大杉栄

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の五

1916 10月15日 大杉、本郷区菊坂町、菊富士ホテルに移転

1916 10月28日 ……近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞する所あらんと発意し10月28日同志吉川守国、渡辺政太郎、村木源次郎、荒川義英等と大杉栄の宿所に会し立太礼当日同志八、九名連合して行啓御道筋に出かけ警護線を騒擾せしむるか若は同志随所に所在を晦まし又は恰も事ありけに同志間を往来して警察を狼狽せしむるの行動に出らんと談合し越えて11月1、2日両日に渉り村木源次郎に旨を含めて同志有吉三吉、五十里幸太郎、吉川守国、荒川義英、渡辺政太郎等の間を往来し連絡を計らしめ2日夜大杉栄方に吉川守国、有吉三吉、荒川義英、村木源次郎、鮎沢貫一(長野県在住)辻ノエの八名会同しそれより打連れて日本橋区南伝馬町2の12料理店鴻ノ巣に入り(鮎沢は途中にて一同と別る)協議を重ね其の結果自動車に分乗して所在を晦韜し翌早朝(立太子礼当日)相州三崎方面に旅行せんと計画せしも自動車の雇入意の如くならさりし為果さす依って散会し帰宅の途中各自尾行巡査を瞞き所在を晦まさしことを申合せ夫々帰途に就きたり更に大杉は翌3日午後6時頃外出神田区佐柄木町の一料理亭に到り同所に待合せ居たる知己6,7名と会飲し打連れて外出間も無く一同と別れ折柄後方より疾走し来れる自動車に合図し之に飛乗り何処かへか行方を晦ましたるも間もなく情婦神近イチ(主義者)方に宿泊せるを発見せり斯く大杉を中心とせる一部主義者は種々の計画を為したるも其の目的を達するに至らすして止みたり     

1916年11月2日 <状勢>「労働青年」創刊、……久板卯之助、渡辺政太郎の両名は一部同志間に於て大杉栄の主催せし同志茶話会が同人の信望失墜と共に1916年6月18日の開会を限り自然消滅に帰したを遺憾とし再び会合を継続すべき希望を有するを観取し1916年12月15日両名主催の下に茶話会の名義を以て渡部方に同志の会合を催うせしが両名は「労働青年講演会」と称し爾来継続して毎月一回之を開催し(毎回出席者十数名)主義に関する談話を交え時に又堺、山川、高畠、荒畑等出席者中の重なる者に於て之が講演を為すことあり

1916 11月2日 大杉栄、同志と食事会<10.28の事項に記述>

1916 11月3日 大杉栄、知人と食事会<10.28の事項に記述>

1916 11月9日 神近、大杉へ傷害を負わす、日蔭茶屋事件、後に2年の実刑

1916 11月19日 <状勢>「曙会」残党の一派は田中佐市を首脳となし……相携えて大杉を見舞う1916 12月20日 大杉、野枝と谷中村を訪問

1916 12月14日 大杉、妹あきの葬儀に参列、名古屋

1916 12月14日・17日 名古屋、滞在中は同地在住主義者横田宗次郎を三度愛知新聞社に訪問し同人に語る「<雑誌発行に関して>……吾人は自由恋愛主義にして之を実行したりと云うも固有の無政府主義とは全く別問題なり…<生活費の補助>…<官憲の取締と尾行>」大杉は横田の運動方法を賞賛し今後は此の方面に就き一層の力を注ぐべき旨を誓い又横田は従来の在京同志は理想主義者多かりしと確信したるも大杉の談にて東京に於る労働運動の真相を了解し且つ大杉が主義的信念の濃厚らなると同運動に対する抱負とに一層崇拝の念を高めたるものの如し

