大杉栄

布施辰治弁護士

報告
布施シンポと李文昌
斃れしアナキストたちと布施辰治
         
                




二〇〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学・明治大学法学部主催で開かれた。
 記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。
 布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし(一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された)、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査・抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。
弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。
第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。
第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。(アナキズム運動人名事典編集委員にソウルから加わっていた)
李会長には昨年秋、ソウルにて開催された初期社会主義研究会の大会関連企画として市内見学があり友堂記念館の案内と設立の経緯の解説をお願いした。その際、山泉さんへソウルで開催された「布施国際学術大会(二〇〇一年)」に関わったことを紹介した。その縁で今シンポジウムへの招請につながった。
発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」(為さずして始める)を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。

翌日、私の案内で李会長を金子文子の故郷である山梨の牧丘町へと誘う。事典編集委員であった山口守さん(一九九〇年代にソウルで東アジアにおけるアナキズムをめぐるシンポジウムを企画、李文昌さんと交友が始まった)、李京錫(イ・キョンソク)さん(東アジアにおける近代政治史を研究、亜州和親会に朝鮮からの参加者が存在したという論文を発表)が同行した。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さん、牧丘町住民、教育委員会、山梨文芸協会、県生涯学習センター職員らこの間、金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。
牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会(市、市教委、布施辰治顕彰会主催)が開かれ李文昌さんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。
 講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋(こつなぎ)入会権訴訟を語った。
 李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。
 

布施辰治のアナキストへの弁護

布施がアナキストたちと関わった始めは布施柑冶『ある弁護士の生涯』によると一九一九年の大杉栄への新聞紙法違反への弁護ということである。(同書において著者は父親である布施辰治をF氏と客観的に表現している)
「大正八年(一九一九年)、九年F氏は大杉栄(新聞紙法違反容疑、つづいて尾行警官追っ払い事件)、高尾平兵衛(クロポトキン『法律と強権』秘密出版事件)、近藤憲二などのアナーキストの弁護をとくに記憶に残した。大杉が検事の公訴事実陳述、論告などに被告が敬意を表する理由はないと主張し、その前例を開いたとき、F氏は法律家として強く支持した」五四頁。
 布施は大杉の弁護人となる一三年前に「電車賃値上反対騒擾事件」で山口孤剣の弁護を引き受けている。大杉も同事件の被告であり面識ができたのはこの時であろう。
 森長英三郎の著書『山崎今朝弥』では「大正八年までは、実践的な社会主義弁護士としては山崎今朝弥一人だけであった。……大正九年に布施辰治が自己革命を宣言して、人道主義的弁護士から社会主義的弁護士に転じ、山崎と共に社会主義者や労働組合、農民組合の事件を弁護するようになり、布施、山崎とならび称せられるようになった。……」(一三三頁)と記述されている。
 布施は一九二〇年代、自由法曹団の中心弁護士として活躍。労働争議、朝鮮人、台湾人への弁護、借家人同盟の創設と驚異的な活動を展開、アナキストたちに対しては公判の弁護だけではなく、獄死(病死、自死、刑死)したケースで遺体を監獄当局から「奪還」、死因の検証、布施の自宅での通夜の世話と最大限に斃れしアナキストたちへの追悼と支援をなした。
しかし『ある弁護士の生涯』では金子文子・朴烈と福田狙撃・ギロチン社事件に関しては個別に記述があるがそれも具体的ではなく、他の関わりもほとんど書かれていない。そこで各文献から布施に関わる事項を年代順に整理した。

斃れしアナキストたちへの弁護
一九一九年一月二〇日 大杉栄、新聞紙法違反、『民衆の芸術』への執筆(一九一八年九月二三日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして…官憲資料)東京区裁判所に於いて罰金百円の判決

一九一九年三月一七日 東京地方裁判所、無罪判決(官憲資料)『ある弁護士の生涯』では大杉の新聞紙法違反としか回想していないが大杉のこの時期の該当する裁判はこれだけである。しかし山崎今朝弥の『地震・憲兵・火事・巡査』には『民衆の芸術』編輯・発行人の大石七分への判決を資料として「馬・鹿判決」として掲載。
布施の大杉への弁護活動は山崎のテキストでは記述はない。

一九一九年七月二三日 大杉栄は尾行巡査殴打事件(五月二五日)午後五時拘引状を執行される。(官憲資料)布施は山崎今朝弥と共に弁護人

一九一九年八月四日 東京区裁第四号法廷に於て尾立判事の係りにて開廷

一九一九年九月一一日 東京地裁 懲役三ヶ月に処す 言渡し 上告 

一九一九年九月二七日 東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷

一九一九年一〇月二日 第二回公判弁護士花井卓蔵、山崎今朝弥、布施辰治ら出廷 被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…      

一九二〇年六月 高尾平兵衛、出版法違反、クロポトキン『法律と強権』謄写版刷り無届出版                       

一九二一年四月九日 近藤憲二、東京地裁、草野裁判長(第一審東京区裁、ビラまきで拘留二十日の刑で控訴)。近藤の回想によると当初は巡査への傷害事件でフレームアップされかかったが官憲は失敗し、ビラ撒きが弾圧の対象とされた。               

