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大杉栄

大杉栄『自叙伝』執筆状況

大杉栄『自叙伝』執筆状況

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『改造』誌 自叙伝連載第一回掲載写真

参考

『新小説』掲載テキスト、翻訳、「獄中記」 他にもあると思いますが未確認

1915年 20年-9号 動物界の相互扶助 

1916年 21年-1号 男女関係の進化 

1917年 22年-6号 大杉栄 テキスト名不明 

1919年 24年-1号 獄中記 

1919年 24年-4号 続・獄中記 

1919年 24年-9号 拘禁される日の前後 伊藤野枝 

1920年 25年-9号 新獄中記

『自叙伝』関連

★1921 7月13日『自叙伝』のため新発田を訪れる 

1921年 10月 『改造』10月号「自叙伝」第一回掲載「赤旗事件…」とテキストは始まる

1921年 
12月26日 『労働運動』1号 本郷駒込 片町15労運社、印刷人、逗子、近藤<大杉の住所><二度目の復活に際して>伊藤、近藤、和田、大杉<転居>逗子町966大杉栄

1922年
2月5日 大杉栄、八幡で演説、八幡罷工紀念演説会 

3月15日 『労働運動』第3号<先づ彼等を叩き倒せ> 大杉栄 <道徳の創造> 大杉栄 <永久の闘い> 大杉栄<ロシアにおける無政府主義者下> 大杉栄 <久板君の追悼> 

1922年
4月15日『労働運動』4号<革命の研究1> クロポトキン 大杉栄訳 <被告学秘訣> 大杉栄 <ソビエト政府無政府主義者を銃殺す> 大杉栄 <エマとベルクマン 1922.1.7>大杉栄訳 

<革命の研究2> <どっちが本当か> 大杉栄 1922 6月7日 四女ルイズが生れる

1922年8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄 

1922年9月10日 『労働運動』7号<革命の研究4>大杉栄 <編集室から> 村木の夏のお日様かんかん…栄 <生死生に答える>大杉栄 <トロツキーの協同戦線論>大杉栄 <労農ロシアの最近労働事情>大杉栄 <利口と馬鹿> 大杉栄 『黒濤』発刊

1922年9月30日 全国労働組合総連合会 午後8時30分解散を命ぜられ不穏の挙…検束

1922年10月1日 『労働運動』8号<革命の研究5>大杉栄 <編集室から>「パンフレットが飛ぶように出て行く。『青年に訴ふ』八千部刷り『革命の失敗』は五千部刷ったのが、どちらももう殆どない…二十日 栄」 <独裁と革命 無政府主義革命に就いての一問答> 大杉栄 <労農ロシヤの承認> 大杉栄 <労農ロシアの労働組合破壊> 大杉栄

1922年10月8日 大杉、伊藤、本郷区駒込片町15 労働運動社に移転

★1922年10月17日「風はまださっぱりしない。一昨夜一ばんかかって『改造』の原稿を二十枚ばかり書いたから、…」

★1922年10月21日 「…こっちはまたその前夜一晩徹夜して<自叙伝>を30枚ばかり書いたので、風は少々後もどりしたが、もういい。きょうからまた雑誌の編集だ、魔子と一緒に鵠沼へ行った。<自叙伝>は一日遅れて11月号には載らない。もう少し書き足して、12月号に載せることにして、その前借りをした。……」

1922年10月24日 伊藤野枝宛「……おとといときのうと、二日かかって<革命の研究>と<ボルの暴政>を書いたんで、きょうはうんざりしてしまった。……」

1922年10月24日 伊藤野枝宛「今、手紙を出したばかりのところへ、……きのう源兄に叢文閣から出す論集(『無政府主義者の見たロシア革命』のきり抜きをやらした。また正月号の分まで入れるのだから、もっと大きくなるには違いないが、今のところでもちょっと三百枚ほどありそうだ。……)」

1922年 10月27日 伊藤野枝宛「きのう予定通り金がはったので、40円だけ送った。春陽堂でまた『相互扶助』の印税がはいったのだ。……きょうやっと雑誌の編集を全部終った。……」

★1922年 10月31日 伊藤野枝宛「帰ると、留守に来た改造社からの使いがまた来る。12月号の論文を至急書いてくれというのだ。アルスからも叢書(アルス科学知識叢書)や『種の起源』を本年中に出したいと急いで来る。大英断をやって、この二週間ばかりの間に大仕事をしようと思ってきょうここ(鵠沼海岸の東屋)へやって来た。仕事の予定は、<自叙伝>12月号の後半と1月号。<論文>12月号(11月号には総連合についての、友愛会やボルのコンタンを書いたが、こんどはその理論の方をやる)<論文>1月号(マルクスとバクーニンの喧嘩)<無政府主義者の見たロシア革命>(まとめるのと翻訳のまだ済んでいないのとをやりあげる)<種の起源><科学知識叢書(二冊)半分やって印刷所へ廻す。……30日……きょうは一日外出して、今はこの手紙書き、朝飯がすんだら鎌倉行き」

1922年11月1日 『労働運動』9号 印刷人近藤、労運社住所<革命の研究6>大杉栄 <編集室から>大杉栄「逗子の家を引きあげる、社の二階の八畳で暫く親子四人がごろごろする。二人は九州へ立って了って、僕と魔子が八畳の主人。今まで此の室と其の隣の六畳とがぶっ通しになって、編集室になっていたんだが、こんどは編集室を下へ移して、六畳の方は近藤の室となった 下は、八畳は編集兼事務室となってそこへ村木と中名生とが机を並べている。六畳は玄関兼食堂だ。そして台所の奥の三畳は、物置兼村木ご隠居のひる寝部屋だ」<組合帝国主義> 大杉<ボルシエヴイキの暴政(三)>エマ 大杉訳<労農ロシアの新労働運動> 大杉