1917 3月頃   大杉、堺、荒畑たちを訪問するが「体よく寓される」    

1917 4月18日 「調査書」によると、堺利彦の「選挙ピラ」を大杉が村木源次郎に指示し新聞折込にて配布させる

≪近藤憲二『一無政府主義者の回想』では村木が幸徳秋水の代議制批判の文書からビラを作成となっている≫            

1917 7月5日 大杉、伊藤 北豊島郡巣鴨村大字宮仲に移転

1917 7月 望月桂<へちま>を閉店、千駄木210 に移る、同志たちが頻繁に訪れ「溜まり場」となる

1917 8月1日 深町作次は上海在留の知人中山栄造外一名が共同して<上海経済時報>を発刊せるを以て之が発行する事務に従事する傍ら依然中華報との関係を持続し居れるも中華報は内部改革を為し邦人を排斥せんとする傾向ありて其の待遇従前の如くならすと云う

1917 9月 内縁の妻伊藤ノエ分娩後は倍々生活難に陥り毎月12円の家賃は勿論米炭代にすら差支え僅に林倭衛の名義にて買入を為し居るが如き窮境に在りて二三日前同志山川均を売文社に訪問して多少の援助を求むる所ありたるものの如く……本所深川方面に於ける細民部落に移住して実生活を為すの心組なりと称し居れり……目下在京主義者にして大杉の許に出入りせるは村木源次郎、林倭衛等にして他は殆ど顧るものなき状態にあり(1917年12月6日調)

1917 9月頃か 渡辺政太郎、番地は93になるが指ヶ谷町に戻る 『新社会』10月号に移転の消息。小松隆二『大正自由人物語』の記述は<後半>としている。

1917 9月25日 大杉は其の後に在りても村木源次郎(1917年9月30日より大杉方に同居し同12月11日他へ移転せり)、林倭衛等一、二同志の出入りするを見ることあるの外同志の接近するものなく依然伊藤「ノエ」が1917年9月25日女児分娩(ノエの私生児として「魔子」と命名せり)後は倍々生活難を訴えるに至りたり然るに其の後黒瀬春吉及江渡幸三郎より出費を受くることとなり予て計画しつつありし主義宣伝の機関雑誌『文明批評』の発行を企て………各地の同志及彼の『近代思想』を購読せし者に宛之を発送し引続き購読方を勧誘せり……<状勢一班第八>

1917 9月30日 村木源次郎、大杉方に同居

1917 11月 『労働青年』終刊

1917 12月 大杉・伊藤『文明批評』創刊

1917 12月11日 村木源次郎、他へ移転せり

1917 12月 和田久太郎、久板卯之助 日暮里で同居

1917 12月29日 大杉・伊藤、亀戸の労働者街に移る 南葛飾郡亀戸町2400

≪大杉栄「どん底」時代から「労働運動」の時代へ≫ 1918年→1919年

1918 1月16日 <活版印刷工組合信友会との関係>開催せられたる信友会第一回総会……和田久太郎は一般会員の如く装い入場して最後迄会合に列席せり

1918 1月21日 <状勢>(渡辺政太郎に関する記述)1916年12月15日以降、渡辺、久板は其の主催を以て毎月15日渡辺方に於てせる茶話会(主催者側に於ては「労働青年講演会」と称せり)を継続開催して(出席者は漸次増加し20名内外を算するに至れり)……而して渡辺、久板は又和田久太郎、添田平吉等と共に主催者となり新同志の為簡易なる主義研究を為すの目的を以て新に「実生活研究会」を開始することと為し1917年9月5日渡辺方に第一回を開催し爾来継続して毎月1日同処に之を開催し………参会者は初めは10名内外なりしが漸次増加し20名内外となり上記茶話会と共に成績良好なりと称せらるるに至りりしか1918年1月21日渡辺、久板、和田、添田等渡辺方に会合の上茶話会及実生活研究会とも一応之を解散することと為したるを以て実生活研究会は1月1日茶話会は同月15日の開会が最終となれり而して渡辺が右の解散理由として表面発表せる処は……従来渡辺が其の配下として比較的多く世話を為し居りし久板、和田の両名が渡辺の行動に満足せずして無断大杉栄の許に走りしを憤慨せる結果にも因るものの如し

