大杉栄

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の四

1916 1月1日 『近代思想』発禁処分

1916 1月3日 同志吉川守国方に大杉外9名会合協議『近代思想』維持に関して

1916 1月15日 平民講演会 上野観月亭

荒畑の講演の後、大杉の講演「欧州無政府主義者が平時に於ける主義主張に反し戦争に参加するに至れる事情を語り戦後に於て彼等が如何なる行動に出つるやは不明なりと述べ更に………」

1916 1月24日 上野観月亭に於て東京同志の近代思想同人会臨時

相談会を開く、来会者大杉共19名

1916 1月25日 吉川守国方に大杉及荒畑及有吉の3名会合し引継ぎに関する事務を整理し残金を為替にて他の書類と共に送り越しここに近代思想は全く廃刊するに至れり

1916 2月1日 平民講演会 上野観月亭

<無政府主義の歴史>に関する講演を試みたり同日所轄上野警察署に於ては特に巡査を派遣し会合の性質目的等を穏言質問したる処本人等は巡査に対し口を等めて罵倒せるを以て更に正服警部補を以て臨監なさしめたるに之に対しても同様通罵し間もなく随意散会せるを以て同日来会せる主義者11名未編入者6名全部を順次警察署に同行未編入者3名を除く外本人以下14名は検束処分を受け翌日午後2時放還せられたるが本人は同月3日警視庁に出頭し右処分に対し左の如く語れ

1916 2月20日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

出席者、大杉の外26人にして席上大杉は<欧州戦乱前後に於ける獨逸社会党員の態度>に関して講演なし後山川均の<クロポトキン国家学の梗概>と題する講演あり、それより堺利彦と左の問答をなし堺の態度を痛罵せ

大杉 日本の労働運動は近き将来に於てどうならう乎

堺  自分は此問題に付ては何時も弱って居るが将来の事は判らぬ自分は判らぬから何もやらぬのだ云々

大杉 君は判らぬ判らぬと云うが何かやる気はないのか

堺  有る然し今日迄の運動は雑誌を出し演説会をすると信して居たが其外■(原本が二文字分三点)何をやって良いか一寸判らぬ又考えて善いと思へはやる

大杉 何んでもやる事があるではないか君がそんな事でどうするか

1916 3月1日 大杉、四谷区南伊賀町に移転

1916 3月7日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 大杉の外18名(未編入者5名)山川均、馬場孤蝶(未編入者)の講演あり、後雑談を交え午後十一時頃散会

1916 3月9日 内縁の妻堀ヤス(主義者)とは1911年11月5日より同棲し居りしが1915年11月頃より大杉が神近イチ(主義者)外一、二の婦人と関係し「ヤス」を疎無んしたる結果著しく家庭の円満を欠き遂に山崎今朝弥、馬場孤蝶(未編入者)等の調停により互に感情の融和を計らんが為め1916年3月9日より一時別居すること、なれり

1916 3月9日 大杉、麹町区三番町に移転

1916 3月19日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

午後7時より、参会者は大杉共14名(内未編入者2人)、大杉は「無政府主義の歴史」談として佛国に於ける労働者総同盟組合組織よりり革命の顛末に及ひ(入力者略)と演術し後山川均「歴史の見方」に就き講演ありりて同十一時散会せり当夜は参会者従来に比し著しく僅少なりしが荒畑等のとの内訌と一つは大杉近時の行動に対し同志一般快からさるものあるに其因せるものと認めらる

○豫て本人の熱心経営せし雑誌『近代思想』は種々の事情の為め継続発行する能はず且二三婦人と関係したる結果内縁の妻とは別居するの止むなきに至り尚情婦関係同志間に暴露するや宮島信泰を除きては一人も彼れを同情するものなく無二の親友荒畑勝三とさえ往復をなさず剰へ平民講演会の席上堺利彦を罵りて自ら交際を狭め加ふるに従来大杉の著作物原稿を購ひたる新潮社主佐藤義亮よりは買取方を謝絶せられ為めに生活の資源を失ふに至れり、大杉は之を警察の圧迫に因るものとなし反感を激成せんとしつつあるものの如く又豫て亡父(陸軍高等武官)の恩給証書を抵当として高利貸より借入れたる三百五十円の元利、現今に於て六百余円に上れるを発見し大に憤慨したるも及ばず一方堺の売文社は愈々盛大に赴き荒畑も亦新雑誌発行の計画進捗する等を見益々自己の窮境を自覚し且3月19日開催したる平民講演会へは参会者極めて少なく悄然たる有様にして漸次自暴自棄に陥らさるの状況に至り宿阿の肺結核も時々発熱を見るが如き有様にして嘗て幸徳伝次郎が管野すがとの関係暴露して同志の信を失ひ肺結核の宣告を得て一種の自暴自棄に陥りたると稍々趣を同ふするの境遇にあり旁大杉は神経過敏にして激し易き資性を有するに近時堺利彦に対し「余は到底従来の同志と行動を共にすること能はず余は断乎として単独にて余の所信を断行すべし」と語りた等の事実あり(1916年3月下旬調)