★1922年 11月3日 伊藤野枝宛「……夕方、改造社から原稿取りの使いが来たが、それを待たしておいて今書いている最中だ。……<自叙伝>の方はさっきいい加減にすまして、今論文を書きかけているところだ。今晩はどうしても徹夜だろう。あしたは朝の間寝て、その間に魔子も迎いにやって、ちょっと東京へ帰る。いろいろ用もあるし、……」

★1922年 11月5日 伊藤野枝宛「……『改造』の原稿は思ったより大ぶ枚数が減ったので、前借を引かれて70円ばかりしか貰えなかった。『労運』と『改造』と送った。『改造』の12月号は14,5日頃に出るそうだから、こんどはすぐ送る。……あしたからまた一週間ばかり鵠沼だ」

★1922年 11月8日 伊藤野枝宛「おとといこっちへ(鵠沼海岸)来たのだが、きのうの昼すぎになって急に行って見たくなったので、魔子を鎌倉へ連れて行って長芝(村木源次郎の親戚)へあずけて、一人で上京した。…きのうの半日ときょうの半日とで、<自叙伝>の今まで書いた分を直してしまった。書くときにはずいぶん一生懸命になって書いたんだが、今見るとあちこちいやになって仕方がない。が、直すのも大変だし、大がいはそのままにしておいた。すぐ改造社へ送って、組みはじめさせる………」

1922年 11月10日 伊藤野枝宛「きょうは一日あなたの原稿の直しをやった。ずいぶん少ししきゃ、やっていないんだね。普通のお話のところはまあいいが、少し込み入って来るとまるで駄目だね。<ボルの暴政>もやはりそうだったが。こんなことじゃ理屈物はとても読めないよ。少しみっしり勉強してくれ。ダーウィンはやり始めているかい。『無政府主義者の見たロシア革命』の原稿の整理も済んだ。きのう叢文閣へ電話したら、先生はまだ寝ているそうだが、大喜びでいた。『昆虫記』も大へん景気がいいそうだ。再版の用意に誤植の直しをしておいてくれと言っていた。…」

★1922年 11月16日 伊藤野枝宛「…叢文閣の『ロシア革命』のまだ足りない部分をきょうやっと書き上げた。……菊半栽で、三百頁をほんの少しこすだろうが、紙表紙で一円五十銭ぐらいにする予定だ。あしたからは『自叙伝』の書き足しだ。全体で七百枚くらいになるだろうが、もう三百枚ばか書かなければならない。が、その半分は『獄中記』や<死灰の中から>の書き抜きだ。12月号の『改造』には、また例の礼ちゃんとのあまいところをうんと書いたから、お千代さんのようにどうぞ怒らずに読んでおくれ。村木がゆうべ帰って来て、…」

1922年 11月20日 フランスのコロメルからベルリンで開催予定の国際アナキスト大会招待状が届く

1922年 12月11日 自宅を密かに抜け出す、和田久太郎を手伝わせる 

1922年 12月12日 朝、神戸に着く、ホテルの部屋で『自然科学の話』の翻訳原稿を直す

1922年 12月14日 イギリスの船で神戸を出発、上海に向かう。

1922年 12月 上海で中国の同志を訪ねる、ロシア人の下宿に落着く 

1923年 1月1日 『労働運動』10号 <理想主義的現実主義> 大杉栄 <根岸正吉君の死> <ボルシエイキの暴政> エマ 大杉栄訳  <労働反対運動の現在及将来> 大杉栄 <新鋭の朝鮮労働運動> <再生した共済会> 京城無名漢 <黒友会の成立 日本における鮮人労働運動> 黒友会 申煖波

1923年 1月5日 大杉栄、ル・ボン号で上海を出る 

★1923年 
伊藤野枝宛「今晩コロンボに着く。出すつもりでこの手紙を書く……『種の起源』を二、三章と『改造』への第一回通信をほんの少し書きかけたくらいのものだ。……『自叙伝』は手もつけてない。……船がどこの国の何という船かということが分ってはまずいから、途中の手紙はいっさい発表してはいけない。」

2月10日 『労働運動』11号 <マルクスとバクニン> 大杉栄 <ボルシエイキの暴政五> 大杉栄 

★1923年
3月1日 伊藤野枝宛「3月1日正午、と言っても、東京では午後10時25分だ。パリにて。…翌日、郊外にいる支那の同志連を訪問した。…その後はほとんど毎日、支那の同志とばかりの会見だ。リヨンにも10人ばかりいたが、ここにも20人ばかりいる。それをまとめてしっかりした一団体をつくらせようと思うんだが、ずいぶん骨が折れる。しかしもうほぼまとまった。この支那人連の大会をやることにまでこぎつけた。…船の中で書きかけた原稿を、今日からまた始める。二、三日中に送る。それを改造社へ持って行って、金にして、また電報為替で送ってくれ。本や雑誌はみな受け取った。『自由連合』が来ないが、まだ出ないのか。」

1923 3月10日 『労働運動』12号 <マルクスとバクニン下> 大杉栄 

★1923年
3月28日 伊藤野枝宛「僕についてのいろんな風評は日本や支那の新聞でちょいちょい見ている。社での問題の、結局は大衆とともにやるか、純然たるアナキスト運動で行くかは僕もまだ実は迷っている。風で寝た二日目か三日目かに『労運』への第一回通信を書き出した。そして30枚近く書いてて熱でほとんど倒れるようにして寝てしまった。『改造』への通信もまだ未定のまま放ってある。これもこんどこそは本当に書き上げる。原稿は××に宛てよう。しかし、とにかく僕は今すぐドイツへ行く。ベルクマンやエマもいるようだし、マフノと一緒に仕事をしたヴォーリンなどという猛者もいる。ロシアのことはベルリンに行かないと分らない。材料だけ集めればたくさんだ。1年の予定はたぶんもっとよほど縮まるだろう。2月号の『労運』見た。3月28日」

