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大杉栄

1921年1月29日『労働運動』1号 大杉榮クロニクル其の九 →1922年9月10日『労働運動』7号

1921 1月29日『労働運動』1号

<本の運命>週刊『労働運動』は此の準備のために生まれる

<英文>1月23日 住所 労働運動社 神田北甲賀町12

<同志諸君に>労働運動社同人近藤、大杉、中村、和田久、高津正道、伊井敬、竹内一郎、寺田鼎、岩佐、久板

<病室から>僕ひとりここに引越して来た、露国興信所、実はロシアの下宿屋だ。麹町区有楽町3の1露国興信所内 大杉栄

<お伽噺>大杉栄『漫文漫画』『悪戯』収録ロシア行き、ロシア人下宿

1921 2月1日 週刊『労働運動』2号

<病室から>

<鎌倉の若衆>

1921 2月10日 『労働運動』3号  

1921 2月15日 2月来持病の肺患発熱 2月15日 京橋区築地聖路加病院に入院 村木源次郎看護

1921 2月20日『労働運動』4号  

1921 3月6日 『労働運動』5号 <駿河台から>大杉の病気は数日前から余程よくなってきた

1921 3月12日 <調査書>『労働運動』第5号 200部を和歌山市支部 500部を八幡市日本労働■■へ発送せり

1921 3月20日 『労働運動』7号

1921 3月29日 退院

1921 4月3日 『労働運動』8号 <退院します>鎌倉小町 三月二八日 大杉栄

1921 4月24日 『労働運動』9号 <駿河台から>大杉は一週間に一度位は社に来る、最終記事面に住所が記載される

1921 5月13日 『労働運動』11号

1921 6月3日 同15日附週刊新聞労働運動第6号に「青年に訴ふ」と題する記事を掲載せるを以て新聞紙法違反として取調中の処分新聞紙は単に内閲の為印刷せるに到り為め証拠不充分の理由に依り6月3日不起訴事処分に附せられたり

1921 6月4日 『労働運動』12号 五月九日の社会主義大会検束者一覧 10日の『東京朝日』記事、検束までの様子

1921 6月15日 神田区北甲賀町駿台倶楽部内労働運動社内に大杉主催北風会を開催す会同者約50名倶楽部内労働社内に大杉の主催し北風会を開催す約50名……大杉の……講演をなす「昨夏頃より所謂知識者階級の大部分が無政府主義傾向気分を帯びたりと前提しクロポトキン…革命を…バクニンは実践家なり■而してクロポトキンは革命的一揆は即ち革命の縮図なりと……の際に於ける……現在の如く……革命は……思い吾人■多大の労力と……云々」

1921 6月25日 『労働運動』13号 一面英文記事が無くなる 北甲賀町

1921 7月21日 大杉栄、赤欄会夏期講習会、第四夜講師

1921 11月中秋季社会主義大会の計画に参加し堺利彦と共し講演に参加11月13日仙台市に於て岩佐作太郎、中村還一、加藤(更蔵?)等と共に検束を加えられたり

1921 11月  神奈川県三浦郡逗子町に移転

1921 12月4日 東京市麹町区元園町1の44番地 赤瀾会本部の親睦会に出席す

1921 12月 <調査書>月刊新聞「労働運動」発行事務所として適当なる場所物色中の折柄警視庁近藤栄蔵一派の経営に係る東京本郷区駒込片町15番地所在に売文社が経営困難になり廃業する中急遽同家屋を譲受け近藤憲二の住い敷金300円を売文社関係者に支払し1921 12月25日近藤及和田久太郎の両名をして同新聞発行事務に当らしめつつあり

1921 12月24日より3日間 東京市神田区北甲賀町駿河台倶楽部に於て在京特別要視察人の開催せる「ロシア」飢餓救済展覧会 2点を出品検閲の結果治安に害ありとして撤去を命ぜられる

1921 12月26日 『労働運動』1号 本郷駒込 片町15労運社、印刷人、逗子、近藤

<大杉の住所>

<二度目の復活に際して>伊藤、近藤、和田、大杉

<転居>逗子町966大杉栄

<窃盗の改宗>大杉栄「千葉監獄、窃盗の罪はなるべく軽い方がよい……」

<岡っ引共奴が>大杉栄「警視庁特別高等課、社会主義者の大陰謀、暁民会、高津夫婦だけを残して放免」


1922 1月21日 久板卯之助凍死

1922 1月25日 服部浜次より、久板卯之助が静岡県下天城山麓に於て凍死せる報に接するや即時東京市本郷区片町労働運動社近藤憲二宛「久板に僕から■■から何程かをて呉風引行かれぬ宜しく頼む」