1918 1月25日 大杉栄の原稿を村木が横浜の印刷所に依頼して印刷、『先覚者』と題したパンフレットの秘密出版を行う、僅少部数

1918 1月21日 大杉は……久板卯之助を1月21日より和田久太郎を1月23日より自宅に同居せしめた(堺は和田に対し2月4日退社を命じたり)

1918 2月8日 <状勢>大杉は横浜に赴き同志小池潔及吉田只次に面会し雑誌刊行上に関する協議等を為し翌9日帰京

1918 2月15日 夜上野桜木町有吉三吉方に於いて同人及び和田久太郎、久板卯之助等主催にて会合を催し出席者同志12名あり会合の目的は先年刃傷事件以来大杉に対し反感を有する同志をして感情を放抛せしめ将来協心活動すへく一致団結を為すの必要上其等の意見を聞き且従来堺利彦其の他の同志か開催し来りし単純なる講演会式の会合を改め新に実際問題を討議し有効なる運動方式を研究せんとする大杉の発意に基づけるものにして当夜大杉は同志の意向を確かむる為出席を遠慮し裏面に於て指図を為したるが協議事項の大要は左の如し

• 大杉栄に対する反感は此の際之を抛ち一致団結する事、若し未だ其の反感を抛ち得さる事情を有する者は参加を欲せす

• 会の色彩を明確にして純アナキストの会合と為す事

• 講演を副とし実際運動に関する研究及び腹心の同志みに依って実際運動の協議を為す事、但し講演を為す場合は大杉、山川、荒畑の三名中より選むこと

• 会合を毎月一日、十六日の両■と為す事(第二回は3月1日)

• 毎会合の都度■当運動資金を貯集する事

• 各友愛会(法学士鈴木文治主宰)員の私宅を訪問し参会方を勧誘する事

• 今後の運動に対する決心、各自堅実なる決心を以って従来に於ける惰気を打破するに努力する事

十(八と九が抜けているが調査書の原本記載通)時機を見て堺利彦■と立会い演説会を催し各派の色彩を明らかにすへき事

註 有吉は1914年5月に上野桜木町に移転、当初は百瀬晋が同宿<橋浦時雄日記>

名称に関して、「労働問題座談会」とアルス発売元の大杉全集に記載され、近藤憲二さんの後の回想でも同名を使用しているが、当時の調査書は「研究会」という呼称で標記している。橋浦時雄日記でも橋浦は「集り」としか記していない。検討事項。

<状勢>大杉は又同志の会合を催さんことを計画しつつありしが久板卯之助、和田久太郎、有吉三吉と共に主催者となり2月15日有吉方に於て第一回を開催せり……

1918 3月1日 上野桜木町有吉三吉方に於て和田久太郎、久板卯之助及有吉等の主催者となり同志の会合を催し午後11時頃散会せり出席者は21名にして当夜は「我々は如何に運動すべき乎」の題下に研究を為す筈なりしか各自任意の問題を捉えて座談することとなし大杉は左の談話を為せり

同志の会合例会に於て左記の談話を試みたり大杉栄の断片「今後<ストライキ>が起これば他の工場

1918 3月11日 大杉竝に久板卯之助、和田久太郎等の主催に関わる同志の会合は…3月16日に開催すべき例会を繰上げ…有吉三吉方に於て開催せり参会者28名にして席上和田久太郎は前日の顛末を述べ更に大杉は左の談話を為せり「一日の会合に僕は今後の運動は全くの実行運動でなくてはならない……それから日本堤に於て実行された訳なのだ、それで自分自身の考を実行したのだ他の三名に迄迷惑を及ぼした事は謝らねばならない訳だ、一日の会合に於て三名の者も僕の為に共鳴し同成したものと思う斯かる運動の最も大なるものは一揆である……又マラテスタ21歳の時伊太利で武装して二ヶ村を占領して登記所へ火を放った……僕は諸君に一揆的運動を直に起せと強要するのではない……又僕等の同志は何時如何なる場合も如何なる問題で引張られかも知れない又全く無関係の者でも引張られるか知れない……大逆事件に於ても全く無関係の者が殺られた事実は之を証明して居る、又僕は自分の経験から話して見る……入獄--死刑それ等を恐れる様な意気地なしで何か一つでも出来得ざる、僕はそういう覚悟決心の許に仕事をして行く人達が欲しい、斯様に云ったからと云って直に入獄し殺される様な仕事をしろと云うことはない、少くも左様な覚悟、決心の常に持って欲しいと云う……僕は常に強権に反抗する而旨して僕の此反逆心は日毎に熱を加えて来た云々

