会的個人主義』自序><相互扶助論><平民経済学><廿日鼠とドラ猫><同志諸君>

1915 12月1日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方参会者は大杉共25名(内主義者16名)<労働運動の事>大杉は語れりり「雑誌を共同責任にして僕は他の方法で運動を起こそう思うてる……近頃火薬事件が起れば直ぐ火薬事件、皇室、社会党とか、ピストルを汽車に撃つ者があれば皇室、社会党と何等の詮議もせす新聞が書く国民がそう信ずる政府が又そう■ふて仕舞う………実に人心が不安に打たれてる此無意識的の不安の有意識的にするのが僕等の仕事だと思ふ元来僕は文士等に自覚を起させる積もりで満足出来ぬでどうして労働運動を始めむければ駄目だと思ふ云々」

1915 12月11日 平民講演会 小石川武嶋町24番地大杉栄方 参加者本人共23名前々回に引き続き<無政府主義の歴史>に関する講演、且つ雑誌『近代思想』の維持に就いて協議

1915 12月14日 大杉、逗子に移転

1915 12月   大杉栄 <序文二種>「『貧乏と恋の歌』見本、四首」、同人<組織変更事情><社及社内の個人から>「社は、大杉が逗子に移転したので、下谷の有吉の家に置く事となった。……桜木町34」「大杉は、毎日曜日に上京して、その日は午前9時から午後4時まで、牛込区横寺町の芸術倶楽部にいる。そして正午から1時までを面会時間とする。…『相互扶助論は……まだ出来てない。……『労働運動の哲学』も1月中には出る筈。』」『近代思想』1月号
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by tosukina | 2011-09-28 06:49

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