大杉栄

大杉栄『自叙伝』土曜社発行 2011年9月16日其の十一

1922 9月30日 全国労働組合総連合会 午後8時30分解散を命ぜられ不穏の挙…検束

1922 10月1日 大杉栄、検束から放還せられたり

1922 10月1日 『労働運動』8号

<革命の研究5>大杉栄 

<編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十三日 栄」 

<独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 

<労農ロシヤの承認> 大杉栄 

<労農ロシアの労働組合破壊> 大杉栄

<消息>中浜哲君九月七日引致。浮浪罪で拘留20日に処せられた。9月18日錦町警察から出て来た。

1922 10月8日 大杉、伊藤、本郷区駒込片町15 労働運動社に移転

1922 10月17日 「……風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、……きのう、江口の家の家主の婆さんが来て、家賃を払ってくれないから何とか話してくれと言って、いつまでもくどくどやる上にオイオイ泣き出すんで閉口した。……今、和田久が警察へ呼ばれて行っての話に、野枝さんが途中で引返したということだが、どうしたんだろうと言っていたそうだ。まいたのか。……」

1922 10月18日 菊池与志夫宛「……なおバクーニンについては、僕は今単行本を書く準備中なんですが、たぶん来年正月号の『改造』には<マルクスとバクーニン>という題で、その一部分の発表ができようかと思っています。おひまな時に、お遊びにおいでなさい。僕は今駒込片町15の労働運動社にいます。吉祥寺前停留所から少し先の、駒込警察の筋向いです。」

1922 10月21日 「……一昨日ちょっと服部へよったら……こっちはまたその前夜一晩徹夜して<自叙伝>を30枚ばかり書いたので、風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ。それで一休みしようと思って、きのうは上天気を幸いに、大ぶ疲れているような源兄を連れて、魔子と一緒に鵠沼へ行った。<自叙伝>は一日遅れて11月号には載らない。もう少し書き足して、12月号に載せることにして、その前借りをした。……静ちゃんの方は本月一ぱいでおいとまだ。御安心を……」

1922 10月24日 伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって<革命の研究>と<ボルの暴政>を書いたんで、きょうはうんざりしてしまった。そして、朝馬鹿にいいお天気なもんだから、飯を食うとすぐみんなを誘って植物園へ行った。……」

1922 10月24日 伊藤野枝宛「今、手紙を出したばかりのところへ、……きのう源兄に叢文閣から出す論集(『無政府主義者の見たロシア革命』のきり抜きをやらした。また正月号の分まで入れるのだから、もっと大きくなるには違いないが、今のところでもちょっと三百枚ほどありそうだ。……)」

1922 10月27日 伊藤野枝宛「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……久公といえば、おとといの晩ある会合で、怪しからんうわさを聞いた。それは、僕が静ちゃんとくっつき、とまではいいが、久公が伊藤野枝とくっついたというんだ。そして大森辺(山川均の一派)ではそれを大喜びでいるということだ。どうだ、覚えがあるか。そんな風ないろんな中傷や何かを寄せ集めてこんど<ボルシェヴイキ四十八手裏表>というのを雑誌の下八段をぶっ通して書いた。……」

1922 10月31日 伊藤野枝宛「おとといは宇都宮から自動車で五里あまりの真岡まで行った。20人ばかりあつまったが、ろくな奴一人いないのでがっかりしてしまった。きのう帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ。アルスからも叢書(アルス科学知識叢書)や『種の起源』を本年中に出したいと急いで来る。大英断をやって、この二週間ばかりの間に大仕事をしようと思ってきょうここ(鵠沼海岸の東屋)へやって来た。仕事の予定は、<自叙伝>12月号の後半と1月号。<論文>12月号(11月号には総連合についての、友愛会やボルのコンタンを書いたが、こんどはその理論の方をやる)<論文>1月号(マルクスとバクーニンの喧嘩)<無政府主義者の見たロシア革命>(まとめるのと翻訳のまだ済んでいないのとをやりあげる)<種の起源><科学知識叢書(二冊)半分やって印刷所へ廻す。……30日……きょうは一日外出して、今はこの手紙書き、朝飯がすんだら鎌倉行き、午後には勇夫婦が来るはずだ。>」

1922 11月1日 安成二郎宛「けさの『読売』の僕に話しかけた<社会文学とは何か>を読んだ。結構だ。まずまず賛成だ。……うんと仕事を持って今ここに来ている。10日頃まではいるつもりだ。一度遊びに来ないか」 

