大杉栄

大連・旅順

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# by tosukina | 2008-10-09 19:32

横浜・久保山墓地[無縁とされた人たちの墓碑]


「真実と和解のための過去事整理委員会」調査に同行。同委員会の概要に関しては画像の最後に掲載。2008年10月1日

 政府委員会による調査進行中のため詳細は報告しませんが
「名前- ゾボンゼ (趙奉才) 本籍-韓国済州道南済州郡デゾン(大井) 邑 
生年月日- 1928.8.5.【註 「戸籍」によると1918年生まれ。従兄の証言でも1918年生まれ・委員会がデータ化したときに数字をミスして記入の可能性。2008年12月2日】」の遺族(従兄弟)の要請による調査行動です。
1946年、横浜刑務所長名により本人の死亡通知が故郷の役場に届き除籍される。
 この通知以外に同人名の記載されている公的書類は「発見」されていません。

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横浜刑務所正門
所内にて午後3時から趙奉才さんの埋葬(納骨)に関る事実経過、埋葬場所確認を刑務所庶務課に求める。
 韓国から文書、電話による確認に対しては回答がなく、面談の確約も得られていなかった。
刑務所側にとっては単純な事実すら(刑務所内で囚われたまま死亡した「無縁」の獄中者の埋葬先)、面談をしてもスムーズに回答が出ない。

 横浜市営墓地に「碑」があるだろうということを、庶務課職員が内部確認をして口頭で大雑把に答える。日野墓地(至近の距離にある市営墓地・1950年代の開設)か久保山墓地(刑務所から距離はあるが古くから、1870年頃の開設)、どちらかであろう、とのこと。
 入所者の記録は30年保管後に廃棄をしているので詳細は不明。
 墓地管理者(市)ならば埋葬名簿を把握していると推測をして、急きょ墓地に向かうことにする。
 対応した刑務所庶務課では墓地内での埋葬エリアも把握していない。


 調査委員メンバーとタクシーでまず久保山墓地へ向う。墓地下の「茶屋」でまず問い合わせる。近くに刑務所の「合葬碑」があるということで案内をしてもらう。
 案内されながら判明してきたことは、三ヶ所のエリアに点在しているということ。「無縁」とされた獄中死の人たちの墓碑

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1920年代の合葬碑と推測。
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 碑の裏面
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早い時期の「無縁」とされた獄死者の碑は、このように並べられていた。(案内してくれた方の説明。正式には確認をとれていない)
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数字での表記



100m以上離れたエリアの大きな合葬碑。他に二つ建立されている。
一つ一つの碑を確認する。
横手に小さな碑が幾つか並んでいた。埋葬時期と埋葬数が裏面に彫られている。

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趙奉才は「無縁」として納骨された。この合葬碑が「昭和十一年から昭和二十年」にかけての獄死者の碑。

名前- ゾボンゼ (趙奉才)
本籍-韓国済州道南済州郡デゾン(大井) 邑
生年月日- 1918.8.5.

 訴訟記録は「発見」されていない。
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調査をする韓国の政府委員会メンバー。この委員の方は通常は僧職にある。

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台風が消滅した後の秋空



高層ビルが望める


合葬碑は「ひまわり荘」という文字の下、左に斜めに下がる道沿い。
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「真実と和解のための過去事整理委員会」(2007年2月に他のブログにアップした記事より)
 2006年11月、韓国の「真実と和解のための過去事整理委員会」のメンバーが来訪した。先行したのは委員長をはじめとした幹事メンバーで委員会の活動の周知と協力要請が行われ、在日コリアンを中心として人権問題、歴史研究に関わっている十名あまりの人たちと懇談の場がもたれ私も出席をした。


 当日は日本語に翻訳された委員会の概要が資料として配布された。そして数日をおいて調査グループも来訪し具体的に調査協力のための文献を提供した。同委員会は資料によると、委員会は韓国政府の組織であるが大統領所属ではなく独立した国家機関であり四年を活動年限としている。
 
 略称は「真実和解委員会」。05年5月に国会で制定された「真実と和解のための過去事整理基本法」に基づき、05年12月から同委員会が公式に活動を始めた。「犠牲者」「遺族」からの真実糾明申請を受付、職権調査をすすめることができる。<「申請」は06年11月末日で締切られている>。

 来訪に合わせて広報も行われたが『朝日新聞』が十数行の記事掲載をしただけのようである。

 重要課題として「民族独立糾明」の領域として≪日帝強占期あるいはその直前に行われた抗日独立運動、日帝強占期以降、2005年12月1日まで我が国の主権を守り国力を伸張させるなどの海外同胞史≫。

「集団犠牲糾明」の領域として≪1945年8月15日より権威主義統治時期に至るまでの憲政秩序破壊行為など違法あるいは著しく不当な公権力の行使によって発生した死亡・障害・失踪事件、その他重大な人権侵害事件と造作疑惑事件≫。

 その他の課題とし≪「民事訴訟法」「刑事訴訟法」による再審事由に該当し真実糾明の必要性が認められた裁判所の確定判決事件、疑問死真相糾明委員会の未完結事件あるいは再調査申請事件≫を対象としている。 

 2006年7月29日「韓国自由共同体研究会」と共同で聞慶(ムンギョン)セジェ博物館にて朴烈と金子文子に関しワークショップを東京や山梨からの参加者と共に開催した。

 聞慶市は、2000年に朴烈記念事業会を発足させ、展示館の建立、生家の復元など多様な事業を繰り広げている。この共同のワークショップは聯合ニュースとハンギョレ新聞により告知され、前記「真実和解委員会」から調査委員二名が当日参加した。参加した趣旨は朴烈、金子文子たちが1923年にたちあげた「不逞社」に参加していた活動家の遺族が同委員会に「真実糾明申請」をしたことによる調査開始のためである。そして協力を求められ東京での再会となった。

<法制定過程に関しては『韓国の「過去清算」とは何か』というタイトルで藤永壯(ふじながたけし)さんが『情況』05年10月号に論文を掲載> 直接リンク
藤永壯さん「まい・びぶりおぐらふい」全体のサイトへリンク
2005年の数字をクリックするとアクセスできます。


番外編
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新宿西口「てじまうる」の看板
「てじまうる」公式サイト
 オーナーTさんとは「真実と和解のための過去事整理委員会」との懇談会(2008年9月30日)で出会いました。
「関東大震災時の朝鮮人虐殺」究明に取組んでいます。

リンク「山歩き」トップページ
「運動史」
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# by tosukina | 2008-10-01 14:30

地図

三田用水  陸地測量図「世田谷」「明治42年測図」「大正10年第二回修正測図」「大正14年部分修正」

 地図画像をクリックすると拡大できます。

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地図で西北の端からの水路が三田用水です。途中から東に向かっています。

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「三田用水」東京帝国大学農学部の北側の境めを流れています。


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「三田用水」東京帝国大学農学部の東側の境めを流れています。
町名「神泉谷」の西になります。


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大山街道を横切り西郷邸の崖上の端を流れて行きます。
現在の「旧山手通り」沿いに流れています。



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陸地測量図≪三田≫「明治42年測図」「大正5年第一回修正測図」
 1916年 1万分の1
「大正6年12月15日発行」の400倍モノクロコピー 

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火薬製造所辺り 400倍コピースキャナー

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品川駅南側、何処を流れているか、あるいはこの図版の範囲外か?