1918 3月15日 堺は上記の外又渡辺政太郎、久板卯之助の主催に係る茶話会(労働青年講演会とも称せり1918年1月15日開会後解散す)及上記2名が和田久太郎、添田平吉等と共に主催せる実生活研究会(1918年1月1日開会後解散せり)竝渡辺の主催に依り開始せる社会主義研究会(1918年3月15日第一回を開会したるのみ、其の後渡辺は死亡せり)等に高畠を派遣して主義に関する講演を為さしめ自己も亦時に出席して講演せることある等常に同志の行動を援助し………

1918 4月1日 有吉三吉方に於て同志研究会を開催せしも…

1918 4月7日 <状勢>小池潔は中村勇次郎と共に上京し同日大杉栄の主唱に依り開催したる露国革命記念会に出席

1918 4月16日 同志の研究会例会 14名

1918 4月26日上海出発同28日長崎に帰来同5月1日同地出発同月7日大阪に著し………同18日出発同22日再び長崎に著し翌23日……25日上海に復帰…長崎滞在中は同志呉塵と会合し主義伝道上に関し意見を交換して互いに奨励する処ありたり

1918 5月1日 社会主義研究会を開催せり 12名

1918 5月1日 欧米では恰も本日はメーデー……我国に於ても何か記念になる様な慣習を作って置きたいと思う……最近の露国の新聞に依れば露国では無政府主義の運動を為すには黒旗を持て居るとの事だが従来の赤旗よりりは黒旗の方は面白くもあり又芸術的でもあるから今後我々の運動には黒旗を印として用ゆる事にしたい云々

1918 5月   『労働者』創刊 和田久太郎、久板卯之助

1918 5月6日 <状勢>友愛会小松川支部の講演会に聴衆として和田を伴い出席「労働新聞」を配布

1918 5月15日 主義者研究会を開催<状勢>大杉栄、和田久太郎、有吉三吉等の主催に係る無政府主義研究会は出席者は毎回20名内外

1918 5月15日 <状勢>会合の席上大杉は「無政府主義と労働者」と題し「凡そ労働者は無政府主義に到達すべき運命を持し居れり労働者が自覚するに於ては必らず無政府主義にならねばならなぬ無政府主義に依らされば労働者の真の幸福は得られざるものなり云々」と述べたり、続きは<調査書>元来無政府主義は初め英国に於てゴッドウィンの主唱し次で佛のプルドン露国のバクニン……現在はクロポトキンに至りて主義理想として大成するに至れるものなり云々

1918 6月1日 <状勢>会合の際中村還一、山路信之助は大杉、和田の持来りたる労働新聞第三号を各自450部持帰りたりと云う

1918 6月15日 <状勢>近藤憲二等北風会を主催す。近藤憲二、村木源次郎、石井鉄二の3名は主催者となり無政府主義者渡辺政太郎の追悼を兼ね同人の生前開催し来りし「実生活研究会」復活の目的を以て同志の会合を催せり参会者は主義者13名未編入者数名なりしが同志和田久太郎、中村還一、荒畑勝三、村木源次郎、斎藤兼次郎等交々起て亡基渡辺政太郎が終始一貫主義の宣伝に努力し同志として光栄ある最後を遂げたる懐旧談を為したる後一同「露西亜革命の歌」を合唱し渡辺が生前開催し来りし「実生活研究」の復興に関し協議を為し左の如く協定せり