1922 11月1日 『労働運動』9号 印刷人近藤、労運社住所

<革命の研究6>大杉栄 

<編集室から>大杉栄「逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、編集室になっていたんだが、こんどは編集室を下へ移して、六畳の方は近藤の室となった 下は、八畳は編集兼事務室となってそこへ村木と中名生とが机を並べている。六畳は玄関兼食堂だ。そして台所の奥の三畳は、物置兼村木ご隠居のひる寝部屋だ」

<組合帝国主義> 大杉栄 

<ボルシエヴイキの暴政(三)> エマ 大杉栄訳 

<労農ロシアの新労働運動> 大杉栄 

<消息>軍隊宣伝事件、十月責付出獄  

<名古屋の野分> 中浜鐵

1922 11月3日 伊藤野枝宛「……夕方、改造社から原稿取りの使いが来たが、それを待たしておいて今書いている最中だ。……<自叙伝>の方はさっきいい加減にすまして、今論文を書きかけているところだ。今晩はどうしても徹夜だろう。あしたは朝の間寝て、その間に魔子も迎いにやって、ちょっと東京へ帰る。いろいろ用もあるし、……」

1922 11月5日 伊藤野枝宛「……『改造』の原稿は思ったより大ぶ枚数が減ったので、前借を引かれて70円ばかりしか貰えなかった。『労運』と『改造』と送った。『改造』の12月号は14,5日頃に出るそうだから、こんどはすぐ送る。……あしたからまた一週間ばかり鵠沼だ」

1922 11月8日 伊藤野枝宛「きのうは青年会館で、大島製鋼所の連中の、官憲横暴弾劾演説会というのがあるはずだった。それには出ないつもりで、おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。……一晩は検束のつもりで行った。が、服部へ行って見ると、そんな演説会の様子はちっとも知らず、またその日の朝刊にも夕刊にも暁民会連の検束のことの外には何も書いてなかった。大島へ電話をかけるとオジャンになってしまったのだそうだ。…………きのうの半日ときょうの半日とで、<自叙伝>の今まで書いた分を直してしまった。書くときにはずいぶん一生懸命になって書いたんだが、今見るとあちこちいやになって仕方がない。が、直すのも大変だし、大がいはそのままにしておいた。すぐ改造社へ送って、組みはじめさせる。………」

1922 11月10日 伊藤野枝宛「……きょうは一日あなたの原稿の直しをやった。ずいぶん少ししきゃ、やっていないんだね。普通のお話のところはまあいいが、少し込み入って来るとまるで駄目だね。<ボルの暴政>もやはりそうだったが。こんなことじゃ理屈物はとても読めないよ。少しみっしり勉強してくれ。ダーウィンはやり始めているかい。『無政府主義者の見たロシア革命』の原稿の整理も済んだ。きのう叢文閣へ電話したら、先生はまだ寝ているそうだが、大喜びでいた。『昆虫記』も大へん景気がいいそうだ。再版の用意に誤植の直しをしておいてくれと言っていた。……」

1922 11月11日 伊藤野枝宛「……また病気か。そんなに弱くなっちゃ本当に困るね。お客様の来ないせいも大ぶあるのだろうが。………」

1922 11月14日 伊藤野枝宛「少々疲れて、一昨日と昨日とは寝てくらした。といっても、ただ時々横になるだけで、いろんな奴に邪魔されて閉口した。きょうは仕事を始めようと思って、朝、机に向かうと『日日』の宮崎が来る。続いて三、四人やって来て、とうとう今まで何もできない。………けさ宮崎が来る前に博多のおじさん(代準介)がひょっこ来た。そして魔子を連れて動物園へ行った。……根岸が一昨日死んだ。村木はそのあと片付けにきのう横浜へ行った。……」

1922 11月16日 伊藤野枝宛「……して叢文閣の『ロシア革命』のまだ足りない部分をきょうやっと書き上げた。……菊半栽で、三百頁をほんの少しこすだろうが、紙表紙で一円五十銭ぐらいにする予定だ。あしたからは『自叙伝』の書き足しだ。全体で七百枚くらいになるだろうが、もう三百枚ばか書かなければならない。が、その半分は『獄中記』や<死灰の中から>の書き抜きだ。12月号の『改造』には、また例の礼ちゃんとのあまいところをうんと書いたから、お千代さんのようにどうぞ怒らずに読んでおくれ。……村木がゆうべ帰って来て、これでようやく昼は一人ぼっちを免れるようになった。ひると晩と自分で飯の支度をするのと、折々いろんな奴が玄関や台所でドナルのとで閉口した。……」