1916 3月以降 『社会的個人主義』(1915年11月27日発行)『労働運動の哲学』(1916年3月19日発行)はその発行に先ち発売頒布禁止処分を免れむか為文中過激に渉ると認めらるる個所を削除したる上出版せし趣なるが大杉はその部分を一括蒐集し山鹿泰治及有吉三吉等をして、穏密謄版に附し一部40,50銭の割合にして希望同志に頒布

1916 4月2日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 午後7時、出席者は大杉の外12名(内未編入者4人)、「バクーニン」の経歴に関し講演、10過ぎ散会

1916 4月16日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部 午後6時より、出席者大杉共16名、大杉は前回に引き続き「バクーニン」の経歴談を続行、(同人の運動伝道方法初期の無政府主義者は何れも実行的なし事実を述べて本邦に於ける無政府主義者も亦此等と轍を同ふせるものなりとなし自分等<大杉>が過去の経歴を説き及び彼の金曜講演会の実行本郷に於ける屋上演説錦輝館赤旗事件及幸徳事件等の事例を引証し要するに実行は無政府主義の存在を世間に周知せしむる唯一の■■にして其の実行方法は自ら無政府主義的の行動を為すにあり云々)と結論して終わりて添田平吉は同行せる北海道在住準主義者渋井福太郎を一同に紹介し渋井は北海道地方に於ける労働者待遇の実情を述べ松浦長治吉川守国等との間に二、三の問答をなし後社会主義運動に関し大杉に対し「僕は文盲だ、事実の上に表はして見せなければ信用出来ない」と答弁を促すや大杉は左りの如く熱烈なる口調にて説明し午後11時頃散会せり

 僕は常に疲れる程云って居る「労働者は決して社会主義や無政府主義やサンジカズムの本など読むなと云って居る」「労働者は其の苦しい生活力をその惨めな生活から脱し様とする丈で宜いのだと云ふて居る、それには手段を選む必要はない如何なる事ても如何なる方法ても自分達か宜しいと思ふた手段を以て自分達か仕度と思ふ事をすれは宜しいのた」

 而してそれか社会主義、無政府主義、サンジカリズムの思想と合致したる時それに来れは宜いのた、それて始めて真実をつかんだ事が出来るんだ、そして始めて自覚するのだ

僕等は自分等の勇気の無いのに対して諸君から攻撃されても一言も無い全く僕等は勇気はない、然し常に自分等は何事か為さねはならないのだ、何か為さないてはならないんたと言ふいらいらした気分は持て居る

幸徳君等が東京で50余人の決死隊を組織して一揆を起そうとした事は其の存在を認めしむる為めの企であったらしい、それから同志間の口から洩れて警戒が厳重に成ったので遂に、ミカドの暗殺を企てると云う事に迄成ったんだ僕等は勇気がない併資し僕等の仲間から幸徳君等の様な人達が出ないとも云えない、そして又暗殺にしても近い話が阿倍政務局長の殺された事や今度の大隈事件や、そーした事件は斯うした厳重の警察の下に在っても尚且つ絶えない、併し此等現代の暗殺者は何れも皆政治科に限られてあるか是とても或は吾々の中から「ピストル」に爆弾に唯一個人でもそれが貴族であり、富豪であり、紳士閥であ又資本家である以上夫れを打ち斃さなければ止まぬと云う欧州革命家の伝を蹈む人か無きにしも非ず又出ないものでもない

勇気ある人、如何にしてもそーしなければならないと云ふ人達は自分か為たいと思ふ事をすれは宜いんた

僕等は本当に労働者が如何に無智であっても如何に文盲であっても、そんな事はどうでも宜しい自分の苦しい生活から来る真実を以て自己の信する処を充分に決行すればそれて宜しいと思ふて居るんだ云々