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# by tosukina | 2008-09-24 19:03

放浪記で著される東京市内の地名とアナキスト人脈

メモ放浪記で著される東京市内の地名とアナキスト人脈 2004.12

項目末尾の数字は『新版放浪記』1979年発行、新潮社刊≪現在、新刊で流通している新潮文庫は改定版であり頁数が異なる。頁の異動は対照していない。)

萩原さんは萩原恭次郎である。

★印は「市電」に関る記述

第一部 (1930年7月刊行『放浪記』)
新宿の旭町の木賃宿 21
青梅街道の入口の飯屋 23
麹町三年町の伊太利大使館 25
本郷の前の家 26
道玄坂の漬物屋の路地口 28
大久保百人町の派出婦会 34

★新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると 34
逢初橋の夜店 41
急いで根津の通りへ出ると 44
★正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。44
西郷さんの銅像 44
動坂の町へ出て行った 51
男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日通っているのだ 51
★私がやっと店を出た時は、もう一時近くで…市電はとっくになかった。神田から田端までの路のりを思うと… 52
すみませんが田端まで帰るんですけれど 53
四谷の三輪会館 54
田端の家へ帰って来たはずだのに 59

団子坂の静栄さんの下宿へ行ってみた。62

銀座の松月と云うカフエーへ行った。 68
時々田端の駅を通過する電車や… 63
動坂の活動小屋に行ってみた 64

吉祥寺の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。 66

兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。

(隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える68)床屋の二階の飯田さん69

太子堂の縁日 69
久し振りに東京へ出て行った。新潮社で…いつも目をつぶって通る神楽坂も、今日は素敵に楽しい街になって 72
今夜は太子堂のおまつりで 74

萩原さんが遊びにみえる。75

小川町の停留所で四五台の電車を待ったけれど 95
若松町の通りを歩いていると、新宿のカフエーにかえる気もしなかった 126
千駄木の町通りを買物しながら歩いた 145

第二部 (1930年11月刊行『続放浪記』)

新富河岸の橋を曲線しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた木橋を渡って行く。坂で降りると、汚い公園が目の前にあった。167
茅場町の交差点から…168

関東大震災
今日こそ十二社に歩いて行こう 177
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。180
若松町まで来ると…181
順天堂前で降ろされると 181
私が根津の権現様の広場へ帰った時には 182
灘の酒造家より…大阪まで無料にてお乗せいたします。万世橋から乗合の荷馬車に乗って…芝浦までゆられて行った 183
春日町の市場へ行って 198
植物園裏の松田さんの病院へ行った 201
東中野と云うところへ…北原白秋氏の弟さんの家にしては地味なかまえである。206
上野の桜、まだ初々。206
青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。208
★本郷の追分で降りて 208
(秋田雨雀訪問)
訪問先は秋田雨雀氏のところだった。209
雑司ヶ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがした。209
一二年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあった。209
暮れたのでおくって戴く。…私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。210

新宿の以前いた家へ行ってみた。…牛込の男の下宿に寄ってみる。234
四谷までバスに乗る。235
神宮外苑の方へ行く道の… 236
大宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。240

(平林たい子との同居)
本郷の酒屋の二階へ孵って行った時は 257
二人で浅草へ来た時は夕方だった。259
銀座裏の奴寿司で腹が出来ると 261
上野の風は痛すぎる。…百瀬さんの家へ行ってみる。266
歩いて池の端から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃん喪も凸坊も火鉢にかじりついていた。267

秋声との散歩 
森川町の秋声氏のお宅に行ってみた。…四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。 272
小石川の紅梅亭と云う寄席に行った。…肴町の裏通りを歩いていた。273
団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると。273
団子坂の文房具屋で原稿用紙を一帖買ってかえる。273
湯島天神に行ってみた。279
浅草へ行った。280
私はこの男と田端に家を持った時 282
下谷の家を出ようと思う。283

第三部 1930年当時には発表されていない。
(1947年4月から翌年10月まで『日本小説』に連載。1949年1月刊『放浪記第三部』)

★茅町から上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。…銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。303
「いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。」305
(蒼馬を見たりと云う題をつけて、詩の原稿を持って行く)
夜、牛込の生田長江と云うひとをたずねる。305
「私はころされた大杉栄が好きなのです。」306
上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡を吹いている。307
「夜店が賑やかだ。…古本屋の赤い表紙のクロポトキン…」307
昼から万朝報に行く。316
鍋町の文具屋で 317
浅草に行く。317
十二社の鉛筆工場の水車の音 320
神楽坂に夜店を出しに行く。321
万世橋の駅に行く。323
雨の中を須田町まであるいて、小さいミルクホールへはいる。324
神田の三崎町の 324
新宿までの電車賃をけんやくして、鳴子坂の三好野で焼団子を 328
神楽坂の床屋さんで 329
食堂を出て動坂の講談社に行く、おんぼろほろの板塀のなかにひしめく 331
小石川の博文館へ行く。 332
西片町に出る。…根津へ戻って恭次郎さんの家へ行ってみようと思う。337
■「ダダイズムの詩と云うのが流行っている。」335

■「高橋新吉はいい詩人だな。岡本潤も素敵にいい詩人だな。壺井繁治が黒いルパシカ姿でうなぎの寝床のような下宿住まい、これも善良ムヒな詩人。蜂みたいなだんだらジャケツを着た萩原恭次郎はフランス風の情熱の詩人。そしてみんなムルイに貧しいのは、私と御同様……。」337
根津のゴンゲン様の境内で休む。337
千駄木町へ曲がる角に、小さい時計屋さんがある。恭ちゃんの家の前を通って医専の方へ坂を上ってゆく。338
八重垣町の八百屋で 339
渋谷の百軒店のウーロン茶をのませる家で、詩の展覧会なり。ドン・ザッキと云う面白い人物にあう。 340
道玄坂の古本屋で 342

「いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います」346
夜更けて谷中の墓地の方へ散歩をする。351

(同人雑誌『二人』)
団子坂の友谷静栄んの下宿へ行く。352
帰りの坂道で五十里幸太郎さんに遭う。…動坂へ出て千駄木町の方へ歩く。…逢初から一高の方へ抜けてみる。…燕楽軒の横から曲ってみる。菊富士ホテルと云う所を探す。(宇野浩二訪問)354

寛永寺坂の途中で、恭次郎さんに逢う。…寒い逢初の方へ降りて行ったる恭次郎さんはいい男だな。あの人は嘘を云わない。だけど、私は恭次郎さんの詩は一向に判らない。355
雪が降る寛永寺坂。登りつめると、うぐいすだにの駅にかかつた陸橋。橋を越して合羽橋へ出て…356
浅草の古本屋で 357
駒形のどじょう屋の近く 358
大家さんは宮武骸骨さんと云う人なのだそうだ 369
渋谷へ出て、それから市電で神田へ出てみる…神保町の街通りを見たりして 375
朝の旭町はまるでどろんこの 383
おっかさんを宿へ残して角筈を振り出しに 383
本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前 383
旭町へ戻ったのが二時 385
★牛込の肴町で市電を降りて 391
飯田橋まで歩いて 392
横寺町の狭い通りを歩きながら 393
朝、大久保まで使いに行く 394
また牛込へ尋ねてゆく…神楽坂の通りをぶらぶらと歩く 396
ひとりで浅草へ行ってみる。399
夕方新宿へ帰る。 401
今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤の禿頭に口紅がついている。…集まるもの、宮島資夫、五十里幸太郎、片岡鉄兵、渡辺渡、壺井繁治、岡本潤 404
帰り、カゴ町の広い草っ原で蛍が飛んでいた。かえり十二時、白山まで長躯して歩いてかえる。405
本郷森川町の雑誌社へ行く。406
歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。…銀座の滝山町まで歩く…時事新報社 407
夜、独りで浅草に行く。412
帰り合羽橋へ抜けて、逢初町の方へ出るところで、辻潤の細君だと云うこじまきよさんに逢う 413
夕方、八重垣町の縫物屋 421
夜、上野の鈴本へ 423
千駄木へ戻って井戸で水を浴びる…長い月日を西片町で暮らしていたような気がする。423
昼近く、読売新聞に行き、…帰り、恭ちゃんのところへ寄る。423
四谷見附から、溜池へ出て、溜池の裏の竜光堂という薬屋の前を通って、豊川いなり前の電車道へ出る。電車道の線路を越して、小間物問屋の横から六本木の通りへ出て、赤坂の連隊が近いのだということで…小学新報社というのが私たちの勤めさき 438
「大正天皇は少々気が変でいらっしゃるのだという事だけれども」440
四谷の駅ではとっぷりと暗くなったので、やぶれかぶれで四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。 440
夜霧のなかに、新宿まで続いた夜店の灯火がきらきらと華やいで見える。…大宗寺にはサアカスがかかっていた。…行けども行けども賑やかな夜店のつづき、よくもこんなに売るものがあると思うほどなり。今日は東中野まで歩いて帰るつもりで、一杯八銭の牛丼を屋台で食べる。441
角筈…新宿駅の高い木橋…鳴子坂…。441
東中野のボックスのような小さい駅へ出て…443
六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と…獄中期はもうぼろぼろなり。444
下谷の根岸に風鈴を買いに行き 453
大久保へ出て、浄水から…新宿まで歩く。…抜け弁天へ出て…余丁町の方へ出て…若松町へ出て…何の為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。456

メモ・クロニクル
1922年 19歳
尾道から上京、雑司ヶ谷に住む、両親の古着の夜店手伝い、職を転々
1923 20歳
関東大震災にあい、尾道に帰る
1924 21歳
単身上京、近松秋江家の女中、「日本詩人」「文芸戦線」などに詩や童話掲載、田辺若男と田端に住む、南天堂に出入り、7月詩誌「二人」創刊
1925 22歳
野村吉哉と渋谷に住む、世田谷太子堂に移り、壺井繁治夫婦の隣に住む、瀬田に移る
1926 23歳
野村と別れ、本郷の平林たい子と同居、12月本郷大和館で手塚緑敏と結婚
「ちくま日本文学全集・林芙美子」年譜より


草稿・メモ
本郷・駒込アナキズム界隈

新山の墓碑を探す過程で、本郷・駒込という地域がアナキズム運動、
アナキストたちにとって縁が深いことを認識させられた。
 東京の旧芝区の範囲で過ごし、西の世田谷に移り住むという経験の
中で本郷・駒込は私個人にとって「空白」の地域であった。何しろ
実際の東大構内、安田講堂を目にしたのも4,5年前という有様である。
山手線の内側といえば判りやすいかもしれない、少し範囲はずれるが、
江戸の大木戸を基準にすると芝と本郷・駒込は対角線の対を成す。
最も遠い距離であつたのだ。
都電が縦横に走っていた頃ならば品川から上野に行く1番の路線に乗れば
一度の乗り換えで行けただろう。
地下鉄の線が増え、複雑化した近年でもようやくいくらか時間が縮まった
程度である。
そういう認識であり不勉強も含めて、これまで白山上という地名が出ても、
位置関係が曖昧であった。
ようやく、新山初代が住んでいた蓬莱町を探索する過程で、はっきりと
「場所」が見えて、認識できたのである。俄かの本郷・駒込知識で
偏っていることを前提にうけとめて頂きたい。
望月桂さんに関しては小松隆二さんの15年前に刊行された『大正自由人
物語』に全面的に依拠するしている。
五十里幸太郎という存在も、不思議である。運動の周縁で人と人を繋ぐ
役割を為してきたのである。

また下宿家が密集していたこともあり、アナキズム系の詩人たちの生活域
でもあった。一時、「放浪記」の時代の林芙美子も大きな存在を果たし
ていたようだ。萩原恭次郎も意外なアナキストたちとの繋がりを後に発
表した詩や評論の中で垣間見せている。
小野十三郎も交遊がなかったようだが、実際行動のアナキストたち、彼女彼ら
を表現している。
この界隈で有名な「南天堂」は確かに詩人たちを軸にして捉える限りでは
大きな存在であろうが、「へちま」「ゴロニヤ」という短期に終わった「場」
も含め「三角二階」「渡辺宅=北風会」「労働運動社」「望月桂宅」
「新山初代宅」「観月亭」「三宜亭」の存在もアナキストたちが地域の中を
「彷徨」するのに大きな役割を果たしていた。