(イ)会の名称 「北風会」(北風は渡辺の雅号)と称すること

(ロ) 責任者 近藤憲二

……和田久太郎は出席者一同に労働新聞第三号及故渡辺政太郎の肖像絵葉書一葉を配布したり

1918 6月18日 和田久太郎と共に同志の主義研究会を開催せり

1918 7月1日 主義研究会 信友会会員8名の出席を見たり

<状勢>会合の席上大杉は露国革命に関する講演を為す…「自分は現在に於ては運動方法としては寧ろ伝道主義を先にするを得策とするも而かも当局の圧迫加わる程度に依ては暗殺主義を実行するやも知れず云々」と述べたり

1918 7月8日 大杉、伊藤、北豊島郡滝野川町大字田端に移転

1918 7月11日 大杉栄、林倭衛、避暑と活動資金確保のため福岡、今宿に向かう(伊藤野枝は6月30日より滞在)

1918 7月15日 <状勢>例会車隆三は雑誌青服第4号(8月1日発売、発禁)

1918 7月21日 <状勢>北風会の席上水沼辰は自由労働者の主義の宣伝を試むる希望なることを語り……

1918 8月1日  『労働新聞』4号で終刊、「発禁処分が続いた」新聞紙法違反で 久板5ヶ月、和田10ヶ月の禁錮刑

1918 8月1日 <状勢>例会、労働新聞、平民の鐘を配布

1918 8月4日 大杉栄、伊藤野枝は東京の久板卯之助より30円を電送される(以下の関西行動の記述も含めて『要視察人状勢一斑』における記述)

1918 8月6日 大杉、伊藤、今宿を離れ、門司に宿泊

1918 8月7日 大杉、伊藤、下関の「関門報知新聞社」を訪ね、旧知の記者、林京祐と会う。門司に引き返す

1918 8月8日 大杉は再び下関の林京祐に会う、二人で門司に行く。大杉と伊藤は汽船で神戸に向かう

1918 8月9日 大杉、伊藤は神戸に上陸、夜半に京阪電車で大阪に向かう

1918 8月10日 大杉は「大阪毎日新聞社」に和気律次郎を訪ねる、岩出金次郎、武田伝次郎、逸見直造を宿泊先の旅館に呼ぶ

1918 8月11日 伊藤野枝は帰京、大杉は岩出方に転宿、夜11時過ぎ岩出、武田と共に暴動の状況を見物

1918 8月11日 南区日本橋筋三丁目に到りしとき(翌12日午前2時過)大杉は一巡査に誰何せられたるを憤り同所に居合わせたる警部補に向って<自分に対し何者かと称するは不都合なりとて>挑発の議論を始め……大杉は南区難波河原二丁目に於ても<一団の暴徒が米商を襲うと脅迫して米を廉売せしめ居る状を見て連行の同志に対し窮乏者が所有する者の手より奪取するは当然のこととなり>抔の言語を漏せり

1918 8月12日 大杉は午後9時頃より岩出、逸見他1,2名の同志と共に暴動の状況を見物、西成郡今宮町、南区日本橋筋をまわる

1918 8月12日 大杉は<今暫く此の勢いを以て押し進めば必ず面白くなしものを>抔と語りたり

1918 8月13日 大杉は京都に向かう

1918 8月14日 大杉、大阪の岩出方に戻る

1918 8月15日 大杉は岩出、逸見、京都からの山鹿から旅費を提供され東京に向かう

1918 8月15日 山鹿泰治を引見して岩出と鼎座し談話せる模様あり次て逸見直造、相坂佶外1,2の者来訪会談せり其の際大杉は<自分は今回の暴動事件を目撃して社会状態は愈々吾人の理想に近づきつつあるを信ず而して今日の勢いを以て進めば茲幾年を経ずして意外の好結果を来す哉も計り難し政府も今度計りは少々目を醒ましたるならん貧者の叫び労働者の狂い団結の力民衆の声鳴呼愉快なり