1916 4月30日 伊藤野枝宛書簡「……御宿の、ゆうべの寝心地はいかに。……五十里が自分の羽織を僕に着せてくれるところだった。……八時半頃にそこを出て、神保町で二人と分れて、ちょっと下宿(麹町第一福四万館)に寄って……約束の田中純のところへ行った(『新小説』の編集長)。……金をもって四谷へ行った。あなたを両国へ送って行ったことも話した。
 四谷へは、きのう『国民』の男と『万朝』の女とが、再び訪れたそうだ。僕の下宿へも、留守中に、来たらしい。

 けさおしげさんから電話があった(荒木しげ・『青鞜』に執筆、親が旅館経営)『万朝』の女は、おしげさんに話をしてくれと迫ったそうだ。それからなお、あの場の光景を書かしてくれと頼んだそうだ。そしておしげさんは、二つとも、きっぱりと断って、あとは雑談で済ましたそうだ。五十里も馬鹿だね。ゆうべどうして神保町まで来たのかと思ったら、酔っらったまま、またおしけ。さんのところへ寄ったのだそうだ。そしてウンと叱られて帰ったそうだ。めずらしく長い手紙を書いた。

1916 5月1日 伊藤野枝宛「夕飯までグッスリと寝た。
五十里が来た。…青山君のところへ行くと言って出掛けて行った。するとそれといれちがいに、こんどは神近が来た。四、五日少しも飯を食わぬそうで、ゲッソリと痩せて、例の大きな眼をますますギョロつかせていた。社(東京日日新聞)の松内にもすっかり事実を打明けたそうだ。
十時頃まで水菓子などを食べて饒っていたが、何のこともなく、おとなしく寝て、おとなしく起きて、そしてまたおとなしく社へ出て行った。可哀そうな気もするが、しかしそれでなくては、あの女は本当の道を進んで行くことができないのだ。もうあなたからの手紙も、見せてくれとは言わない。
逢いたい。行きたい。僕の、この燃えるような熱情を、あなたに浴びせかけたい。
しかし、僕のこの状態も、渡辺のところにいる一友人(村木源次郎)の来訪によって、まったく打ち壊されてしまった。その友人というのは、横浜の同志で、赤旗事件の時に一緒に入獄して、その後一、二度会ったきりでずいぶんしばらく目だったのだ。入獄する時には、まだ二十歳ばかりの、本当に文字通りの美少年であった。……」

1916 5月2日 伊藤野枝宛「……あなたの早く来てくれという言葉も、何の不快もなしに、と言うようはむしろ、非常に快く聞くことができた。本当に行きたい。……ゆうべは、神田の一軒の本屋に寄って見た。………あなたの本の話は駄目だった。


1916 5月6日 伊藤野枝宛「…最後にまた亀戸で代わった(尾行の交代)…たのしかった三日間のいろいろな追想の中に、夢のように両国に着いた。今でもまだその快い夢のような気持ちが続いている。」

1916 5月7日 平民講演会 牛込横寺町芸術倶楽部

出席者11名、講演なく雑談、次回よりは経費不足の為順次同志の居宅にて開催

• 5月8日 伊藤野枝宛「……正午頃から珍しく孤月におそ

われた。……あした安成二郎がそちらへ行くと言っているから、それと強制同行をしたらどうだとすすめている。二郎は、ゆうべやって来て、保子に対する僕の心持ちを『女の世界』に書いてくれと言うのだ。それはおことわりして、ほんの少しだけ話をしておいたが、きょうは神近のところへ行ったはずだ。……孤月と強制妥協して、次のごときハガキを『読売』へ送るつもりで書いた……また今、二郎が来て、とうとう書くことに約束した。あしたの朝八時の汽車で行くそうだから、この手紙は持って行って貰うことにした。」  