1922 11月17日 「……久公の奴、僕等には何にも白状しないんだから、その手紙を送ってくれ」

1922 11月20日 大杉栄にフランスの同志コロメルから手紙        

1922 11月21日 有島武郎に金策の電話 D

1922 11月22日 大杉栄、九州に行っている伊藤野枝を呼びよせに村木を使いにやる、前後して関西支局の和田も上京        

1922 12月11日 大杉栄、自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる D「そして僕がこんどこの上海に寄ったのは、ベルリンの大会で国際無政府主義者同盟が組織されるのと同時に、僕等にとってはそれよりももっと必要な国際無政府主義者の組織を諮ろうと思ったからでもあった。」

1922 12月12日 朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す

1922 12月14日 イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

1922 12月 上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く D
1923 1月1日 『労働運動』10号 

<理想主義的現実主義> 大杉栄 

<根岸正吉君の死> 

<ボルシエイキの暴政> エマ 大杉栄訳 

<立ン坊の叫> 浜鐵 

<労働反対運動の現在及将来> 大杉栄 

<新鋭の朝鮮労働運動> 

<再生した共済会> 京城無名漢 

<黒友会の成立 日本における鮮人労働運動> 黒友会 申煖波

1923 1月5日 大杉栄、ル・ボン号で上海を出る

1923 伊藤野枝宛「今晩コロンボに着く。着いたらそこから出すつもりりでこの手紙を書く……『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……『自叙伝』は手もつくてない。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」

1923 伊藤野枝宛「コロンボを出てから七日目、あしたはようやくジプチに着く。……もう10日でマルセイユだ。……」

1923 2月6日 伊藤野枝宛「ジプチには夜朝早く出帆したので何も見ることができなかった。……きょうはこの紅海が大ぶ狭くなって、アフリカとアラビアの両方の山が見える。あすの朝はスエズだ。……」

1923 2月7日 伊藤野枝宛「朝起きて見たら、とうにスエズに着いて船はとまっている。……」

1923 2月10日 『労働運動』11号 

<マルクスとバクニン> 大杉栄 

<ボルシエイキの暴政五> 大杉栄 

<行衛不明> 野枝 

<消息>後藤謙太郎君 尾行を短刀で脅か死、二十五日の拘留

1923 2月11日 伊藤野枝宛「……けさは起きるとすぐ、イタリアとシシリー島の間の狭い海峡を通った。いよいよヨーロッパにはいったのだ。……」

1923 2月13日 大杉栄、マルセイユに着く。リヨンに行く中国の同志数名と会う。カルト・ディダンティテをもらうのに、一週間かかるという

1923 2月13日 パリに着くモンマルトルの真ん中に宿をとった。

1923 2月16日 伊藤野枝宛「13日の朝早くマルセイユに着いた。……会は注文通り4月1日に延びた。」

1923 2月 林倭衛宛「僕もやって来た。……僕の来たことは絶対秘密。」

1923 3月1日 伊藤野枝宛「3月1日正午、と言っても、東京では午後10時25分だ。パリにて。ここに来てもう10日近くなる。停車場からすぐリベルテール社へ行って、前に手紙をよこしたコロメルという男に会った。フランスでは老人連は戦後みなひっこんでしまって、今ではこの男が一番の働き手だ。まだ三十そこそこだろう。……ちょうど静ちゃんみたいな若い女が一人いて、それの案内ですぐ近くのホテルに泊まった。……翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。……その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも10人ばかりいたが、ここにも20人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。しかしもうほぼまとまった。そしてベルリン大会のあとで、この支那人連の大会をやることにまでこぎつけた。……大石は……今は一人でいる。…一昨日会ったんだが……船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。………本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。……」

1923 3月上旬 林と合流一週間程してリヨンから知らせが来た。リヨンに帰った。一週間待った。 四日待った。「こうしてほとんど毎日のように警察本部に日参しながら、不安と不愉快との一ヶ月半ばかりを暮らした。」「一週間ばかり断食して寝て暮らした」「もうメエ・デエ近くになった」

1923 3月10日 『労働運動』12号 

<マルクスとバクニン下> 大杉栄 

<坑夫の歌> 後藤謙太郎

1923 3月21日 林倭衛宛「……マルセイユはいやなそころだ。……20日午後8時。今リヨンに着いた。またあの色っぽい女のところにでも当分いよう。21日朝。」

1923 3月26日 林倭衛宛「……ドリイ、僕のダンスーズだ、にも、たいくつまぎれに(と言い訳しないとやはり気が済まない)ふざけた手紙を出しておいた。僕は本月一ぱいここにいる。そしてもしヴィザが貰えなければテクで行く。それまでにはこっちへ来られまいな。……26日。……」

