大杉栄

李会栄・始栄兄弟

記事入力 : 2008/04/20 00:02:30
【萬物相】李会栄・始栄兄弟

 高宗(在位1863年‐1907年)の時代、吏曹判書(文官の叙勲などの事務をつかさどった中央行政機関「吏曹」の長官)を務めた李裕承(イ・ユスン)の息子6人は、日本に国を奪われた直後の1910年12月、家族・親族数十人を連れ中国との国境の川、鴨緑江を渡った。彼らがソウルを出発し、自動車・馬車・ソリと乗り換え、新義州を経て1カ月かけ着いたところは、中国の西間島(現・吉林省)柳河県三源浦だった。朝鮮時代中期の文官・李恒福(イ・ハンボク)=1556年‐1618年=の子孫で、10人の宰相を輩出した名門一族が、満州(元・中国東北部)に独立運動の拠点を築こうと中国に渡ったと聞くや、大勢の民族志士たちがその後を追った。

 李家の兄弟たちの移住を率いたのは四男の会栄(フェヨン)だった。早々に開化と民族運動に身を投じ、新民会創設の主役だった彼は、国がなくなるとすぐ満州に活動の舞台を移すことにした。移住資金には、二男の石栄(ソクヨン)が領議政(朝鮮時代最高の中央官職)・李裕元(イ・ユウォン)の養子になり、相続した財産2万石を処分し当てた。以前科挙に合格し、平安道観察使や漢城裁判所長を務めた五男・始栄(シヨン)をはじめ、ほかの兄弟たちも喜んでこれに従った。

 李会栄兄弟は、独立運動家の李相竜(イ・サンリョン)や李東寧(イ・ドンニョン)と共に1911年、「耕学社」と「新興講習所」を建てた。耕学社は移住してきた韓国人の定着と団結を率いる組織で、満州地域の民族運動の先駆的存在として評価されている。新興講習所は後に新興武官学校となり、1920年に日本軍の圧力を受け閉校されるまで、独立軍約3000人を輩出した。独立運動史に輝く鳳梧洞戦闘や青山里戦闘(ともに1920年)の中核を担う戦力がそこで育成された。

 李会栄は無政府主義者になり活動していた1932年、日本の警察に逮捕され獄死した。ほかの兄弟4人も中国全域で独立運動を行い、この世を去った。6兄弟のうち生きて祖国の地を踏んだのは李始栄だけだ。1919年の3・1独立運動後、臨時政府に参加し法務総長・財務総長・監察委員長を務めた。大韓民国政府が樹立されると、初代副大統領に選ばれたが、1951年に李承晩(イ・スンマン)大統領(当時)の非民主的統治に抗議するため辞任した。

 1953年4月に84歳で逝去した李始栄は、ソウル市城北区にある貞陵に埋葬された後、江北区水踰里の北漢山のふもとに移された。時は過ぎ、李始栄の息子たちも世を去り、今年99歳になった二男の嫁がなんとかその墓所を守っている。遺族らは李始栄の墓を「副大統領にふさわしく国立墓地に建ててほしい。それが難しいなら現在の墓所を国で管理してほしい」と望んでいる。今年建国60年の行事を準備するという政府が、「建国時の副大統領」の墓所に知らん顔していていはならない。子孫に針1本刺すほどの土地も残さなかったほど実直だった李始栄に、大韓民国は最低限の敬意を払うべきだ。

李先敏(イ・ソンミン)論説委員

朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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by tosukina | 2009-01-09 17:17

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