1916 5月9日 伊藤野枝宛「きのうは、夕方土岐と会うはずになっていたものだから、安成と一緒に出掛けて読売へ行くと、そこへ荒川が来る、さらに四人で社を出ると、路で荒畑に会う。こう大勢になると、夕飯を食うのも大変だし、ともかくもとカフェ・ヴィアナヘはいる。いろんな話のついでに、野依の話が出て、ついに野依を呼ぼうということになる。……しかし、ここ10日ばかりの間に、あいつも四年間の牢獄生活にはいらなければならぬのだ。………それは例の堺(堺氏をそこへ呼んだのだ)の冷笑だ。いきなりコップを額にぶつけた。……堺と僕とのイキサツは『生の闘争』の中にある<正気の狂人>以来の、またいつものあの意味のことなのだ。いつかも、やはり同じようなことで、平民講演で口論した。それがついに、ここまでに進んで来たのだ。他のみんなは帰ることになって、野依と僕と二人だけ、その待合いに泊った。もう一時近かったので、女を呼ばずに、ただ一人で寝た。……実は、待合いというところはゆうべが始めてなのだ。………お互いの経済上のことは、……保子についての僕への忠告、およびあなたの心持ちは、本当にありがたく聴く、そうでなければならぬはずなのだ。………あなたは三人のうちでも一番優越(僕の愛ということばかりではない)した地位にいるのだ。………今夜は『女の世界』への原稿を書こうと思っているが、それにあなたからの手紙の一、二節を引用したいと思う。……きのう、夕飯をすましてから、……保子からすぐ来てくれという電話がかかって来たので、すぐ帰るつもりで出掛けた。………あなたのことも、生立ちやら、気風やら、嗜好やら、いろいろと話した。彼女にあなたとの多少の親しみをかんぜさせたかったのだ。……泊った。朝も、いろいろしんみり話して、保子も大ぶよく分ってくれたようだ。ひるすぎに四谷を出て、路で馬場孤蝶のところに寄り、ひどく話しがはずんで、とうとう夜の11時まで遊んでしまった。……神近からも、手紙が来ている。いよいよ本月限りで社をよすことに、松内との話がきまったそうだ。…… 

1916 5月13日 <状勢>深町作次は佐世保海軍工廠筆生を解職、中国上海に渡航することに決心、同日呉塵を訪ね会談、翌14日呉の催せる送別会の宴に臨み(呉は席上に於て所感を述べ深町を激励するが如き言辞を漏し又深町をの出発に際し上海民声社「支那人主義者の設置せるもの」に在る同志張剛へ紹介の労を取れり)其の翌15日同地出帆の山城丸にて上海渡航の途に就けり…深町は渡航以来支那人同志と相往来して其の状況を在京大杉栄に通信したることあり

1916 5月17日 安成二郎宛「……しかし今日中には、野枝さんの原稿ができる」

1916 5月17日 深町、上海に到着、呉塵より上海民声社に在る同志張剛へ紹介を受けたる関係上同社の章警秋と交際を開始し中華報に入社せるも亦章の紹介に依り同報主筆にして塵との交際は今尚之を持続し同人帰国の際は其の訪問を受けることありり深町は叙上の如く渡航以来頻に中国人同志と相往来して其の状況を在京大杉栄に通信したることあ近来は又時々同堺利彦の経営せる雑誌『月刊新社会』へ之を通信したることあり是等通信の内容及其の他に於ける各種の事情を総合するに深町は専ら彼我主義者の関係を密接ならしめんことに努力せるの迹あるのみならず又一面上海における左記の人物が各個分立の状態に在りて何等の連絡関係なきを遺憾として常に是等の間を奔走して其の合同をも計画しつつあるもの如し