まず1916年から17年、北風会、労働青年の時代がある。
「三角二階」や「へちま」の時代。
渡辺政太郎、望月桂、久板卯之、五十里幸太郎
大杉栄、伊藤野枝は本郷菊富士ホテル(菊坂)

1923年から1925年を中心に
和田久が福田雅太郎を狙撃したのは、福田が関東大震災直後における、
戒厳令下の現場責任者という理由である。
狙撃は失敗した。菊坂を半分下ると、長泉寺に向う。

古田大次郎は本富士署にエヤー・シップ缶爆弾を投げ込む。
1924年9月3日
1924年7月19日谷中共同便所で試爆

24年はアナキスト詩人たちの南天堂時代
辻潤も出没
黒猫看板おでんや「ゴロニヤ」も流れに乗っている。

蓬莱町18
新山初代は南天堂を訪ねたか不明。萩原恭次郎も蓬莱町に下宿していた。

根津・団子坂
友谷静栄と詩集「二人」を発行
岡本潤は短い時期に友谷静栄と同居
岡本潤は宮島と同行して和田久太郎に面会。宮島資夫全集「月報」での回想。
小野十三郎は5,6年友谷静栄と同居
小野は林芙美子に良い印象は持っていなかった。
「奇妙な本棚」で回想。
萩原恭次郎は詩「市ヶ谷風景」において、古田大次郎を「大ちゃん」と呼ぶ
林芙美子は恭ちゃんと呼ぶ仲、小野のエッセーでは短期同居していたと記述
萩原恭次郎の評論、「学生街は美しい」燕楽軒を特別の場所と匂わせている

駒込がアナキストを呼ぶ
片町の「労働運動社」
近藤憲二
根津の望月桂宅
谷中の「へちま」
五十里幸太郎は全てに通じて存在感を示している。
岡本潤経営
黒猫看板の「ゴロニヤ」おでんや
五十里幸太郎
林芙美子
百瀬晋

前史
「北風会」
1916年7月
望月は久板に紹介されて渡辺政太郎に初めて会う
白山上に向かって坂の途中右手、古本屋
小石川区白山前38 二階六畳間
<寺島珠夫は有明堂としている>
から東片町82番地「三角二階」に移る
1917年後半に渡辺は指ヶ谷町<92番地>に移る
白山上から坂をだいぶ下ったところで途中で左手に
折れた路地の奥、釣堀屋の隣の小さな家であった。
1918年5月17日に亡くなる
1919年3月、研究会は有吉の座談会と合同。
北風会となる。
1922年、渡辺宅に黒瓢会がおかれる

『労働青年』
最後の二号は「へちま」と望月桂宅が
連絡先

『大正自由人物語』小松隆二
1988年8月発行、岩波書店刊行、2600円
望月桂
45頁
3民衆美術の創唱
谷中へちまの閉店
東京お茶の水下、猿楽町で氷水屋をはじめてから4ヵ月たった1916年9月、
望月桂夫妻はその店をたたんで、谷中の善光寺坂に同じ店名で今度は一膳飯屋、
つまり簡易食堂を開業した。
 谷中といえば、寺町。…
弥生町方面から谷中墓地方面に向かって旧都電停留所宮永町交差点をわたると、
ほどなく善光寺坂がはじまる。その緩やかな坂を上りかけたすぐ左手にでてくる
曹洞宗の名刹である。そはの道を隔てた真前がへちまであった。正確な地番は下
谷区谷中坂町21番地。現在の台東区谷中1丁目2番17号にあたる。今もその同じ場
所に、外見こそ違え、ほぼ同じ大きさの二階家が残っている。1944年以来住みつ
いている「クスリの松田」の看板を掲げた松田家の店舗である。


「腹がへってはどうもならん、先づ食ひ給へ飲みたまへ。腹がほんとに出来たなら、
そこでしつかりやりたまえ」
48頁
常連
宮崎安右衛門、久板卯之助、添田唖蝉坊、辻潤、和田久太郎、五十里幸太郎、菊池
暁汀
その日の食べ物も、金もない貧乏社会主義者や労働者がやってきてはツケで飲み食い
をはじめるのだが、そのツケも、踏み倒される方が多くなっていく。
宮崎の連れてきた行き場のない老人に同情したばかりに、一ヶ月も居候をされ、宿と
し三食を無料提供せざるをえない羽目に陥ることもあった。
望月夫妻はといえば、借金に追われ、お客の残飯を食する貧乏生活の毎日であった。

49頁
平民=民衆の生活と美術の関係を考える機会を与えられた。たとえば、まず店にやって
来る自由人、社会主義者からは社会的な目と認識を通して生活や美術を受け止める方法
を少しずつ学んだ。



56頁
1917年2月平民美術研究会
   3月平民美術協会

久板卯之助と望月が中心
毎週日曜にへちまの二階

1917年7月閉店1916年末から17年初めにかけての足跡こそ、日本におけ
る民衆美術運動の最初の第一歩となるものであった。そしてその記念す
べき本拠が、小さいながら、谷中坂町のへちまであった。
時期的には

<アナキズムの時代>
183頁
「地理的にも人間関係の上でも基点になる位置にいたといってもよい」
駒込千駄木町の家には、大杉、近藤憲二、和田久太郎、村木源次郎ら、
彼らとやや傾向の違う宮島資夫、中浜哲、古田大次郎、朴烈、金子文子
ら、また正進会、信友会などの組合員もよく顔を見せた。

久板
25日望月たち三人が湯ヶ島に到着
部落に着いたのは夕方、寝棺に納められていた
この夜火葬
26日遺骨を受け取る、現場確認
27日夜東京に戻る
31日夜神田で告別式、追悼懇談会
2月18日大阪で追悼会村木が参加
6月9日浅草で追悼会
『労働運動』1922年3月3-3追悼特集
石碑建立
久板卯之助終焉の地
1972年頃明美が甦らせる
『労働者』8号1922年2月久板の「美術観」を紹介


小野十三郎は「奇妙な本棚」<賭と恐怖>でアナキストたちの印象を語る。



事実、そのころ、わたしが、直接間接に接した革命運動の闘士(その多くは無政府主義者だが)の中には、対人的に、第一印象としては、そういう不安と恐怖感のごときものをあたえる人が多かった。