★1923年
3月31日 伊藤野枝宛「……風も腹ももうすっかり治った。……原稿もきょうようやくあとを書き続けたところだ。……あとは、ドイツへ行くヴィザの問題だが、これは大ぶ難問題らしい。……警察の方の話がついたらまたパリ行きだ。それからあとはどこへどうふっ飛ぶことやら。……きょうはもう原稿もよしだ。これからリヨンの町へでも遊びに行こう。ここは郊外だ。……3月31日」1923 4月1日 『労働運動』13号 

★1923年 4月5日 「日本脱出記」『日本脱出記』脱稿              

1923年 4月29日 大杉栄、パリにて林倭衛、佐藤紅録と会う   

★1923年 4月30日 「パリの便所」『日本脱出記』脱稿

1923年 5月1日 サン・ドニのメエ・デエ 大杉演説                                    

1923年
5月25日 林倭衛宛「きのうの朝放免と同時に警視庁へ連れて行かれて、すぐ国境まで出ろという命令を受けた。……友人諸君から金を集めて日本までの船賃をつくってくれないか。ルクリュ『地人論』)というのの古本を買って来てくれ。二百フランばかりだ。それから裁判所から受取ったケースの中に、予審判事が(この事実は弁護士も知っている)証拠物件として持ち出した、日本文の手紙や原稿なぞがはいっていない。これは弁護士と相談して、貰えるものなら貰って来てくれ。…僕の拘引以来の、僕に関する新聞記事をあつめて貰ってくれ。…二十五日正午。栄 」

1923年 6月3日 大杉の船、「朝早く、碇をあげた」       

★1923年
6月7日宛 林倭衛宛「……地中海は実に平穏だ。……あしたの朝は早くポートサイドに着く。……『自叙伝』の装ていを忘れるなよ」       

7月1日 『労働運動』15号 <編集室から> 近藤憲二「国際無政府主義大会へ出席の為に出かけて行った大杉は、大会延期のため、遂に三ヶ月のフランス滞在の後に、追っ払われて帰って来る。…」<国際無政府主義大会の延期 捕われる以前> 在仏 大杉栄「ここに来て、もう10日ちかくなる。3月1日パリにて、大会は又日延べになって……2月号『労運』見た。3月28日フランス発」

★1923年 
7月11日 箱根丸にて、「牢屋の歌」『日本脱出記』脱稿

7月11日 「神戸港港外和田岬に待ち構えた兵庫県警察部のモオタアボオトは箱根丸から大杉をさらって隠し、市外林田警察署で内務省の特命を受けた特別高等課長は約五時間に亘る秘密訊問の後、釈放」         

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1923年 7月12日 大杉、東京に戻り駒込片町15労運社に落ち着く                                    

1923年 8月9日 長男ネストル誕生  

★1923年 8月10日 「入獄から追放まで」『日本脱出記』脱稿 




# by tosukina | 2022-12-24 03:22

「春三月縊り残され花に舞う」

1911年3月24日 同志茶話会が開かる。神楽坂倶楽部。

 大杉栄、出席 「春三月縊り残され花に舞う」 の句を読む

 「春三月縊り残され花に舞う」 _d0011406_11155819.jpg


アルス版『大杉栄全集』より。 下部の文字が切れているのは全集に収載時の製版のずれであろうか?

 「春三月縊り残され花に舞う」 _d0011406_1118978.jpg

近藤憲二による「編集後記」。写真解説の部分。

以下は全集各巻のグラビアより。
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# by tosukina | 2012-03-24 11:14

1916年11月3日に向けた大杉栄の悪戯

「大杉栄の経歴及び言動調査」より

近来自己に対する警察側の処遇苛察に渉り諸事圧迫的の態度ありと憤慨し11月3日当日挙行あらせをるへき立太子礼を機とし何等か異常の行動に出て警察当局をして狼狽せしめ以て復習的手段に出つると同時に従来沈衰せる同志の志気を鼓舞する所あらんと発意し

10月28日
同志吉川守国、渡辺政太郎、村木源次郎、荒川義英等と大杉栄の宿所に会し立太礼当日同志八、九名連合して行啓御道筋に出かけ警護線を騒擾せしむるか若は同志随所に所在を晦まし又は恰も事ありけに同志間を往来して警察を狼狽せしむるの行動に出らんと談合し越えて

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11月1、2日両日に渉り
 村木源次郎に旨を含めて同志有吉三吉、五十里幸太郎、吉川守国、荒川義英、渡辺政太郎等の間を往来し連絡を計らしめ2日夜大杉栄方に吉川守国、有吉三吉、荒川義英、村木源次郎、鮎沢貫一(長野県在住)辻ノエの八名会同しそれより打連れて
 日本橋区南伝馬町2の12料理店鴻ノ巣に入り(鮎沢は途中にて一同と別る)協議を重ね其の結果自動車に分乗して所在を晦韜し

翌早朝(立太子礼当日)
相州三崎方面に旅行せんと計画せしも自動車の雇入意の如くならさりし為果さす依って散会し帰宅の途中各自尾行巡査を瞞き所在を晦まさしことを申合せ夫々帰途に就きたり更に大杉は

翌3日午後6時頃外出
神田区佐柄木町の一料理亭に到り同所に待合せ居たる知己6,7名と会飲し打連れて外出間も無く一同と別れ

 折柄後方より疾走し来れる自動車に合図し之に飛乗り何処かへか行方を晦ましたるも間もなく情婦神近イチ(主義者)方に宿泊せるを発見せり斯く大杉を中心とせる一部主義者は種々の計画を為したるも其の目的を達するに至らすして止みたり