呉稚暉(別名「平宇白」)英米仏の各地を巡歴し…中華報の主筆たり。「不平鳴」等無政府主義に関する著あり「」

章警秋 社会主義者にして呉稚暉に師事すかつて東京に遊学せしことあり

章木良 兄にして社会主義を唱道す

謝英伯、蔡世■ 両名は無政府共産主義を唱道し「社会主義講習会」を開き……会員70名を有す。謝は米国「ボストン」大学出身と称す

韓恢、路■「中華工党総務」なる一種の労働組合を組織し……無政府主義を声明せんと………

湘田、師復の妻……同志の糾合に務めたるも……解散し今は私塾に教鞭を執れり

天倣、師復の妹、女工、主義思想堅固なり

田添幸枝、田添鉄二の妻にして英語教授を為しつつあり、長崎在住中村喜九郎の妹なり

1916 5月21日 平民講演会 宮嶋信泰方

大杉は当日千葉県に滞在中なる情婦伊藤野枝(未編入)方に赴き居りて参会せざりしが出席者は10名にして講演なく雑談を交えたるのみにて散会せり

1916 5月27日 安成二郎宛「……あすは東京に帰る。野枝さんは、まだ一週間ぐらい滞在しているだろう。………

1916 5月30日 伊藤野枝宛「……両国では神近が6時から来て待っていてくれた。一緒にその家へ行った。……翌日、牛込へ行くと、まだ生徒は誰も来ていないで、珍しい幼な友達の女(『自叙伝』に出て来るお礼さん)が待っていた。……夕方、四谷へ行くと、借りるはずであった家が、山田と家主との妙な話から、ことわられて、いろいろゴタゴタしていると言う。………その翌日、すなわちきのう、前に言った女の家に行って、夕方神近のところに寄ったが、月給だけは貰えたが………四谷へ帰る。……あなたの方のことが気になるので、10時頃下宿に帰った。……」

1916 5月31日 伊藤野枝宛「……きょう、安成二郎のところで、あなたからの手紙の内容を聞いた。『毎日』の方のも、もう済むそうだね。……ところが『毎日』の方は、はたしてあれを載せるかどうか、どうもあぶないようだ。こちらの『日日』でも大ぶ異論があるそうだ。それに、『女の世界』がきのう発売禁止になったので、なおむずかしかろうと思う。だから、早くしなければいけない、とも言っておいたのだが、しかし今さらもう仕方があるまい。けれども、ともかく向うからの注文で書いたのだから、原稿を送れば金を出さないということもできまい。どうなるかね。『女の世界』の発売禁止は、向こうでもずいぶんの損害だろうが、僕等にとっても、少なからざる影響がある。第一には、世間の奴等は僕等を何と罵倒しようが勝手だが、僕等にはそれに対して一言半句も言う権利がなくなった訳だ。実は『中央公論』で例の高島米峰の奴が<新しい女を弔う>とか何とかいう題で、大ぶ馬鹿を言っているし『新潮』でもケタ平(赤木桁平・漱石門下)の奴が妙なことを言っているし……僕の下宿の分と保子の分とは、いずれも半分ずつの支払いのつもりで、今神近が奔走していてくれる。僕も、あしたからは大車輪で仕事をやる。……」

1916 6月2日 伊藤野枝宛「きのうから仕事を始めるつもりでいたところが、朝は青山女史が遊びに来る、午後は朝鮮の同志がしばらくめで訪ねて来る……とうとう10時近くなってから宮島のところへ出掛けた。……やがて宮島が戻って来る。少しおしゃべりをしているうちに12時になり、とまれとすすめられるままに床にはいったが、1時頃にスリバンで驚かされて、二人で見物に出かけた。……四、五軒も焼けたろうか。……」

1916 6月4日 同志茶話会 宮嶋信泰方

大杉出席、平民講演会は当分休止之を改称、会する者15名

1916 6月6日 伊藤野枝宛「……四谷へ行ったら『中央公論』と『新潮』とが買ってあったので、さっき送った。……本当を言うと、僕は、僕に対するあなたの悪口を一番きいてみたかったのだ。僕に対するあなたの今までの不満とか不快とかいうものを、一つ一つ詳細に聞いてみたかったのだ。今なお続いているものも、またすでに消えさったものも、いっさい。そして僕もまた、あなたに対して今まで思っていたことを。すべてあなたに打ちあけてみたかったのだ。……お互いにあまりに好き合っていたということと、したがって比較的によく理解し合っていたということと、およびお互いにあまり接近することのできなかったこととのためについにその交渉を十分に経ないで恋愛関係に陥ってしまったのだ。………けれども僕等は、二人の間のこの必然的な恋愛にはいってしまった上は、さらにこの交渉をできるだけ厳密に深入りさせて行かなければならない。……

 ……きのうは朝からのお客で、夕方になって幾度目かの新しい客が来ている時に、思いがけないあるハガキに驚かされた。それは、いつか書いた僕の幼な友達からのもので、その亭主が不意に死んだという知らせだった。すぐ二本榎のその家まで行って、とうとうけさまで一睡もすることができなかった。朝飯を食うと、午後の3時に葬式が出るまでの間のつもりで、神近のところへ行って寝た。そしてすっかり寝込んでしまった。葬式にも間に合わず、それに今晩はあるフランス人と会うはずになっていたので、夕飯前に神近と一緒に下宿に帰った。あなたからの手紙と原稿とが来ている。……