 革命的詩人とよばれる者たちのポーズにもわたしはそれを感じた。しかもその恐そうな人たち、あきらかにわたしがそれまで親しみ交わっていた友人知人たちとは異なる精神構造を持っている人間が、わたしにはなんとはかり知れざる魅力を持っていたことか。

 わたしはつとめて彼らに近より、彼らに気に入られるように努力し、そこで自分というものをためしながら、いつかは同志として対等のつきあいができるようになることを念願した。

 略

 大杉は別格として、そのような人物の中で、いまわたしが想い出すのは中浜鉄と古田大次郎である。

 この二人のアナーキストはわたしの出生地大阪にもかんけいがあったにもかかわらず、生前には一度も会ったことがないが、「赤と黒」の仲間などを通じて、彼らの人となりをきいて、なんとなく親しみをおぼえるとともに、当時わたしは、凡そ革命家とよばれる人間の理想的な典型を彼らにおいて見ていた。

 正直に云うが、わたしの頭の中にある革命家のイメージは、いまでも爆弾を抱いたテロリストのそれと、どこかではなれがたく結びついているのだ。

 その意味で、先日見たルネ・クレマンの「生きる歓び」というフランス映画に登場してくる時限爆弾をかかえた二人の髯面の無政府主義のカリカチュアとしても、これは少し大時代すぎたにせよ、単にわたしだけでなく、イタリヤやスペインやフランスなどにおいては、革命と云えば、それは今日でも、テロや爆弾のイメージをよぶ心理的伝統のごときものが抜きがたく存在しているようだ。…………


 岡本潤は詩・「閃光」で同志たちを想起

「真黒い闇の壁が俺達の前を塞いでいる
身をもって壁にぶっつかって行った友は
閃光をのこして闇に呑まれて行った
一人、二人、三人……五人……十人……
闇は吸盤をもって俺達の同志を吸いこんだ。



閃光と共に消えた友の最後の絶叫は俺達の胸にある!
  (和田久太郎君の追悼会の日に)」


小野十三郎は岡本潤を回想

きみの姿を最初に見たのは
あの白山上の大学の教室だった。
……


一枚のペン書きのハガキが眼に浮んだ。
「おもしろかった、この感覚の鋭さは、だが……」
それはきみからはじめてもらった便りだった。
きみは偶然読んだ私の詩をそういう風に批評してくれた。
私が大阪から上京して
本郷通りの路次裏の下宿屋にいたころだ。

文学について語り合う友もなく
大杉の「正義を求める心」や
辻潤の「ですぺら」が唯一の友だったとき
きみのこのハガキにある「だが……」から
私は強い衝撃を受けた。
いま、また、そのときのことを想い出している。

<一夜の回想 岡本潤全詩集に寄せて>
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# by tosukina | 2006-04-08 19:03