# by tosukina | 2011-11-03 01:48

1885年→1912年 大杉榮クロニクル其の壱 1912年9月16日 大杉栄 <発刊事情>『近代思想』

大杉 栄 を中心としたクロニクル

確認データ元、項目末尾の記号、『未完大杉栄遺稿』はI  『初期社会主義研究』大杉栄特集・大澤年譜はO  『 評伝大杉栄』秋山清はA 『大杉栄書簡集』はL

1885年 1月17日 丸亀で生れる。一家はすぐに東京に移り麹町区の幼稚園に通うが、父は近衛連隊から左遷され新発田に赴任。大杉は幼少年期のほとんどを新発田で過ごす。

1889 末 父親が新発田に転任 I

1891 小学校に入学 I

1897 中学校に入学 I

1898 陸軍幼年学校の試験に落ちる、独り旅で東京、名古屋、大阪を知る I 

1899 名古屋地方幼年学校に14歳で入学。

1901 秋、大阪にて二週間遊ぶ。11月末、退学処分となる。I

1902 1月2日 新発田の家を出て、語学を学ぶため東京へ向かう。牛込矢来町、下宿。猿楽町の東京学院に通う。

1902 4月 四谷箪笥町仏蘭西語学校

1902 5月頃 下宿で谷中村の鉱毒事件への追及運動に触れる

1902 6月 母親が死去

1902 10月 順天中学の五年に入る、本郷壱岐坂下に下宿

「万朝報」を購読し軍隊外の社会を知る。

1903 3月頃 本郷教会に通う、海老名弾正の説教を聴くJ O

1903 9月 外国語学校に入学 O

1903 10月 洗礼を受ける、教会員となる O

1903 11月15日『平民新聞』創刊、大杉、幸徳秋水、堺利彦たちの非戦論に共鳴。彼らによる平民社の結成を知り、講演会を聞く

1904 3月 「社会主義研究会」に出席。その後、頻繁に平民社に出入りするようになる。『平民新聞』の海外事情欄に運動事情を訳載 I 3月13日 O

1904 3月頃 この頃、月島の下宿に移る

1904 7月19日 名古屋の社会主義者茶話会に出席。1904.7.31発行『平民新聞』38号に記事掲載

1905 7月 外国語学校卒業 Iの記述は翌年

1905 8月 『直言』に欧州社会党指導者の反戦論稿を翻訳掲載「社会主義と愛国心」 O

1905 10月 平民社解散

1905 『光』の発刊を手伝う

1906 2月24日 日本社会党、会場平民病院において結成。大杉は加盟していない。(電車事件判決理由)、不明 A。参加 O。

1906 3月5日 麹町区元園町2の5 由文社同居 C

1906 3月15日 電車値上反対の市民大会に参加、其の夜か翌朝に兇徒聚集罪により逮捕

1906 3月22日 東京監獄に移される A・L

1906 5月頃 U.S.A.の幸徳より『バクーニン全集』が送られる A・L

1906 6月21日 保釈で出る I

1906 7月9日電車事件、東京地裁無罪判決

1906 9月 堀保子と結婚、牛込田町で同棲 I

1906 11月『家庭雑誌』編集・経営、淀橋町柏木に移る A

1906 11月『光』掲載「新兵諸君に与ふ」(訳載)で新聞紙条例違反で起訴

1906 12月16日 エスペラント学校の卒業式で訓辞

1906 12月『光』廃刊

1907 1月 日刊『平民新聞』創刊

1907 2月 日刊『平民新聞』に「欧州社会党運動の大勢」を執筆、無政府主義者の名乗り I

1907 2月 この頃、豊多摩郡淀橋町柏木に移る O

1907 3月 日刊『平民新聞』クロポトキン「青年に訴う」翻訳

1907 4月14日 日刊『平民新聞』発禁

1907 この頃、亜州和親会で演説したという O

1907 5月28日 「青年に訴う」、最後の一章のために起訴、禁錮三月、巣鴨監獄に入る I

1907 5月31日 新聞紙条例違反に依り大審院に於いて軽禁錮四月罰金五十円に処せられる、入獄中のため引続き服役

1907 巣鴨監獄にて「…本を読む。バクニン、クロポトキン、ルクリュ、マラテスタ、その他どのアナアキストでも、まず巻頭には天文を述べてある。…」J

1907 11月11日 巣鴨監獄から出獄、直後劉師培、張継らの「社会主義講習会」に招かれる、牛込区赤城元町清風亭 O

1907 11月25日 電車事件東京控訴院<無罪判決>

1908 1月3日 淀橋町柏木318番地に移る

1908 1月17日 治安警察法違反、屋上演説事件で巣鴨にまた入れられる。禁錮一月半。本郷弓町の平民書房の屋根から「屋上演説」。「冨の鎖」を合唱 I

1908 1月20日 東京監獄に入る

1908 1月22日 巣鴨監獄に移る

1908 2月7日電車事件、大審院判決は原審破棄、宮城控訴院に移す

1908 2月10日 治安警察法違反に依り軽禁錮一月十五日に処せられる

1908 3月26日 出獄

1908 4月3日 栃木佐野町大雲寺での両毛同志会に参加、講演

1908 4月6日 麹町区飯田町、劉師培宅での日本滞在中国人のエスペラント講習会の講師

1908 6月13日 電車事件、兇徒聚集罪に依り宮城控訴院に於いて重禁錮一年六月に処せられる

1908 6月16日電車事件、罰金の2名を除き上告

1908 6月19日 前日出獄した山口孤剣を上野停車場で出迎え、赤旗四本をなびかせる。荒畑寒村が交番に引きずり込まれるも大杉ら同志が押しかけ奪還。

1908 6月22日 赤旗事件[山口出獄歓迎会で赤旗を振り回し警官隊と乱闘、14人の逮捕]、で未決監

1908 7月14日 電車事件、大審院上告棄却

1908 8月15日 赤旗事件第一回公判、第一の旗手大杉君は左の如く答弁せり。「同志は会場に居たりし間、無政府党万歳を叫び、革命の歌を唱えしも、場外に出づる時は最も静粛なりしに拘らず、門を出るや忽ち一名の巡査飛び来りて『旗を巻け』と言い様、赤旗に手に掛けて奪わんとせり。されど余は何等の命令も受けし事なし」「前述の如く旗を持て場外に出るや、門外に待伏せ居たる警官は『旗を巻け』と叫びて、強て是を奪わんとす、余は『理由なくして所有権を取んとするものは、強盗なり』と叫びて争えり、此時続々と同志の退場し来るを見し警官は更に他の旗に飛び行きて是を奪わんとしつつありたり。…」『熊本評論』29号 1908.8.20

