大杉栄

日清戦争の名に隠される朝鮮農民「兵」虐殺

甲午農民戦争、シベリア出兵
『異端の民衆反乱 東学の甲午農民戦争』313頁 「農民軍の犠牲者は膨大に数にのぼっていることを確認しておかなければならない。東学側の記録では『天道教創建史』が「殺された者」二〇万人、『東学史』が「被害者」三、四〇万人と推定している。各戦闘での犠牲者の数から考えて、この数字は誇張されているもののように思われるが、実はそれほど誇張したものだとは言えない。というのは、連合軍は戦闘以外の局面でも東学徒を捜し出して殺害しているからである。
 以下要旨
農民軍「討伐」において日本軍と朝鮮軍は共同作戦を採ることになっていたが、その指揮権は日本側にあった
 果たしてどれだけの東学徒が殺害されたかは、当時の「討伐」側もその全貌を把握できないほどの規模であったというしかなく、もはや正確に知ることはできない。しかし以上の少ない材料からごく粗い概算なら可能である。......
全体の犠牲者は三万人を優に超えていたのは確実であり、医療の未熟さからかなり多かったと想定される負傷後死を加えれば五万人に迫る勢いであったと推定される。「殺された者」だけで二〇万人という『天道教創建史』の数字はともかく「被害者」三、四〇万人とという『東学史』の数字は当然に負傷者が死亡者をはるかに上回ることから考えて、決して根拠のないものではないと思われる。

チョ・キョンダル
趙景達
98年、岩波書店

『シベリア出兵──革命と干渉 1917年─1922年』原暉之 はらてるゆき
1989年 筑摩書房 
日本軍が始めて直面した本格的な人民戦争であった。不敗を誇った天皇の軍隊がはじめて経験する無残な敗戦であった。
1918年から1920年戦闘死 1538人 病死591人
1921年陸軍省統計
1922年撤兵
1925年北サハリンからの撤兵完了山辺健太郎『日韓併合小史』1966年2月岩波新書
1875年5月25日 軍艦「雲揚」は釜山に予告なく入港
1875年5月26日 日本との交渉の任の訓導、玄昔運は軍艦入港を森山茂に詰問
観覧希望を認めるが随員も含めて18名が乗艦すると発砲演習をはじめた、砲声に驚いた一行は演習停止を求めた

徳富猪一郎『公爵山県有朋伝』中巻11章「公と江華湾事変」
「明治8年朝鮮近海に於ける軍艦「雲揚」井上海軍少佐の海軍演習は川村と黙契の下に計画された示威運動であった」「是より先に8年9月「雲揚」艦長井上少佐は韓国西海岸より清国牛荘に至るまでの海路を研究する名義の下に暗に韓国に対する示威運動に従ふべき旨、海軍省よりの内訓に接した」

1875年9月19日 軍艦「雲揚」が江華島沖にくる
「飲料水を探すためボートで江華湾にはいったところ砲台から砲撃を受けたので引返す」軍艦「雲揚」は応戦、砲台を破壊、永宗島を占領、民家を焼き払い戦利品として砲38門をとり9月28日に長崎に帰る 
江華砲台の射程はみじかく軍艦「雲揚」まで届かない
日本側に損害はない
軍艦「雲揚」は9月20日に江華沖を離れて28日に長崎まで途中飲料水を補給せず帰る

江華島事件
しかし海軍当当局と井上良馨との「黙契」のもとに行われた事件である
日本政府は出兵の用意をととのえる
1876年1月 艦隊を朝鮮に派遣し賠償と修好条約締結を求める

『日本による朝鮮支配の40年』かん在彦 朝日文庫 1992年9月
朝鮮の近代、時期をはっきりさせたい、学者の見解の相違もあるが私個人は1876年2月からにしたい、江華島条約 カンフワド条約 正式には日朝修好条規が結ばれた年
「私は朝鮮の近代はここからはじまったと考えています」