1923 3月28日 林倭衛宛「……ヴィザの方 は、きょうのパリリからの手紙によると、警察の証明がありさえすれば、貰えそうな形勢だ。…うまく行って出発は来月の10日頃だろう。……風も腹もほとんどよくなって、きょうは起き上がった。が、まだフラフラする」

1923 3月28日 伊藤野枝宛「すぐドイツへ行くつもりで2日にここへ来たのだが、それ以来風引きで寝たきりでいる。もっともパリリを出る晩から少しいけなかったのだけれど。……僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。……社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。純然たるアナキスト運動というそのことにはまだ僕は疑いを持っているのだ。これはヨーロッパで今問題の焦点になっている。そのことは通信で書いて行く。風で寝た二日目か三日目かに『労運』への第一回通信を書き出した。そして30枚近く書いてて熱でほとんど倒れるようにして寝てしまった。あしたからまたそのあとを書きつづけよう。要するに大会を理解するために、大会前のいろんな形勢を書こうと思うんだが、それだけでも大ぶ長くなりそうだ。『改造』への通信もまだ未定のまま放ってある。これもこんどこそは本当に書き上げる。原稿は××に宛てよう。大会はまた日延べになって、ところもどこかほかに変ることになった。ドイツではとてもやれそうにないのだ。しかし、とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。本月中にはその手続きができそうだったのが、もう10日くらい延びそうだ。もしできなければそっと国境を歩いて、越そうと思っている。それもイタリアとイギリスへ行けば僕の用事は大がい済みそうだ。大会が延びるなら延びるで、その前にできるだけあちこち廻って来たい。愚図愚図して大して研究するというほどのこともなさそうだ。材料だけ集めればたくさんだ。1年の予定はたぶんもっとよほど縮まるだろう。……もう目がまいそうだ。2月号の『労運』見た。3月28日」

1923 近藤憲二宛「いろんな奴に会ってみたが、理論家としては偉い奴は一人もいないね。その方がかえっていいのかも知れないが。が、戦争中すっかり駄目になった運動が、今ようやく復活しかけているところで、その点はなかなか面白い。そして若いしっかりした闘士が労働者の中からどしどし出て来るようだ。………イタリアはファシストの黒シャツのために無政府党も共産党もすっかり姿をかくしてしまった。ドイツはよほど、というよりはむしろ、今ヨーロッパで一番面白そうだ。そこでは無政府党と一番勢力のある労働組合とが、ほとんど一体のようになっている。そしてロシアから追い出された無政府主義の連中が大勢かたまっている。ちっとも通信しないんで編集の方に困ったろうが、こんどは書く。もう大ぶ書けそうになって来た。……」

1923 3月29日 林倭衛宛「…学校から君の二通の手紙をとどけてくれた。……パリからの返事を待っているうちに、それもまだ来ないんだがね、思いがけなくウチから金を送って来た。……それで、それが受取れたら、僕はすぐまたパリへ行くかも知れない。そして都合ではベルギーからオランダへ出て、さらにドイツにはいることになるかも知れない。そうなれば、それからオーストリア、スイス、イタリアと大旅行をして来る予定だ。……」

1923 3月31日 伊藤野枝宛「……風も腹ももうすっかり治った。……原稿もきょうようやくあとを書き続けたところだ。……あとは、ドイツへ行くヴィザの問題だが、これは大ぶ難問題らしい。……警察の方の話がついたらまたパリ行きだ。それからあとはどこへどうふっ飛ぶことやら。……きょうはもう原稿もよしだ。これからリヨンの町へでも遊びに行こう。ここは郊外だ。……3月31日」

1923 3月31日 林倭衛宛「K(小松清・建設者同盟、ジイド、マルローの訳がある)の方ね金が来たんでは、お互いに思いがけないところで助かるね。僕の方もきょうようやく金が受取れた。今晩は一つ、久しぶりでウンとうまい御馳走でも食おうと思う。僕はパリへ送ったパスを送り返すように言ってやったんだが、それがまだ着かないので、そして明日は日曜、明後日は祭日と来ているので、早くとも三日にならないとそれが受取れそうもない。それが来るとこんどはそれを持って、こっちの警察へヴィザを貰いに行くんだ。そしてもしドイツ行きがうるさければ、ベルギー行きにする。……まだ、ここを立つのは四、五日後になりそうだ。約束なんか破ってそれまでに来いよ。31日。」