1908 8月22日 赤旗事件第二回公判

1908 8月29日 赤旗事件判決、治安警察法違反及官吏抗拒罪に依り重禁錮二年六月罰金二十五円に処せられる(前刑通算)

「次で大杉君も亦『裁判長!』と疾呼して何事をか言わんとした、然し驚愕の色を眉宇に浮かべたる裁判長は、『今日は言渡しを仕た迄だ、不服があれば控訴せよ』と言い棄てて去んとする。茲に於て大杉君は『無政府党万歳!』と叫んだ他の同志も我劣らじと『無政府党万歳』を連呼した。…』傍聴席には60余名の同志が列席し、新聞社席には都下の新聞記者及幸徳秋水、坂本克水、徳永国太郎、等の諸君が着席して居た。大杉君は、かか大笑して居た。非常に感情の興奮する時、吾等は彼の此の哄笑を聞くのである。」『熊本評論』31号1908.9.20

1908 9月9日 千葉監獄に移される O

1908 12月19日 堀保子宛手紙「生物学と人類学と社会学との大体を研究して…」

1909 11月2日 父親死去

1909 12月23日 堀保子宛「左の本持参を乞う。仏文。経済学序論。宗教と哲学。英文、。イリー著、経済学概論。モルガン著、古代史。個人の進歩と社会の進歩。ロシア史」

1910 1月25日 堀保子宛「ドイツ文の本を何か頼む。…」

1910 2月24日 堀保子宛「フランスへ本を注文したいと言ったのは、…」

1910 6月16日 堀保子宛「今見たい本は『帝国文学』の発行所から出るもので物集博士の日本文明史略…」

1910 9月2日 千葉刑から東京監獄に移され、幸徳秋水たちの大逆事件に関連した取調べを受けるが弾圧は免れる。C・A

1910 9月16日 堀保子宛「英文。ダーウィン航海記。ディーツゲンの哲学。ショーのイプセン主義神髄。クロのロシア文学。モルガンの古代社会。…」

1910 9月22日 大逆事件の取調べ 東京監獄に移送→O 

1910 この間 「僕は大逆事件の被告たちのほとんどみんなを見た。…ある日幸徳の通るのを見た」

1910 11月29日 大杉栄満期出獄、大久保村百人町212

1912 1月18日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 2月25日 同志茶話会、堺方、「安倍磯雄の総同盟罷工論への批評」[調査書]

1912 3月23日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 3月29日 鎌倉より府下へ転住。(柏木)

1912 4月28日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 5月26日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 6月28日 神田美土代町青年会館「ルソー」200年記念会(堺、高島主催)に出席

1912 6月30日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 7月   大杉栄、荒畑寒村、新雑誌の発行を計画

1912 7月28日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 8月9日 同志樋口伝方における山口義三送別会に出席

1912 8月28日 千葉監獄より出獄の片山潜出迎え、両国停車場

1912年 9月16日 大杉栄 <発刊事情>記す『近代思想』10月号




# by tosukina | 2011-09-29 07:00

1912年10月1日 大杉榮クロニクル其の二 1914年9月15日 2011年9月16日

1912 10月1日 『近代思想』刊行、調査書「幸徳伝次郎発行『自由思想』の購読者名簿に拠り各地方の同志に対し葉書を発送して該雑誌の購読を勧誘」  1912 10月 『近代思想』10月号掲載 大杉栄テキスト<本能と創造>評論<発刊事情><9月の評論>

1912 10月1日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 10月20日 大杉栄 <大久保より>「大赦令が出た」「寒村、社の裏隣に引越してきた」『近代思想』11月号

1912 10月24日 大杉栄 <大久保より>「寒村の病気がよくなった」『近代思想』11月号

1912 10月 大杉栄 <六合雑誌から>『近代思想』11月号

1912 11月 『近代思想』11月号掲載、大杉栄テキスト<ナイヒリストの死>小話<近代科学の傾向>評論<大久保より>雑録<六合雑誌から>

1912 11月2日 同志茶話会、堺方、談話記載無し

1912 11月 大杉栄 <座談>「パリの雑誌『門外漢』、『白樺が好きだ』、『太陽』内田魯庵」『近代思想』12月号

1912 11月19日 大杉栄 <大久保より>「先月の末に寒村と横浜へ、そして偶然浜辺を散歩してるベルギーの紳士と支那の淑女とに出会った。二人ともソシアストだ。紳士はセンデカズムの事などを話す、淑女は張継の消息などを聞かす……」『近代思想』12月号(調査書記載無し)

1912 11月20日 大杉栄 <大久保より>「今日はミカドのお帰り遊ばす日、半日検束」『近代思想』12月号

1912 12月 『近代思想』12月号掲載、大杉栄テキスト<法津と道徳>感想<唯一者>評論<座談>感想<大久保より>雑録

1912 12月10日 大杉栄 <大久保より>「あちこちのオヂさん達から手紙が来る。若宮卯之助、山田嘉吉、内田魯庵……吉川と寒村と三人連れで浅草の印刷所からアンダー・ゼ・タワーの見物に出掛けた、寒村が先導になって吉原に繰り込んだ……そのかわりに帰りによか樓をおごらした。……野依の入獄……」『近代思想』1月号