山辺
日朝修好条規
明治9年2月27日調印
3月22日批准(同日太政官布告)
公使交換、十五個月の後、花房義質が公使として朝鮮国王に謁見、国書を呈したのは修好条規が成立して四年後に正式に開国、宗主国清の勧告があった

岩波新書、原田敬一
86頁
参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』
一八九四年七月二五日から九五年一一月三〇日が戦争期間
本書は朝鮮との「七月二三日戦争」も組み入れ
広義の「日清戦争」を
一、七月二三日の日朝戦争
二、狭義の日清戦争、一八九四年七月二五日から一八九五年四月一七日
三、台湾征服戦争一八九五年五月一〇日から一一月三〇日
の三期間を合わせたものと考える
参謀本部編『明治廿七八年日清戦史』は七月二三日戦争を否定した。
公式戦史の上では存在をしない
リアルタイムでこの戦争を報じていたが「日清戦争」が終わった時には新聞各紙は
七月二三日戦争のことを忘れていた

72頁
「東学農民軍への本格的な弾圧が、一一月から翌九五年四月初旬にかけて続けられる。
弾圧部隊の主力は一一月初旬に到着した後備歩兵独立第一九大隊など二七〇〇名の日本軍。それに二八〇〇名の朝鮮政府軍、各地の両班士族や土豪などが組織する反動的な民ぽ軍が加わり村の隅々まで捜索する「討伐」作戦を続け最西南端の海南・珍島まで追いつめ文字通り殲滅した。
もう一つの日清戦争であった



甲午農民戦争、
『異端の民衆反乱 東学の甲午農民戦争』313頁 「農民軍の犠牲者は膨大に数にのぼっていることを確認しておかなければならない。東学側の記録では『天道教創建史』が「殺された者」二〇万人、『東学史』が「被害者」三、四〇万人と推定している。各戦闘での犠牲者の数から考えて、この数字は誇張されているもののように思われるが、実はそれほど誇張したものだとは言えない。というのは、連合軍は戦闘以外の局面でも東学徒を捜し出して殺害しているからである。
 以下要旨
農民軍「討伐」において日本軍と朝鮮軍は共同作戦を採ることになっていたが、その指揮権は日本側にあった
 果たしてどれだけの東学徒が殺害されたかは、当時の「討伐」側もその全貌を把握できないほどの規模であったというしかなく、もはや正確に知ることはできない。しかし以上の少ない材料からごく粗い概算なら可能である。......
全体の犠牲者は三万人を優に超えていたのは確実であり、医療の未熟さからかなり多かったと想定される負傷後死を加えれば五万人に迫る勢いであったと推定される。「殺された者」だけで二〇万人という『天道教創建史』の数字はともかく「被害者」三、四〇万人とという『東学史』の数字は当然に負傷者が死亡者をはるかに上回ることから考えて、決して根拠のないものではないと思われる。

チョ・キョンダル
趙景達
98年、岩波書店
山辺健太郎『日韓併合小史』1966年2月
「朝鮮支配をめぐる日清の衝突」83頁
「農民戦争としての東学乱」
「斥和洋」反日の民族主義的な運動