自分の考えにては幾年と云う期間を待たずして此の儘革命を実行し得らるるやも知れず去れど現今の叫びは単に労働階級の人のみなるを以て何人か之が率先者として蹶起するにあらざれば折角の蜂起も水泡に帰するの処あり尤も今後如何程の犠牲を払うとも決して本運動を中止するは不可なり飽迄も運動を継続して猛信せば必ず何人か傑出することあるべし露国今日の状態は面白からずや日本も同様の結果を見る迄は吾人互いに相戒めて軽率なる行動を為さざる様心掛けざるべからず云々>

1918 8月16日 大杉、帰京、行政執行法第1条により21日まで検束

以下は<調査書>による記述

1918 8月16日 大杉栄は旅行中、米価問題に関し各地騒擾の際なりしが左の言動あり

(イ)福岡県糸島群今宿村滞在中往方の糸島新聞記者中村薫に対し自分は社会改善の為全力を傾注する考えなるが如何なる方法に依り改善するかは具体的腹案もなく又発表する限りにあらざるも中央の権力を今少し自治団体に移し現在よりも強大なる団体を作り以て人民の生活を容易ならしめたしと考う然るに本年春頃より政府は著しく吾等に圧迫を加え伝達機関たる印刷物の発行都度発売頒布を禁止せらるるを以て他の方法に依り伝達するの外に至れり政府吾等と思想を同うする者の団結を恐れ斯る圧迫を加えると雖も吾等と思想を同うする同志多数なるも以て圧迫も憂……云々と語れり

(ロ)8月10日逸見直造は大杉栄を訪問し時節柄労働相談所の如きものを設置し労働者就職口の引受又は工場法等の規定に依り当然受たべき権利の主張を彼等の知識能力足らざる為終に泣き寝入りになるが如き事項を該相談所に於て救済することとせば労働者の利益大ならむ云々と談りたるに大杉栄は<夫れは結構なる事にて若し左様の事が実現せば応接の為同志一人位下阪せしめても宜し云々>と答えたり

(ハ)8月11日岩出金次郎方に滞在中同人及来訪せる武田伝次郎等と対談中天理教は其の伝道方法は嫌忌すべき点あるも決して同教は不可なるものに非ず自分は曾て之を研究したる処社会主義に一致する点ありて甚面白きものなり云々と語り之等の者と共に同夜市内に於ける暴動の状況を見物……(以下状勢一班と同テキスト)

(ニ)8月12日……貧民部落を一巡せり

(ホ)8月15日……(以下状勢一班と同テキスト)

1918 8月21日 大杉は検束は解除

1918 8月21日以降 大杉は検束処分を受け21日解除せられし当時本人は同志に対し左記の如く語れり

<大阪に於ては米屋の襲撃焼打、警察軍隊と群集との衝突状況等を見物せりり群集中に混じって彼等の談話せる処を聞くに中には殆ど余等同志の所懐と同じきもの尠内なからず真に愉快を感じたりり兎に角今回の騒擾に徴すれば群集が集合せば必ず何事をか為し得ること疑なく斯る際には警察力は敢て恐るるに足らず然も軍隊の出動に依り軍隊に対して人民の反感を誘致したるは面白き事実なり斯く軍隊が出動せる状況を見るに将来斯る出来事の起りたる際には爆弾等の必要あるを覚えたり然れども米騒動よりも山口、福岡等に於ける炭坑夫の暴動は更に一層重大なる意味ある現象として同志の注意を要する処なりり云々>

1918 8月24日 記念茶話会と称して開催し席上同人は約15分間に亙り大阪に於ける騒擾目撃談を為し<騒擾を見て愉快に感じたり就中面白く思いたるは兵士と人民の衝突なり云々>と口外せり28名

1918 9月1日 主義研究会例会 22名 

1918 9月15日 主義研究会例会 大杉栄は病気の為欠席 13名
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by tosukina | 2011-09-28 03:03

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