 今、フランス人のところから帰って来た。……」

1916 6月7日 伊藤野枝宛「……二人でおなじようなことを言っているのだね。会いたいことは早く会いたいし、しかも、会ってしまえばまたしばらく会えないのだからつまらないなぞと…………永代静雄のやっている『イーグル』という月二回かの妙な雑誌があるね。あれに面白いことが書いてある。「自由恋愛実行団」という題の、ちょっとした六号ものだ。……平民講演の帰りに、神近や青山と一緒に雑誌店で見たのだが、神近は「本当にそうなんですよ」と言っていた。青山はあなたが僕に進んで来て以来、僕等の問題についてはまったく口をつぐんでしまった。……」

1916 6月18日 同志茶話会 吉川守国方 大杉、宮島欠席、参会者9名、翌月2日の例会は休止                                              

1916 6月18日 安成二郎宛「『世界』の切りぬきをありがとう。……」

1916 6月18日 呉塵は6月18日出発天津経由直隷省保定府に赴き同9月14日帰崎せしが帰路上海に立寄り深町及び中国人同志とも会見を遂げたるものの如く帰来後上海同志の状況を語り頻に主義的言辞を弄し日本の国体をも捉えて之を伝為せることあり…

1916 6月22日 伊藤野枝宛「……あれからどうした?……大原を通ってからは頭痛がますますはげしくなって……神近の家へ行ってからも、神近はしきりに何やかやと話ししたがるのだが、済まないとは思いながらも、それに乗る気持ちにはなれなかった。……けさ起きてからも……寝ころんで本ばかり読んでいた。……あしたの朝は、眼をさますとすぐ、あなたの手紙が枕元に来ていることと思う。そして、それを読んで始めて、いい気持ちになれるのだろうね。………」

1916 6月23日 伊藤野枝宛「………今のあなたと僕とは、とても永い間離れていることはできないのだ。……そして二人は恋の戯れにのみ惑溺していなければならない。……」

1916 7月14日 伊藤野枝宛 「……かぜになってしまった。きょうは一日寝て暮らした。今、四谷からの電話で、保子が四、五日前から病気で寝ているということだから、出かけてゆく。あしたは必ず書く。」

1916 7月15日 伊藤野枝宛「ひる頃四谷から帰って見ると、途中からのハガキが二本ついている。あなたもいよいよ尾行につかれる身分になったのかな。……ゆうべは保子のところへ行った。……ゆうべは手紙に書こうと思って、よしてしまったが、実はあなたが出発したあとへ、ほんのちょっとという約束で神近が来たのだ。そしてつまらぬことから物言いが始まって、やがて床を二つに分けて寝て、また朝になって前夜のつづきがあって、とうとう喧嘩別れに別れてしまったのだ。……」

1916 7月16日 伊東野枝宛「……うんと喧嘩でもして早く帰って来るがいい。その御褒美には、どんなにでもして可愛がってあげる。そして二人して、力をあわせて、四方八方にできるだけの悪事を働くのだ。それとも、この悪事をあと廻しにして、叔父さんの言う通りにアメリカへでも行くか。そして二年なり三年なり、語学と音楽とをうんと勉強してくるか。人間の運命はどうなるか分らない。……いずれにしても野枝子の勝利だ。……帰っておいで。早く帰っておいで。一日でも早く帰っておいで。手紙を開封したような形跡があったら、警察へおしりをまくってあばれこんでやるがいい。」

1916 7月17日 伊東野枝宛 「……和気から『朝日』(大阪朝日)の夕刊を送って来た。……ほんとに早く帰って来ておくれ。ね。いいかえ、野枝子。今、荒川と吉川とがやって来たから、これでよして、すぐ女中に出させる。……」

1916 9月1日 伊東野枝宛「また大阪でそんなにいじめられているのか。ほんとに可哀そうな野枝子だね。………ほんとに僕は、幾度も言ったことだが、こんな恋はこんど始めて知った。もう幾ヶ月もの間、むさぼれるだけむさぼって、それでもなお少しも飽くということを知らなかったのだ。というよはむしろ、むさぼるだけ、ますますもっと深くむさぼりたくなって来るのだ。そしてこのむさぼるということに、ほとんど何等の自制もなくなっているほどなのだ。………(31日)……」

1916 夏頃 渡辺自宅で久板と茶話会を始める 白山前町38番地と思われる 後に研究会 小松『自由人』<『続要視察人状勢一斑』を根拠>
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by tosukina | 2011-09-28 05:57

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