『日清戦争』檜山幸夫 1997年8月 講談社
第一章朝鮮出兵事件と日朝・日清開戦
1 出兵政策の決定
23,4頁
1894年2月15日 朝鮮農民反乱
5月31日 東学農民軍は政府軍を破り全羅道の全州府を占領
朝鮮国王、清国軍による鎮圧案を認める
5月31日 日本政府は朝鮮の事態の推移によっては陸海軍を派遣するという消極的出兵論で固まっていた、政策的意図は日清均衡論、日清対立論にはなかった
6月2日 臨時閣議 陸奥は公使館と在留邦人を保護するために出兵を閣議請願、閣議は出兵方針を決定
6月4日政府は海軍陸戦隊による派兵決断
清国軍 900名 山砲四門 1500名 臼砲四門
日本軍 反乱鎮圧部隊 2400名
在留邦人保護の部隊 7000名から8000名 過大な兵力の投入
2朝鮮出兵
6月8日 インチョンに大鳥公使 海兵70名 警視庁警部以下巡査21名 陸戦隊の編成
将兵433名 横須賀海兵団と巡査が帯同488名が京城に入った 第一次出兵
6月10日 午前3時 陸戦隊が日本領事館前に集結
6月12日までに在韓清国軍は2400名
『日清戦争実記』によると1893年12月末朝鮮在住日本人は男が5112人女が3713人 8825人 
『京城府史』によると京城在住日本人は234戸 779人 500人名余りの兵員が宿営
6月9日 廣島第五師団 1024人の兵員 宇品を出港 陸軍による第二次出兵
6月15日 「即時同時撤兵」で日清合意、調印されず
6月27日 京城は日本軍の制圧下
6月末 英国、露西亜の介入
7月 対韓外交 内政改革方案提示 朝鮮国の主権侵害、露骨な侵略主義的意図をもつ
7月16日 拒否回答
7月19日 朝鮮政府の撤兵要求を公然と無視、在留日本軍のための兵舎建設を要求
7月20日 「清国属邦」論を否定するならば朝鮮国は清国軍隊を国外に放逐すべきと照会、回答期限を7月22日とする
7月22日 朝鮮政府は属邦論を否定、清国政府へ速やかに撤退を求めていると回答
7月23日午前2時、大鳥、回答は日朝平等の原則を無視と、こじつけ「時宜により我権利を保護するが為め兵力を用ふる事も可有之に付右予め御承知相成度」と宣戦布告のような公文を送りつける、同時に大島混成旅団長に王宮攻撃占領の実地を指示、ここに日朝開戦が起きる
7月23日 午前4時49分 歩兵第二一連隊が迎秋門に到着
王宮包囲に対し日本軍の攻撃と判断、王宮守備隊は射撃を開始、日本軍も応射日朝両軍は戦闘状態に入る

迎秋門にあった一隊が門を破壊し王宮に侵入
朝鮮軍の武器を没収、両軍の戦闘は午前6時20分にほとんど終息
朝鮮国軍は戦死傷者40名余り
日本軍の犠牲者 戦死1名負傷1名 政府は国内世論を慮って公表せず
「この戦闘をもって朝鮮国軍の組織的抵抗は止み日朝戦争は事実上終結し外交的処置による戦争終結が図られることになる」44頁

日朝戦争の終息
大鳥による王宮攻撃占領の否定「龍山の兵は午前四時頃入京し王宮の後に当る丘に駐陣する為め南門より王宮に沿ひて進みたるに王宮護衛兵及ひ街頭に配置しあるところの多数の兵士は我兵に向て発砲せり依て我兵をして余儀無く之に応して発砲し王宮に入て之を守備せしむ」『日本外交文書』27 と発表せざるを得なかった。 47頁

7月25日 豊島沖で日清両国海軍による海戦、日清戦争が開始 48頁
対清開戦はあくまで朝鮮国の独立扶助が戦争名目、にもかかわらず朝鮮国と開戦したことはすでに戦争名目が消失、対清国開戦外交戦略そのものに大きな矛盾を生じさせる

8月

大鳥は陸奥へ「仮条約案」を上申、内政改革、京釜間鉄道、京釜京仁間電信、政務法律の顧問や軍務教師に日本人を招聘するという内容
第七条「本年七月廿三日大闕附近の地に於て両国兵互に衝突を起したる件は双方互に之を挙論せさるへし」
大鳥は京城事件を不問に付しいっさいがなかったこととして処理しようとしていた。