1900年代弾圧法

1900年代弾圧法

思想、社会運動を弾圧する法律は治安維持法以前にも露骨な内容で存在していた。
1  まず爆発物取締罰則がある。自由民権運動の加波山事件を契機に太政官布告として制定され、現代にも延命している罰則。公布1884年(明治17年)12月27日太政官布告第32号、「第一条 治安ヲ妨ケ又ハ人ノ身体財産ヲ害セントスルノ目的ヲ以テ爆発物ヲ使用シタル者及ヒ人ヲシテ之ヲ使用セシメタル者ハ死刑又ハ無期若クハ七年以上ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
 爆弾使用とは無縁だから関係ないと安心することはできない。1970年代には警視総監公舎事件や土田・日赤事件を始めとして多くのフレームアップ弾圧に活用されている。
 2 治安警察法。治安維持法制定以前の強固な弾圧法であるが制定以降も従前の集会、結社の自由を制限、弾圧する法律として機能。当初、早期の社会主義運動への弾圧、また労働争議が頻繁に起きたことへの対応として労働運動、組合結成への弾圧目的として制定。公布は1900(明治33)年3月10日。「第1条 政事ニ関スル結社ノ主幹者(支社ニ在リテハ支社ノ主幹者)ハ結社組織ノ日ヨリ3日以内ニ社名、社則、事務所及其ノ主幹者ノ氏名ヲ其ノ事務所所在地ノ管轄警察官署ニ届出ツヘシ…第6条 日本臣民ニ非サル者ハ政事上ノ結社ニ加入シ又ハ公衆ヲ会同スル政談集会ノ発起人タルコトヲ得ス 第8条 ① 安寧秩序ヲ保持スル為必要ナル場合ニ於テハ警察官ハ屋外ノ集会又ハ多衆ノ運動若ハ群集ヲ制限、禁止若ハ解散シ又ハ屋内ノ集会ヲ解散スルコトヲ得 ②結社ニシテ前項ニ該当スルトキハ内務大臣ハ之ヲ禁止スルコトヲ得此ノ場合ニ於テ違法処分ニ由リ権利ヲ傷害セラレタリトスル者ハ行政裁判所ニ出訴スルコトヲ得」1901(明治34)年に社会民主党、1921(大正10)年 日本社会主義同盟が結社禁止の処分を受けている。
 以下は臨席する警察官による「弁士中止」の根拠。
「第10条 集会ニ於ケル講談論議ニシテ前条ノ規定ニ違背シ其ノ他安寧秩序ヲ紊シ若ハ風俗ヲ害スルノ虞アリト認ムル場合ニ於テハ警察官ハ其ノ人ノ講談論議ヲ中止スルコトヲ得第11条② 警察官署ハ制服ヲ著シタル警察官ヲ派遣シ政事ニ関シ公衆ヲ会同スル集会ニ臨監セシムルコトヲ得其ノ集会ニシテ政事ニ関セサルモノト雖安寧秩序ヲ妨害スルノ虞アリト認ムルトキ亦同シ此ノ場合ニハ発起人ニ於テ又ハ警察官ノ主タル会同者ト認ムル者ニ於テ警察官ノ求ムル席ヲ供スヘシ 第12条 集会又ハ多衆運動ノ場合ニ於テ故ラニ喧擾シ又ハ狂暴ニ渉ル者アルトキハ警察官ハ之ヲ制止シ其ノ命ニ従ハサルトキハ現場ヨリ退去セシムルコトヲ得 略」 
3 行政執行法。治警法と同年に制定された「検束」の根拠となる法律。名称は地味だが無茶苦茶な適用がされる。公布、1900(明治33)年6月2日 法律第84号。行政執行法 「第1条 ① 当該行政官庁は泥酔者、瘋癩者自殺を企つる者其の他救護を要すと認むる者に対し必要なる検束を加へ戎器、兇器其の他危険の虞ある物件の仮領置を為すことを得暴行、闘争其の他公安を害するの虞ある者に対し之を予防する為必要なるとき亦同し ② 前項の検束は翌日の没後に至ることを得す仮領置は30日以内に於て其の期間を定むへし」。故森長英三郎弁護士によると(『山崎今朝弥』紀伊国屋新書、収載)「行政執行法で検束、たらい廻し、長期間拘束、拷問自白の強要、警察による一方的検束、警職法の前身である。<公安を害するの処>という抽象的なことばで、社会主義者はつねに故なく検束された。また翌日日没前に警察署の裏口から出して、そこで検束して表口から入れたり、他の警察署へ検束するたらい廻しを頻繁に行うことによって、前述した別件逮捕の代用品として利用せられた。1931年以降さらに活用、乱用。」
4 過激社会運動取締法。これは治安維持法につながる法律。二度、国会への上程策動があり、名前からして露骨なもの。1922年3月24日、過激社会運動取締法が貴族院で修正可決、衆議院では審議未了。1923年始めにも再上程策動。「労働組合法案」「小作争議調停法案」と共に労働3悪法といわれ制定反対集会とデモが行われる。
 1923年9月2日には関東大震災で戒厳令が出される。戒厳司令官は集会・新聞・雑誌・広告の停止、兵器・火薬等の検査・押収、郵便・電信の検閲、出入物品の検査、陸海通路の停止、家屋への立入り検査などの権限をもつ。
5 治安維持法。1925年(大正14年)法律第46号。「第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シ又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
『労働運動』紙8号によると(1925年2月1日発行)5面「<犯罪的サンジカリズム法>として加洲(カリフォルニア州)に於ける治安維持法が1919年4月から施行」と内容を紹介、「この例に倣って治安維持法を発布せんとしている」と記事掲載。「往年の過激法案は今護憲三派内閣の手によって装いを新たにして再び吾々に臨まんとしている、政府は各方面の反対者に対してその目的を無政府主義者及び共産主義者のみを圧迫するもの如く説明している、一般社会主義者、労働運動者、労働運動階級の解放運動に従うものはその適用を受けることを覚悟せねばならない」
 治安維持法制定直前だが、これらの一連の弾圧法により拘束が続いたのが不逞社の金子文子と朴烈。弁護人であった布施辰治は『運命の勝利者朴烈』(1946年刊)で弾圧の経過を記述。<1923年9月3日の逮捕は保護検束という行政執行法第一条の「救護を要すと認むる者に対して必要なる検束を加う」という規定の適用。9月4日には救護検束が24時間過ぎたので警察犯処罰令の「一定の住居又は生産なくして諸方に徘徊する者」の該当者として「拘留29日」を即決し、検束した世田谷警察署へ留置したのである。家主に対し検束直後「朴烈はもう還らない。永久に還らないかも知れないから、家を引き取って他の人に貸した方がよい」といって朴烈君の住所を失却せしめ、家財道具等を警察官立会の上で勝ってに処分させた、一定の住所無きものとして警察犯処罰令を適用>。この警察犯処罰令というのも警察署長またはその代理人が判決を出せる人権蹂躙の弾圧法。そして10月20日に治安警察法第14条の「秘密ノ結社ハ之ヲ禁ス」で起訴、市谷刑務所に収容。翌1924年2月5日に予審に付し、15日には爆発物取締罰則で追起訴。1925年10月12日、検事総長小山は刑法73条で大審院に付すべきという意見書を提出。まさに有事の際の「保護」から「大逆罪」まで一直線につなげた弾圧であった。刑法73条は1908年10月より実施、1947年現刑法より削除。「天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ対シ危害ヲ加ヘ又ハ加ヘントシタル者ハ死刑ニ処ス」。「加ヘントシタル者ハ死刑」と未遂でも大日本帝国憲法の核心である天皇(一家)への「危害」意志をも極刑で裁こうとした。故に制定後に適用された四つの事件のうち、幸徳事件、金子文子・朴烈事件の二つは現実には「危害」の行為はなく、大逆罪を拡大解釈したフレームアップ弾圧である。
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# by tosukina | 2005-12-07 05:13

布施辰治弁護士

報告
布施シンポと李文昌
斃れしアナキストたちと布施辰治
         
                




二〇〇五年一月一三日、「布施辰治・自由と人権」と題した記念シンポジウムが明治大学・明治大学法学部主催で開かれた。
 記念とは韓国政府が布施に日本人として初めて「建国勲章」を授与したことである。副題が「明治法律学校出身の社会派弁護士」。布施は明治大学とゆかりがあり公判書類、蔵書等の一部は明治大学図書館に遺族から寄贈がされている。
 布施が韓国で評価されたのは朝鮮人留学生による独立宣言への弾圧、出版法違反裁判への無償弁護を始めとし(一九一九年二月八日、神田の朝鮮基督教青年会館で宣言された)、義烈団、朝鮮での農民の土地問題、朝鮮共産党事件などの弁護活動、関東大震災下の虐殺事件の調査・抗議等はば広く朝鮮の民衆のために活動したことである。
弁護活動の一つに金子文子・朴烈の大逆事件もある。
第一部として関係者の挨拶が続き、遺族を代表し孫である日本評論社、大石進会長の発言でしめられた。
第二部のシンポジウムのパネラーは明治大学から山泉進法学部教授他一名、布施の伝記を執筆中という森正名古屋市立大学名誉教授、そしてソウルから招請された李文昌国民文化研究所名誉会長。(アナキズム運動人名事典編集委員にソウルから加わっていた)
李会長には昨年秋、ソウルにて開催された初期社会主義研究会の大会関連企画として市内見学があり友堂記念館の案内と設立の経緯の解説をお願いした。その際、山泉さんへソウルで開催された「布施国際学術大会(二〇〇一年)」に関わったことを紹介した。その縁で今シンポジウムへの招請につながった。
発言の主題は「朝鮮民族との連帯」、主要には朴烈・金子文子との関係で語り一九二二年からの布施と二人の邂逅から、大審院の法廷闘争での連帯の内容を語った。また布施の著作『自治研講和』から「無為而治」(為さずして始める)を引用、「人間生活の理想は誰からも支配されない自由と誰も支配しない平等の社会」を建設することにあると布施の理想を無強制無権力の完全な自治社会の実現にあると、論を展開した。