1923 4月1日 『労働運動』13号 

<流れの外に流る> 浜鐵

1923 4月2日 林倭衛宛「……僕は日曜のいい天気に田舎へ行ってうんと遊んだので、しばらく寝ていて変になったからだがすっか回復した。きょうもまたうんとやれそうだ。バルビュスの肖像がうまく行くといいがね。僕もバルビュス(共産党)とアナトール・フランス(共産党から除名された)とロマン・ローラン(まず無政府主義)との三人に会って、三人の比較評論を書いて見たいと思っているんだが、それには三人の本を大ぶよまなければならんのでまだいつのことになるか分からない。パリからまだパスが来ない。……火曜二日」

1923 4月5日 「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿

1923 4月17日 林倭衛宛「きのう高等課へ行くと、金曜日に警視庁へ廻してあるから、今からすぐ向うへ行くといい、たぶんもうできているだろうから、と言う。喜んで行って見ると、まだだ。……きのうはその帰りにゴリキーのEngagnant mon Painという自叙伝小説を買って来て、きょうまでそれを読み耽っている。パリはどうだ。……僕の手紙は二重封にして、そとはJにあてて学校へ送ってくれ。もう十七日だ、いやになっちまうよ。

1923 4月19日 林倭衛宛「……きのうの午後また警視庁へ行った。……ア・ラスメエン・プロシエン(来月に)になるのかもしれない。……事によると、パリでも君のことを調べているかも知れない。こんなにして一々調べて行って、それがいっさい済んでからヴィザをくれるとなると、オ・モ・プロシエンがこんどはまたア・ランネ・プロシエン(来年)になるだろう。くさくさすることおびただしい。十九日」

1923 4月28日夜、僕はリヨンの同志のただ一人にだけ暇乞意してひそかにまたパリにはいった。               

1923 4月29日 大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う   

1923 5月1日 『労働運動』14号 

<メーデーの正体> 浜鐵

1923 5月1日 サン・ドニのメエ・デエ 大杉、巴里のメーデーで演説                

1923 5月3日大杉栄、ラ・サンテ監獄に送られる        

1923 5月24日 大杉栄、裁判所の留置場へ行った。警視庁へ回る。内務大臣の即刻追放の命を受けた。4時頃、一等書記官の杉村なんとか太郎君だ。マルセイユへ出発しろと命ぜられる。

一週間めに出る箱根丸で帰る都合をつけてくれた。              

1923 5月25日 林倭衛宛「きのうの朝放免と同時に警視庁へ連れて行かれて、すぐ国境まで出ろという命令を受けた。……最初はスペインの国境以外には行けないということだったが、最後にマルセイユまでときまって、8時のラピッドにガール・ド・リヨンまで送られて来た……はなはだ相済まないが、友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。……ヨンにある荷物も取って来て欲しい。外にもいろいろ頼みたいことがある。……リヨンへ寄ったらEliisee ReclusのL'H0mme et la terre(ルクリュ『地人論』)というのの古本を買って来てくれ。二百フランばかりだ。……それから裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。……僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。……二十五日正午。栄 倭衛兄 僕の拘引のために、いろいろ迷惑をかけた人達によろしくおわびを願う、ことに警視庁まで連れて行かれた人達に……」

1923 6月3日 大杉の船、「朝早く、碇をあげた」       

1923 6月7日宛 林倭衛宛「……地中海は実に平穏だ。……あしたの朝は早くポートサイドに着く。……また、お願いがあるが至急日本に向けて、いつかもお願いしたことのあるファーブルの本を送ってくれないか。リヨンで買ったはずなんだが、荷物を調べて見当たらない。帰るとすぐ翻訳しなければならないものなんだ。『自叙伝』の装ていを忘れるなよ」

1923 6月19日 林倭衛宛「……マルセイユを出るとすぐ買った白葡萄酒の一瓶が、まだ半分と少ししか減らない。ポートサイドで買いこんだ煙草もこの四、五日はちっとも減らない。……」

1923 6月26日 高尾平兵衛、右翼に射殺さる         

1923 7月1日 『労働運動』15号 

<編集室から> 近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」

<国際無政府主義大会の延期 捕われる以前> 在仏 大杉栄「ここに来て、もう10日ちかくなる。3月1日パリにて、大会は又日延べになって……2月号『労運』見た。3月28日フランス発」 

<貸家札> 浜鐵

1923 7月11日 箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿

1923 7月11日 「神戸港港外和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」I            
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by tosukina | 2011-09-27 22:20

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