8月7日 陸奥は伊藤へ朝鮮国軍の武器を取り上げかつ警察権を規制しているのは「事実上一国の独立権を侵犯せし形跡有之」列国の疑いを招くおそれがあることから「朝鮮国独立の対面を全ふし併せて同盟の実を挙くる事」『日本外交文書』27が必要であるとした閣議請議を求めた、
8月8日 閣議で請議案を承認
8月9日 陸奥は大鳥へ武器の返還と王宮、市内警備を日本兵から朝鮮兵に代えることを命令
8月15日 陸奥は「朝鮮国の地位は同盟にして敵国に無之」『日本外交文書』27との原則を確認、閣議請議
8月17日 対韓政策の方策四条を示し、いずれかの確定を求める閣議請議をしたが閣議は容易に対韓方針を決定できなかった
「朝鮮を名義上独立国と公認するが永遠もしくは長期間日本が独立援助するとした大意を決定」したにとどまる
8月20日 朝鮮政府と「暫定合同条款」七か条を締結
前文し五条は「京城事件は日朝両国兵による偶発的な衝突事件であることから、両国はこの問題について追及しないという、事件そのものを歴史から消し去るというものであった。」
「事件処理については朝鮮政府も政治的に決着させたいと考えていたことから日韓両国の思惑は一致していた」
「こうして京城事件による開戦は≪戦争にしてはならない戦争」としてフタをすることになった。」
「こうした戦争処理がなされたことから朝鮮国は敵対国から同盟国へと転換させることが可能となり、8月26日「大日本大朝鮮両国同盟」という日韓攻守同盟が結ばれ、ここに日韓関係は新たな段階に入っていったのである」50頁


『平民新聞論説集』1961年 岩波文庫
「朝鮮併呑論を評す」第36号 明治37年 1904年 7月17日 二頁
 吾人は近刊の新聞雑誌に於て朝鮮に関する有力なる二論文を見たり
▲『韓国経営の実行』『韓国経営と実力』(国民新聞社説 7月8日、7月12日)
▲『朝鮮民族の運命を観じて日韓合同を奨説す』(新人第七号社説)
『国民』の徳富氏が如何に今の政府及び軍人に親しきかを知り『新人』の海老名氏が如何に今の青年の一部に持て居るかを知る者は、吾人が此二論文を批評するを見て、決して無用の業と為さざるべし
『国民』子先づ『韓国経営の実行』に於て曰く
▲日露開戦以来既に五個月を経過し、日韓議定書調印後既に四個月を経過す、然りと雖も、此間に於ける韓国経営は……実質的に殆んど一の見るべきものあるなく、日韓議定書の精神の如き、未だ一として具体的に実現せられたるものなし。
▲略
▲略
▲夫れ韓国に対するの途  略 唯だ韓国が一に我国の保護の下にあることを知らしめ、実力を以て之を指導掖し、我に対して被保護者の実を挙げしむるのみ。

嗚呼『日韓議定書の精神』とは何ぞや『我国の意志』とは何ぞや、『我実力』とは何ぞや、吾人は未だここに其明答を得ず、然れども国民子は其最後に於て、韓国を『我国の保護の下に』置くべきを言へり。而して国民子更に其『韓国経営と実力』の冒頭に於て曰く
▲略
嗚呼『韓国の領土保全』乎、『独立扶植』の警語は何時の間にやら消え失せたるこそ笑止なれ、既に保護国と云ふからは独立の二字は余り声高に語り得ざる筈也、清盛の甲は弥々多く法衣の裾より現れたり、而も其『領土保全』を説明するや亦更に甚だしきものあり、曰く
▲略
▲略
▲略
▲略
▲略
清盛は既に自ら其法衣を脱ぎ棄てたり、実力とは、即ち兵力の事也、領土保全とは明かに領土併呑の事也、此に至っては独立も保護もあつたものに非ず、世の義戦を説く者、世の『韓国の独立扶植』を説く者、之を読で果して何の感あるか
 次に吾人して新人子に聞かしめよ、新人子は『日清戦争の当時、日本軍が朝鮮独立の為に出征したるを喜び、日本帝国を東奔西馳して愛隣の大義を完うせんことを論じた』る人なり、而して『近頃宇内の大勢と東洋の形勢に深く感激する所あり、韓国民族に一片の忠言を呈』して曰く
▲韓国は大陸に圧せられざれば、大海に制せられて、遂に自主独立の権威を発揚すること能はざりき。