1913 1月 『近代思想』1月号掲載、大杉栄テキスト<近代仏文学の一面観>評論<思索人>感想<大久保より>雑録

1913 1月4日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 1月12日 在横浜同志 金子新太郎等の開催新年会

1913 1月25日 堺方茶話会

1913 1月 大杉栄 <大久保より>「鴻の巣、高等視察が話の模様を尋ねた上に主人の身の上まで詳細に調べて行った」(寒村の大久保よりは第1回小集の報告)『近代思想』2月号

1913 2月 『近代思想』2月号掲載、大杉栄テキスト<道徳の創造>感想<奴隷根性論>評論<石川三四郎に送る><共和祭>小説

1913 2月2日 大杉栄、秋田監獄、坂本清馬に面会

1913 2月27日 堺方最後の茶話会、大杉参加

1913 2月 大杉栄 <青鞜社講演会>『近代思想』3月号(調査書記載無し)

1913 2月 大杉栄 <大久保より>「1月26日、日曜日を期して、同行10人ばかりで郊外散歩に出掛けた。……古河力作の墓……管野須賀の墓……染井の墓地に新村忠雄と奥宮健之の墓…(調査書記載無し)…2月2日、秋田行、坂本清馬……同行崎久保静江……2月9日、近代思想第2回小集」『近代思想』3月号

1913 3月 『近代思想』3月号掲載、大杉栄テキスト<羞恥と貞操>評論<青鞜社講演会>批評<怪物>小説<2月の小説>批評<大久保より>雑録

1913 3月22日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 3月23日 堺と共に横浜滞在ベルギー副領事、ゴールベールト訪問

1913 3月28日 大杉栄 <編集室より>『近代思想』4月号

1913 4月 『近代思想』4月号掲載、大杉栄テキスト<社会か監獄か>詩<創造的進化>評論<腹がへったあ!>対話<超人の恋>評論<編集室より>雑録

1913 4月16日 日比谷公園内霞亭、同志集会 日比谷公園機械体操場の茶屋、堺利彦、野澤重吉の発起 平民会 集まる者40余名

1913 4月22日 大杉栄 <大久保より>「同人講演会、青年会館から会場貸与を断って来た………一士官学校生徒があった……その軍人が二三日前に、危険思想を持っていると云う理由で、もう来月卒業と云う処を、退校を命ぜられて了った。死んだ横田兵馬も幼年学校を卒業する間際に、矢張り危険思想のかどで退校させられたのだったが、その後アナーキストになった。……19日の夜、近代思想社第4回小集を、例の鴻の巣に開く。12名参加……16日午後、日比谷公園機械体操場の茶屋で、堺利彦、野澤重吉の発起で平民会と云うものが催された。集まる者40余名……5銭の会費でみかんとせんべいとすしを食って、斎藤兼次郎の尺八、添田平吉のよみ讃り歌、蓄音機と云うような余興で、半日遊び暮らした」『近代思想』5月号

1913 5月 『近代思想』5月号掲載、大杉栄テキスト<何が新しいんだ>批評<大久保より>雑録

1913 5月 大杉栄 <大久保より>「前号に書いた、士官学校を退校させられた人から、手紙が来た………」『近代思想』6月号

1913 6月 『近代思想』6月号掲載、大杉栄テキスト<征服の事実>評論<チョット面白い>批評<「女学生」>批評

1913 6月 大杉栄 <大久保より>「5月は社の都合で小集を休んだ。そのかわり本月は、人数もいつもよりは多く、随分にぎやかな会だった。……実はこの会の記事をどう書こうかと困っていたのだが、幸いにも暮村居士から前期の記事を送って来てくれた。……集まる者……久板卯之助…16名」『近代思想』7月号

1913 6月7日 横浜、サンフランシスコ行きの山形県人登坂高三を見送る

1913 6月7日 近代思想社寄稿家招待会 日本橋メーゾン鴻巣

1913 6月29日 同志茶話会、藤田四郎方、

1913 7月 『近代思想』7月号掲載、大杉栄テキスト<新しい女>感想<生の拡充>評論<中村星湖君に答ふ>批評<大久保より>雑録

1913 7月6日 シンヂカリズム研究会(藤田四郎方)を開き、出席者15名、大杉は「シンヂカリズム」を実行し来れる歴史及方……一時間に渉り説明

1913 7月22日 大杉栄 <大久保より>「鴻の巣が麹町の隼町にひっこしした。12日に、そこで、第6回小集を開いた。集まるもの、お客の長谷川天渓氏の外に同人15名。荒畑と僕と発起して、本月の始めからセンヂカズムの研究会を始めた。もう2回会合をしたが、毎月二回づつ、二人で講演をやる筈だ。」『近代思想』8月号

1913 8月 『近代思想』8月号掲載、大杉栄テキスト<むだ花>感想<大久保より>雑録<新刊>批評

1913 8月3日 大久保百人町、大杉方、大杉「今後シンヂカリズム研究会を自宅において開催」、平塚明子、木村駒子、宮崎光子等とも協定

1913 8月中 大杉栄、上海の状況を聴く[調査書]

1913 8月17日 大杉宅 シンヂカリズム研究会 安成二郎と問答、総同盟罷工、佛国に於ける無政府主義者は……

1913 8月   大杉栄 <大久保より>「生方敏郎を訪ねる、小川未明、相馬御風を訪ねる。センヂカズム研究会は、神田のあるミルクホールの二階を借りてやっていたのだが、……そこの主人を呼びつけて……お前は今から検束して了う、……寒村が本号に訳す筈であった『婦人解放の悲劇』は、青鞜社の方でも9月号に出すそうだからお譲りする事にした」『近代思想』9月号