一九二三年四月 朴烈は、東亜日報張徳秀への殴込みで神田署に検挙、市谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘、布施が支援、弁護。金子文子はこの件で布施と初めて会う。「破れ障子から」『現社会』に布施の支援を記す。                  

一九二三年六月二六日 高尾平兵衛が右翼に射殺される。吉田一、石黒鋭一郎、平岩巌らの家宅侵入、傷害事件を弁護、裁判は関東大震災後                

一九二三年七月八日 高尾平兵衛の社会葬、葬儀委員長       

一九二三年九月一日 夜、市谷刑務所の収監者を見舞う。吉田一らと話す        

一九二三年九月二日 朴烈、四谷の布施事務所に寄る        

一九二三年九月三日 金子文子・朴烈、保護検束           

一九二三年九月一九日 朝、大杉らの行方不明につき村木源次郎と共に警視庁総監湯浅倉平を問い詰める『ある弁護士の生涯』        

一九二三年一〇月 金子文子・朴烈 治安警察法違反で予審調べが続く。布施が弁護                           

一九二五年一月二三日 村木源次郎の獄中危篤に立会う市谷刑務所 

一九二五年一月二五日 後藤謙太郎の死因追及で午後三時、巣鴨刑務所、佐藤典獄を問詰める                       

一九二五年一月二六日 午後一時半 雑司ヶ谷墓地で後藤の遺体発掘、布施が立会う(二七日という報道もある)後に江口渙が小説『彼と彼の内臓』に布施をモデルとした人物登場                

一九二五年 五月二一日 福田大将狙撃事件第一回公判、和田久太郎、古田大次郎らの弁護人となる。「裁判所に行く前(午前六時頃)に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった…一日で全部の(東京に於ける全部)の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」古田手記

一九二五年六月一六日 「今日は小阪事件の調べだが……張合いない(出廷前記)一一時開廷、先づ僕に対する小阪事件の事実調べを終わり、次に倉地君の事実調べの後休憩、午後再開、弁護士諸君の証人申請、……検事は全部必要なしとして却下し、裁判長は合議の上、只中村高一弁護士のみを証人として許した、次回は二七日。午後四時閉廷。」古田手記

一九二五年六月二七日 「一一時開廷、…僕に対する大阪小阪事件の証拠品調べが済んで、愈々検事の論告に移った」「午後再開、和田君の最後の陳述後、……布施氏縦横に弁を振るう事約一時間半、和田君に対する弁護を終えて、夕刻一時休憩、更に続行の筈だったが、裁判所の都合で中止となった、時に午後七時…」古田手記

一九二五年九月一〇日 判決『死刑の宣告を聞きにゆく日』 古田手記      

一九二五年一〇月一五日 古田刑死、布施は遺体を引取り通夜を催す              
                        一九二五年一一月一四日 金子文子・朴烈、布施弁護士を選任

一九二六年始めか、大阪の中浜哲控訴審を弁護                
一九二六年二月二六日 金子文子・朴烈第一回大審院公判

一九二六年三月二五日 大審院判決                    

一九二六年四月一五日 中浜哲刑死                    

一九二六年四月一六日 夜半、布施は中浜の遺体引取りに大阪に赴く 新聞報道

一九二六年六月 古田大次郎の獄中記『死の懺悔』刊行、布施は『原始』八月号に「古田君を偲ぶ」掲載

一九二六年七月三〇日 金子文子死去の報で布施は金子の母親、同志、医師らと宇都宮刑務所栃木支所に向かう、宇都宮刑務所所長に遺体発掘を要求、馬島医師と共に検分
                             一九二六年七月三一日 金子文子の遺体を荼毘に付し、夜雑司ヶ谷の布施宅にて遺骨安置                                 

一九二六年八月一日 朝鮮のアナキスト同志二名が追悼のため遺骨を移動、栗原一男、椋本運雄、金正根らが検束される
                     一九二六年八月一五日 三人は朝鮮テグにおける治安維持法違反にデッチ上げられ朝鮮に送られる、後に真友連盟事件で裁判になり布施も弁護に関わる、デッチ上げ予審起訴の解説を翌年『労働運動』誌に掲載

一九二六年八月一六日 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く。(『ある弁護士の生涯』では布施が金子文子の遺骨埋葬全般に関わったと受け取られる記述があり、しばしば引用される。実際には朴烈の実兄が遺骨への対応と埋葬。                      

一九二六年八月三〇日 「…朴廷植は語る『文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だという……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』」『京城日報』

一九二六年一〇月、栗原、椋本、金正根らが大邱地方予審に廻される
                        
一九二七年三月八日、栗原らの予審が終結…免訴は覆り公判に付される。                     

一九二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。

一九二七年六月二五日 判決公判で栗原は懲役三年、即日下獄となり後に京城西大門刑務所へ移監させられる。
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by tosukina | 2005-04-19 02:37

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