狼は法衣を着すましたり、保護国は不可也、属国は不可也、而も只『合同』と称すれば甚だ可也、合同乎、合呑乎、併呑乎、『実なきの名は君子の恥づる所なり』とせば、吾人は韓人が、無実の合同を為さんより『寧ろ滅亡するに如かず』と言はんことを恐る。此点に於て吾人は寧ろ国民子の露骨を愛す、新人子更に曰く

吾人の見る所を以てすれば、日本民族が如何に異民族に悪寒を懐き居るかは、彼れが謂ゆる新平民に対することにても明白也、日本人が如何に韓人を軽蔑し虐待せるかは、心ある者の常に憤慨せる所に非ずや、韓人が日本人と合同せんとする事あらば、それは合同に非ずして併呑也、韓人は到底使役せられんのみ、新人子最後に曰く

▲日本民族より見れば、韓民族と合同することは或は其光栄とする所にあらざるべし、故に日本人の未だ発せざるに先ち、東洋平和の大義に基き此合同を日本人に迫らば日本人も之を辞するの言葉なからん。

嗚呼何ぞ其言の幽婉なるや、吾人は新人子を以て直ちに法衣を着たる狼なりと為す者に非ず、然れども此時此文を以て国民子の言に比すれば、吾人は実に此感なきを得ざる也
見よ、領土保全と称するも、合同と称する、其の結果は只より大なる日本帝国を作るに過ぎざることを、又見よ、今の合同を説く者も、領土保全を説く者も、同じく會つて韓国の独立扶植を説きたる者なることを、然らば則ち将来の事亦知るべきに非ずや、要は只其時の都合次第に在り
斯くて吾人は此の有力なる二論文が、或いは法衣を脱ぎ、或いは法衣を纏ひ、或いは表となり、或いは裏となり、或いは威し、或いは騙し、百方苦心、韓国滅亡の為に働きつつありを見たり、而して吾人は又日本の浮浪の輩が斯の如き論議を背後に負ひて或は長森案を韓廷に提出し、或いは塩専売権、或は煙草専売権、或は仁川埋立工事、或は水田買収計画等に奔走し居るを見たり、日本が文明の為に戦ひて東洋諸国を指導すと謂ふものの其の公明正大なること一に何ぞ此に至るや


「帝国日本の東アジア支配」江口圭一 『植民地帝国日本』
「近代日本と植民地Ⅰ」1992年第一刷 2005年第四刷
二 韓国併合から第一次世界大戦へ
1朝鮮
「日本が日清戦争と日露戦争を戦った最大の目的は朝鮮(1897年10月「大韓」と改称)を支配下に収めるためであった。
1904年2月 日露開戦直後 日韓議定書により韓国での軍事行動の自由を確保
1904年8月 第一次日韓協約により日本推薦の財政・外交顧問を就任させる
1905年7月 桂・タフト協定により
1905年8月 第二次日英同盟により
1905年9月 ポーツマス条約により 日本はアメリカ、イギリス、ロシアにそれぞれ韓国支配権を認めさせた
1905年11月 第二次日韓条約を強要、韓国の外交権を奪い統監府を設置
1905年12月 初代統監に伊藤博文が就任、韓国の保護化を推進
1907年7月 第三次日韓協約によって韓国の全権を掌握
1907年8月 韓国軍隊の解散を強行
1909年10月 ハルビンで伊藤博文はアン・ジュングンに射殺される
1910年8月 日韓併合条約 併合=廃滅 朝鮮植民地化
1911年2月 日米通商条約により日本ははじめて関税自主権を獲得、1899年の法権の回復とあわせ、幕末以来の不平等条約体制から脱出名実ともに大日本帝国として自己を確立
「しかし日本による韓国の植民地化は近代帝国主義史においてきわめて特異」
「欧米列強が植民地化の対象としたのは帝国主義本国から文化水準・経済的発展にいちじるしく立ち遅れたしばしば未開でもあった地域」
「隔絶した文化・経済の力で容易にこれらの地域を圧倒し統治することができた」
「これにたいして日本にとって朝鮮は歴史的には文化先進国でさえあった」
「新天皇国家の指導者が欧米と対峙しうる対外的威信の確立を至上課題とした」
「そのために朝鮮を制圧・支配することを一貫して追求したこと」
「先進列強間の相互対立・競合を巧みに利用しえたことが、韓国併合の道を開いた」172頁
おわりに 184頁
1937年7月 盧溝橋事件を機として中国の全面的な侵略に乗り出したとき大日本帝国はその植民地支配体制を全方位的に形成し終わり、その完成に向けて最終的な膨張をとげようとしていた。
 北に南樺太、北西に「満洲国」と朝鮮と関東州、西に冀東と天津と内蒙古(チャハル)、西から南へ向って山東と揚子江流域と台湾・澎湖諸島、南に南洋群島、唯一空白の東方は太平洋が広大な天然の要害をなしている
 帝国主義本国を中核として膨張の成果をこのように全方位的かつ集約的に結実させた近代帝国は他に例をみな