1913 9月 『近代思想』9月号掲載、大杉栄テキスト<野獣>感想<鎖工場>評論<みんなが腹がへる>感想<イグノラント>批評<大久保より>雑録

1913 9月7日 シンヂカリズム研究会同志16名参会、ベルギー滞在中の同志石川三四郎の「サンジカズムの激進」(萬朝報掲載)に対し評論

1913 9月20日 藤田四郎方、同志茶話会

1913 9月    大杉栄、発病 

1913 9月    大杉栄 <大久保より>「本月は芸術座講演会を利用して、13日の夕方、更に安成二郎を援兵に乞ひ、……青年会館の門前で400部あまり、配り散らした……」『近代思想』10月号

1913 10月 『近代思想』10月号掲載、大杉栄テキスト<生の道徳>評論<大久保より>雑録

1913 10月5日 大杉宅 シンヂカリズム研究会 会する者総て13名、大杉は講話「資本家と労働者」 

1913 10月19日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉は出席という記述のみ

1913 10月22日 大杉栄<大久保より>「丁度桂の死んだ11日の夜、京橋元数寄屋町の富嘉川で久しぶりで社同人の小集を催した。……集まるもの15名……」『近代思想』11月号(調査書記載無し)

1913 11月 『近代思想』11月号掲載、大杉栄テキスト<大久保より>雑録

1913 11月2日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、シンジカリズムを論議したる書籍…  1913 11月16日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、萬朝報の華山の論への批評

1913 11月28日 寒村 <大久保より>「大杉が器官を悪くして……7日、大杉、堺、橋浦、二郎、僕、それに故人の親戚友人10人ばかりで、山本飼山の遺骸を落合の火葬場に送った。…僕等5人だけ分れて、帰途、焼芋屋へ上がり込んだ。……盛岡は出獄して間も無く、発狂して自殺し、山本は早稲田大学を出ると、ぢきに今度の最後を遂げて了った。……」『近代思想』12月号(調査書記載無し)

• 12月 『近代思想』12月号掲載、大杉栄テキスト<必然から自由へ>評論

• 12月22日 大杉栄<大久保より>「……医者の厳

命によって、まだ床に就いている。……師復という人から、エスペラント文の手紙が来た。…」『近代思想』1月号

1914 1月 『近代思想』1月号掲載、大杉栄テキスト<生の創造>評論<時が来たのだ>批評<大久保より>雑録

1914 1月18日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 雑談、荒畑「自分の論文に堺が批判した事」、大杉、堺批判を為す

1914 1月23日 大杉栄 <大久保より>「この8日にまる二月目に床を離れて、4,5日間葉山に遊びくらした。そしてまだ多少鋸っていた病勢を全く振い落して帰って来た。……とうとう本月も行数の計算をするだけで済まして了った。……で、近日僕の一家は、当分何処かの海岸へ転地する積りだ。……暮れと正月二回休んだセンヂカリズム研究会は、この第三日曜の18日から始まった。次回即ち2月1日から数回に亘って、寒村はサボタージュ論を、僕は直接行動論をやる。……」『近代思想』2月号

1914 2月 『近代思想』2月号掲載、大杉栄テキスト<再び相馬君に与ふ>評論<大久保より>雑録

1914 2月1日 大杉方 シンヂカリズム研究会 出席者、斎藤兼次郎、福田武三郎、有吉三吉、相坂佶、橋浦時雄、百瀬晋、堀ヤス、荒畑勝三、竹内たま、安成二郎(上記二名未編入者)及本人の11名

1914 2月6日 鎌倉町字坂ノ下22に家を借り受ける

1914 2月15日 荒畑方 サボタージュ研究会出席(調査書の誤記)

1914 2月15日 大杉栄 <大久保より>「尚僕は堀保子と共に、此の6日に鎌倉坂の下22に転居した。そして社へは寒村一家が、寒村のあとへは二郎一家が来た。僕は毎月一日及び十五日の前後2,3日は社或は売文社にいる。」『近代思想』3月号

1914 2月20日 大杉栄、入京 荒畑方宿泊

1914 2月22日 築地精養軒 近代思想、生活と芸術 執筆者晩餐会 同夜鎌倉に戻る

1914 3月 『近代思想』3月号掲載、大杉栄テキスト<叛逆者の心理>評論 パラント 大杉栄訳

1914 3月3日 大杉栄、上京、堺、荒畑を訪れる、

1914 3月7日 鎌倉に百瀬晋と荒畑来訪、百瀬は30日に退去、荒畑は二泊

1914 3月15日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 獨逸人「ローラー」の直接行動論の一部労働時間の短縮に付き講話

1914 3月 呉塵は修学の目的を以て渡来入京…本国在住当時1913年頃上海付近に於て無政府主義者師復の経営に係る機関雑誌「海鳴録」(後「民声」と改題)を購読し且つ師復と交際を結び共に主義の伝道に熱中したることあり本邦渡来後早くも在京大杉栄等と懇親を結び1915年7月20日長崎市に移居同年8月中上京の際8月15日大杉の主催せる「平民講演会」に出席し尚長崎に転居以来は常に同人と書信を往復する等密に中央同志と連絡を保ち殊に1916年1月以来大杉の紹介に依り深町作次と交通して主義的意見を交換しつつあり又同年2月26日『民声叢書の一、無政府浅説、無政府主義名著叢刻、民声(海鳴録共)26号迄』の書籍を書面(中国文)と共に某友人宛送付したる模様あり…………