翌日、私の案内で李会長を金子文子の故郷である山梨の牧丘町へと誘う。事典編集委員であった山口守さん(一九九〇年代にソウルで東アジアにおけるアナキズムをめぐるシンポジウムを企画、李文昌さんと交友が始まった)、李京錫(イ・キョンソク)さん(東アジアにおける近代政治史を研究、亜州和親会に朝鮮からの参加者が存在したという論文を発表)が同行した。牧丘町訪問に先立ち塩山市内で「李文昌さんを囲む会」が開催され金子文子を通じての韓国、ムンギョンと山梨のつながりを重点にした懇談会を開かれた。遺族である金子こま江さん、牧丘町住民、教育委員会、山梨文芸協会、県生涯学習センター職員らこの間、金子文子に関心を寄せてきた人たち二〇名近くの参加者があった。
牧丘町の金子家では歌碑の説明を受け、葡萄畑から山並みを展望、築二百年前後という文子も出入りしたこま江さん宅に上がらせてもらい、文子の生きてきた時代を偲んだ。

三月一三日、布施の出身地、石巻市において布施辰治を語る会(市、市教委、布施辰治顕彰会主催)が開かれ李文昌さんが再び日本の地に招かれた。筆者も参加のため石巻を初めて訪問。布施の生誕地、記念碑を見学、布施辰治顕彰会の人たちと交流した。会場には二百人余りの市民が集まり熱心に聞いていた。
 講師のもう一人は岩手大の早坂啓造名誉教授。大正期に布施が扱った岩手の小繋(こつなぎ)入会権訴訟を語った。
 李会長は朝鮮独立と布施の関わりを語り「差別のない平和な社会は、今からの東アジアの共通課題だ」と結んだ。
 

布施辰治のアナキストへの弁護

布施がアナキストたちと関わった始めは布施柑冶『ある弁護士の生涯』によると一九一九年の大杉栄への新聞紙法違反への弁護ということである。(同書において著者は父親である布施辰治をF氏と客観的に表現している)
「大正八年(一九一九年)、九年F氏は大杉栄(新聞紙法違反容疑、つづいて尾行警官追っ払い事件)、高尾平兵衛(クロポトキン『法律と強権』秘密出版事件)、近藤憲二などのアナーキストの弁護をとくに記憶に残した。大杉が検事の公訴事実陳述、論告などに被告が敬意を表する理由はないと主張し、その前例を開いたとき、F氏は法律家として強く支持した」五四頁。
 布施は大杉の弁護人となる一三年前に「電車賃値上反対騒擾事件」で山口孤剣の弁護を引き受けている。大杉も同事件の被告であり面識ができたのはこの時であろう。
 森長英三郎の著書『山崎今朝弥』では「大正八年までは、実践的な社会主義弁護士としては山崎今朝弥一人だけであった。……大正九年に布施辰治が自己革命を宣言して、人道主義的弁護士から社会主義的弁護士に転じ、山崎と共に社会主義者や労働組合、農民組合の事件を弁護するようになり、布施、山崎とならび称せられるようになった。……」(一三三頁)と記述されている。
 布施は一九二〇年代、自由法曹団の中心弁護士として活躍。労働争議、朝鮮人、台湾人への弁護、借家人同盟の創設と驚異的な活動を展開、アナキストたちに対しては公判の弁護だけではなく、獄死(病死、自死、刑死)したケースで遺体を監獄当局から「奪還」、死因の検証、布施の自宅での通夜の世話と最大限に斃れしアナキストたちへの追悼と支援をなした。
しかし『ある弁護士の生涯』では金子文子・朴烈と福田狙撃・ギロチン社事件に関しては個別に記述があるがそれも具体的ではなく、他の関わりもほとんど書かれていない。そこで各文献から布施に関わる事項を年代順に整理した。

斃れしアナキストたちへの弁護
一九一九年一月二〇日 大杉栄、新聞紙法違反、『民衆の芸術』への執筆(一九一八年九月二三日頃発行の雑誌『民衆の芸術』中に恵まるる政治及生の反逆と題したる記事は安寧秩序を紊乱するものとして…官憲資料)東京区裁判所に於いて罰金百円の判決

一九一九年三月一七日 東京地方裁判所、無罪判決(官憲資料)『ある弁護士の生涯』では大杉の新聞紙法違反としか回想していないが大杉のこの時期の該当する裁判はこれだけである。しかし山崎今朝弥の『地震・憲兵・火事・巡査』には『民衆の芸術』編輯・発行人の大石七分への判決を資料として「馬・鹿判決」として掲載。
布施の大杉への弁護活動は山崎のテキストでは記述はない。

一九一九年七月二三日 大杉栄は尾行巡査殴打事件(五月二五日)午後五時拘引状を執行される。(官憲資料)布施は山崎今朝弥と共に弁護人

一九一九年八月四日 東京区裁第四号法廷に於て尾立判事の係りにて開廷

一九一九年九月一一日 東京地裁 懲役三ヶ月に処す 言渡し 上告 

一九一九年九月二七日 東京地方裁判所に於て田山裁判所長係にて陪席として鶴、尾高両判事竝に岩松検事立会公判開廷

一九一九年一〇月二日 第二回公判弁護士花井卓蔵、山崎今朝弥、布施辰治ら出廷 被告は先般も起立せす悪習慣は改めさるへからす依て起立するの必要なしとて起立せす…      

一九二〇年六月 高尾平兵衛、出版法違反、クロポトキン『法律と強権』謄写版刷り無届出版                       

一九二一年四月九日 近藤憲二、東京地裁、草野裁判長(第一審東京区裁、ビラまきで拘留二十日の刑で控訴)。近藤の回想によると当初は巡査への傷害事件でフレームアップされかかったが官憲は失敗し、ビラ撒きが弾圧の対象とされた。               

一九二三年四月 朴烈は、東亜日報張徳秀への殴込みで神田署に検挙、市谷刑務所に送られ既決囚扱いで頭髪を刈ろうとする看守と乱闘、布施が支援、弁護。金子文子はこの件で布施と初めて会う。「破れ障子から」『現社会』に布施の支援を記す。                  