『ナショナルヒストリーを学び捨てる』
言説分析が開示する歴史を「導きの糸」として国民史の逆学習(アン・ラーニング)の方策を追究してみよう。

昭和史論争、亀井勝一郎がいう「人間」が日本人でしかなかった

「パンドラの箱」民衆思想史研究の課題、ひろたまさき
「民衆」概念の検討

人民の運動を主軸にして歴史を語るべきである
遠山茂樹らによる『昭和史』1955年はまさにそういう人民の運動を主軸にした現代史の叙述、「政治・経済・外交」を中心として、階級闘争の視点から一五年戦争を総括しようとした、当時のマルクス主義歴史学の一つの到達点を示す
昭和史論争、批判が一番大きかったのは「人間が描かれていない」であった。
遠山らにとって「歴史の発展と日本人民の解放闘争を描く」ことに主眼があった
階級闘争史の基本姿勢を変えなかった
著者たちは「国民の生活」を強調していた、国民の主体的な営みは人民・労働者階級の代弁者としての前衛党の動きに集約されてしまい、民衆の独自な営みをとらえることが弱かった
井上清『日本の歴史』1966年もまた人民の歴史の通史を意欲したたものであるが近代の主役に労働者階級を設定する
「帝国主義民族」と「労働者階級」も慎重に使い分けられている。
 マルクス主義歴史学で民衆意識の認識について反省を示したのは石母田正『「国民のための歴史学」おぼえがき』1960年
アイヌ・沖縄民衆をはじめとする周辺的存在に対する姿勢とともに、それが民衆概念(人民概念)にどのような変革を生んだかは疑問としなければならない。

安保闘争の政治的敗北の後に出てくるのが民衆思想史研究である。
鹿野政直
色川大吉『明治精神史』
安丸良夫、<民衆思想研究>広汎な民衆の内面性を通してとらえるため
近代日本のイデオロギー構造の全体をとらえるための基礎作業
民衆の日常的生活に密着しつつしかもそれをのりこえてゆく真に「土着的」な思想形成の可能性について考えたい
1968年

日本の近代歴史学マルクス主義を経て民衆思想史研究に至るまで、実は「国民の歴史」を語るということで共通していた

「民衆」が「日本人」となり「国民」となってしまう

民衆思想史研究の潮流に大きな衝撃を与えたのは、七〇年代後半からのポスト・モダニズムと社会史の流行
[PR]



by tosukina | 2008-11-09 03:17

史料、画像アップのためのブログ
by tosukina
プロフィールを見る
画像一覧

外部リンク

画像一覧