1914 3月   寒村 <大久保より>「題は『大久保より』だが、実は京橋の売文社で、校正をやり乍ら書くのだ。21日の朝、青年会館に故平出修氏永訣式があって、社からも大杉、僕、二郎などが往った。当日堺は弔文を朗読する筈だったが、遂に姿を見せない。後で聞いたら、日を間違えて居たんだそうだ。帰りには長谷川天渓、相馬御風、馬場孤蝶、土岐哀果の諸君と一緒に、神田の常盤で昼飯を食った。天渓御風2氏に別れてから、或るカフェに入って、堺と貞雄とを電話で召集し、一行7人夜おそくまでヨタリ歩いたので、馬場氏はお客に待ち呆けを喰わせ、土岐は音楽会に往き損い、大杉は鎌倉へ帰り損って了った。……百瀬晋は売文社を飛び出して、今は鎌倉の大杉の処に居る……」『近代思想』4月号

1914 4月 『近代思想』4月号掲載、大杉栄テキスト<主観的歴史論>評論

1914 4月2日 大杉栄、帰宅

1914 4月15日 荒畑方 シンヂカリズム研究会 前々回(3月15日開会)に引続き講話、「資本家と軍隊・警察、労働者」

1914 4月    寒村 <大久保より>「大杉夫妻の病気は、此の頃大分よくなった。そして大杉は『近代思想』に書いた論文と、外2,3の雑誌に載せた物とを纏めて、近々某書肆から出す筈で、目下その整理にかかって居る。………」『近代思想』5月号

1914 5月 『近代思想』5月号掲載、大杉栄テキスト<知識的手淫>告白<正気の狂人>評論<『婦人解放の悲劇』>批評

1914 5月27日 大杉栄 <大久保より>「……此の雑誌のあまりの馬鹿々々しさに、もうとても堪えられなくなった……僕等自身の手淫的満足と、同志の間の連絡維持とは、多少果たす事が出来た。しかし僕等は、アナルシストとして又はセンジカリストとして、積極的には何事もしていない。……労働雑誌の創刊を企てた……僕は、鎌倉の土地にあきが来たのと、……此の月末に、もとの大久保の家即ち社に帰って来る。社には今寒村がいるのだが、寒村は社の隣のもとの家にかえる。そして其処に入っていた安成二郎は、何処か近所にひっこす事となった。」近代思想』6月号

1914 6月 『近代思想』6月号掲載、大杉栄テキスト<寄付金募集>広告<新刊>批評<大久保より>雑録

1914 6月15日 シンヂカリズム研究会 大杉の談話、「イタリアのストライキとマラテスタ」

1914 6月25日 大杉栄 <大久保より>「……『新潮』の中村武羅夫君が、一昨日のひるすぎ生田長江君と一緒に僕を訪ねて来た。……とうとう9時間ばかり話がはづんだ……」『近代思想』7月号

1914 7月 『近代思想』7月号掲載、大杉栄テキスト<寄付金募集>広告<賭博本能論>評論<銅貨と銀貨とで>感想<大久保より>雑録<新刊>批評

1914 7月1日 シンヂカリズム研究会 会する者13名(内未編入者4名)雑談、斎藤兼次郎「オーストリア皇儲の暗殺……」大杉は「爆裂団は何でも堅い処に当てなければ破裂せぬと云うが……外国の天皇は日本の様な馬鹿な取締をなさんが実に勇気がある云々」

1914 7月15日 シンヂカリズム研究会 吉川守国以下10名(内未編入者2名)、大杉は去る13日乃至15日の萬朝報紙上に佛国の同盟罷工と題する在ブラッセル市…石川三四郎の寄書に依ればマラテスタは想像の如く…単純なる同盟に非らずしてレボリューションの目的を以て蜂起したるものなることを知りたりとて其の所以を説明し更に……

1914 8月1日 シンヂカリズム研究会 会する者9名、(内未編入者2名)雑談、大杉は来たる10月発行せんとする雑誌に関し談話

1914 8月15日 シンヂカリズム研究会 大杉は雑談「非戦論…日本が米国に敗けて呉れればよいそうしたら大変自由に成るだろうと言うたら……」

1914 8月 『第三帝国』に寄稿の「欧州の大乱と社会主義者の態度」が「安寧秩序を妨害するものと認められ其の発売頒布を禁止せらる

1914 8月27日 大杉栄 <大久保より>「いよいよ廃刊号を出す事となった。……僕等の新しい雑誌は『平民新聞』と名づける事にきめた……しばらく来なかった下痢と風とに襲われて了った。そして13日から19まで寝て了った。20日の朝は、起き上がって書き始めようと思っていたが、こんと。は保子が風にかかって起き上がれない。僕は早速参考書を10冊ばかりりカバンにつめて葉山へ出掛けた。しかし葉山の3日間は、只大体の筋をつくったのと、………僕の論文集『生の闘争』が9月中旬に新潮社から出る。……同じく9月中旬、新潮社の新潮叢書の一篇として、僕の翻訳ダアインの『種の起源』が出る。それから、これも9月中旬頃、実業之世界社の新智識叢書の一篇として、僕の翻訳ギュスタヴ・ルポンの『物質非不滅論』が出る。…本月16日発行の『第三帝国』に僕の『欧州大乱と社会主義者の態度』が載った。そして『第三帝国』は、僕の外に2,3の原因はあったそうだが、発売禁止になった。………」『近代思想』9月号

1914 9月1日 シンヂカリズム研究会 大杉、談話「資本家の愛国心、普佛戦争、アルサス、ローレン」

1914 9月1日『近代思想』9月号掲載、大杉栄テキスト<『生の闘争』序>感想<文壇の唯一者>

批評<妄評多謝>批評

<名判官>小説、大杉栄訳<大久保より>雑録

1914 9月15日 シンヂカリズム研究会 例会日なりしを以て夕刻より吉川守国、橋浦時雄、斎藤兼次郎、百瀬晋、有吉三吉、久板卯之助等の同志参集して大杉の帰来を待ち居りたり……講話を辞し……談話、



# by tosukina | 2011-09-28 08:46

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