一九二三年六月二六日 高尾平兵衛が右翼に射殺される。吉田一、石黒鋭一郎、平岩巌らの家宅侵入、傷害事件を弁護、裁判は関東大震災後                

一九二三年七月八日 高尾平兵衛の社会葬、葬儀委員長       

一九二三年九月一日 夜、市谷刑務所の収監者を見舞う。吉田一らと話す        

一九二三年九月二日 朴烈、四谷の布施事務所に寄る        

一九二三年九月三日 金子文子・朴烈、保護検束           

一九二三年九月一九日 朝、大杉らの行方不明につき村木源次郎と共に警視庁総監湯浅倉平を問い詰める『ある弁護士の生涯』        

一九二三年一〇月 金子文子・朴烈 治安警察法違反で予審調べが続く。布施が弁護                           

一九二五年一月二三日 村木源次郎の獄中危篤に立会う市谷刑務所 

一九二五年一月二五日 後藤謙太郎の死因追及で午後三時、巣鴨刑務所、佐藤典獄を問詰める                       

一九二五年一月二六日 午後一時半 雑司ヶ谷墓地で後藤の遺体発掘、布施が立会う(二七日という報道もある)後に江口渙が小説『彼と彼の内臓』に布施をモデルとした人物登場                

一九二五年 五月二一日 福田大将狙撃事件第一回公判、和田久太郎、古田大次郎らの弁護人となる。「裁判所に行く前(午前六時頃)に感想を書く、中浜君も僕も以前から弁護士排斥論者だった…一日で全部の(東京に於ける全部)の事実調べを済ませて、夕刻帰って来た」古田手記

一九二五年六月一六日 「今日は小阪事件の調べだが……張合いない(出廷前記)一一時開廷、先づ僕に対する小阪事件の事実調べを終わり、次に倉地君の事実調べの後休憩、午後再開、弁護士諸君の証人申請、……検事は全部必要なしとして却下し、裁判長は合議の上、只中村高一弁護士のみを証人として許した、次回は二七日。午後四時閉廷。」古田手記

一九二五年六月二七日 「一一時開廷、…僕に対する大阪小阪事件の証拠品調べが済んで、愈々検事の論告に移った」「午後再開、和田君の最後の陳述後、……布施氏縦横に弁を振るう事約一時間半、和田君に対する弁護を終えて、夕刻一時休憩、更に続行の筈だったが、裁判所の都合で中止となった、時に午後七時…」古田手記

一九二五年九月一〇日 判決『死刑の宣告を聞きにゆく日』 古田手記      

一九二五年一〇月一五日 古田刑死、布施は遺体を引取り通夜を催す              
                        一九二五年一一月一四日 金子文子・朴烈、布施弁護士を選任

一九二六年始めか、大阪の中浜哲控訴審を弁護                
一九二六年二月二六日 金子文子・朴烈第一回大審院公判

一九二六年三月二五日 大審院判決                    

一九二六年四月一五日 中浜哲刑死                    

一九二六年四月一六日 夜半、布施は中浜の遺体引取りに大阪に赴く 新聞報道

一九二六年六月 古田大次郎の獄中記『死の懺悔』刊行、布施は『原始』八月号に「古田君を偲ぶ」掲載

一九二六年七月三〇日 金子文子死去の報で布施は金子の母親、同志、医師らと宇都宮刑務所栃木支所に向かう、宇都宮刑務所所長に遺体発掘を要求、馬島医師と共に検分
                             一九二六年七月三一日 金子文子の遺体を荼毘に付し、夜雑司ヶ谷の布施宅にて遺骨安置                                 

一九二六年八月一日 朝鮮のアナキスト同志二名が追悼のため遺骨を移動、栗原一男、椋本運雄、金正根らが検束される
                     一九二六年八月一五日 三人は朝鮮テグにおける治安維持法違反にデッチ上げられ朝鮮に送られる、後に真友連盟事件で裁判になり布施も弁護に関わる、デッチ上げ予審起訴の解説を翌年『労働運動』誌に掲載

一九二六年八月一六日 朴烈の兄、朴廷植、息子を伴い東京に着く。(『ある弁護士の生涯』では布施が金子文子の遺骨埋葬全般に関わったと受け取られる記述があり、しばしば引用される。実際には朴烈の実兄が遺骨への対応と埋葬。                      

一九二六年八月三〇日 「…朴廷植は語る『文子の遺骨は私が直接持って帰るはずであったが警視庁から受取ってから別送する方が安全だという……子供は布施弁護士が養成するという様なことは噂で私の通訳のために連れて行ったままです』」『京城日報』

一九二六年一〇月、栗原、椋本、金正根らが大邱地方予審に廻される
                        
一九二七年三月八日、栗原らの予審が終結…免訴は覆り公判に付される。                     

一九二七年五月二六日、六月九日、一四日と三回の公判が開かれる。

一九二七年六月二五日 判決公判で栗原は懲役三年、即日下獄となり後に京城西大門刑務所へ移監させられる。
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# by tosukina | 2005-04-19 02:37

布施辰治と斃れしアナキスト

 布施がアナキストたちの弁護、支援に関わる始めは布施柑冶『ある弁護士の生涯』によると一九一九年の大杉栄への新聞紙法違反への弁護ということである。

 「大正八年(一九一九年)、九年F氏は大杉栄(新聞紙法違反容疑、つづいて尾行警官追っ払い事件)高尾平兵衛(クロポトキン『法律と強権』秘密出版事件)、近藤憲二などのアナーキストの弁護をとくに記憶に残した。大杉が検事の公訴事実陳述、論告などに被告が敬意を表する理由はないと主張し、その前例を開いたとき、F氏は法律家として強く支持した」五四頁。
 布施辰治の回想だけなのかメモが存在していたのか新聞記者である息子、柑冶の記述では明らかにされていない。

 布施は一三年前に「電車賃値上反対事件」で山口孤剣の弁護を引き受けている。
大杉も被告であり面識ができたのはこの時であろう。
 森長英三郎『山崎今朝弥』において「大正八年までは、実践的な社会主義弁護士としては山崎今朝弥一人だけであった。……大正九年に布施辰治が自己革命を宣言して、人道主義的弁護士から社会主義的弁護士に転じ、山崎と共に社会主義者や労働組合、農民組合の事件を弁護するようになり、布施、山崎とならび称せられるようになった。……」一三三頁。
 と記述されている。

 一九二〇年代は自由法曹団の中心弁護士として活躍。労働争議、朝鮮人、台湾人への弁護、借家人同盟の創設と驚異的な活動を展開、アナキストたちに対しては公判弁護だけではなく、獄死(病死、自死、刑死)のケースでは遺体を監獄当局から「奪還」、死因の検証、布施の自宅での通夜の世話と最大限の斃れしアナキストたちへの追悼と支援をなした。
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# by tosukina | 2005-03-30 13:56

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