1922 2月1日 『労働運動』第2号

<ロシアにおける無政府主義者1> 大杉栄

<久板卯之助君凍死す> 1月25日

1922 2月3日 上京自己経営の労働運動社に到るや■■尾行を脱し同志岩佐作太郎、近藤憲二、和田久太郎と共に所在を眩まし西下せる形跡ありしが果して同月5日福岡県八幡市に潜行し同日午後6時より同市通(?)町十一丁目活動常設館「有楽館」に元日本労友会長浅原健三の主催に係わる八幡製鉄所騒擾事件の二周年記念演説会に出席左の演説を為し臨官警察官より「中止」を命ぜられる■の八幡の上空を覆う煙を一日たりとも止め得る■せは死んでも厭わぬと他人に語り其の後程遠からずして圀圄の身となり獄中生活中自宅よりの通信により八幡の煙が一日に非ず数日に亙りりて止たるを聞き間もなく出獄して今日同盟罷業二周年記念演説会に列席することを得たるは歓喜に堪えず而してして労友会は全滅の姿なるも本演説会に斯く多数の集会を合せらるる点より結合せば同会の精神は残存し居るものと喜ばざるを得ず■ふる吾人が十数年前に絶叫したる事実は■頃具体化し米騒擾事件にて労働者は大に自覚し近く露西亜の軍命に依り日本の資本家も幾分恐怖の念を抱き且露国の労働者が資本家を」(中止)

○………和田久太郎、近藤憲二、岩佐作太郎と約1時20分間密談せり……大阪市に会合し直接行動に関する………而して大杉は福岡県編入甲号の廣安栄一を使者として本日、支那、台湾、上海、朝鮮等に密航せしむべく両人間に画策したる模様あり(福岡県通報)

1922 2月7日 ○大杉は八幡市よりの帰途2月7日夜大阪駅に下車し武田伝次郎、大串孝之助、逸見直造等主催の大阪府下西成郡今宮町■■し旅館……歓迎会に出席したるが■集会は公安を害するものと認め……せられる中不穏の挙に出られしとするの言動を■たるに以て同志26名と共に所轄今宮警察署に検束され翌8日午前3時釈放せられ(大阪府通報)

○大杉は2月7日夜前項会合の場に於て武田伝次郎方に労働運動大阪支局を復活せしむに計画ある論議をしたり(大阪府通報)

○2月7日午後八幡市よりの■■途同志岩佐、近藤、和田、渡辺、大串、逸見の6名同伴、京都駅に下車し■し合の上尾行を■せんと努たるも………結局午後3時祇園石段下の■肉店■■に落合い其処にて三条青年会館に在し当時京都府編入岡本八■■太に対し尾行厳重に付当地の同志を訪問せず又同志の来訪を受けざるを可と思う■電話したる後午後5時頃迄飲食の上、東上を散歩中、清水寺にて集まり入洛せし同志山田、三田村両名と会し午後7時京都駅よりり乗車東上せり(京都府通報)

1922 2月5日 『労働運動』記事 八幡罷工紀念演説会 2月5日、有楽館に於て「……労友会は幹部十数名の入獄によって、遂に解放の止むなきに至った。其後、労友会の一部の人は、坑夫協会との提携によって一大団結を企てたが、この計画も亦失敗に終った。………去る2月5日 この日は罷工二周年紀念の日である。労友会の残党諸君は、せめてもこの日を紀念するために、一つにはまた労働運動促進の為め、同市の有楽館に演説会を開催した。………そして僕等も亦、この演説会に参加する事を得た。……

 2月4日朝×時、僕と渡邊君とは関西の××駅に途中下車して、一汽車おくれて来る大杉、岩佐両君を待つ事にした。」

 駅の待合室にいると、襟巻で顔を深く包んで青服姿の男が前に突立って、『どうだ分らないか』と云う。僕はその声で始めて和田君だと知った。どうもうまく化け込ぢゃったね。三人はそう云って笑った。

 列車に乗り込むと、大杉君はいなくて、岩佐君だけが眠むそうに窓に寄りかかっていた。汽車は西へ西へと走った。四人は欲張って眠られるだけ眠った。

 翌5日、小春日和のような暖かさであった。僕等は開会の時刻の来るまで浅原君の二階に籠城することにした。……………

 午後4時頃、待っていた大杉君がひょっこりと顔を出した。『おひる頃着いたんだが、今まで活動写真を見ていた。新派ものの詰らぬ写真だったが、すっかり泣かされて来たよ。馬鹿々々しい』彼はそう云いながら座った。

 定刻前に、聴衆は館に満ち充ちて、身動きもならぬ程であった。………次は和田久太郎君。拍手は新しく起った。和田君は『賃金増加、時間短縮が……八幡の罷業は日本の労働運動に大いなる刺激を与えた。精神を与えた。この意味に於て八幡の罷業は労働者の一大勝利と云うべきである。』と述べたが、また中止。

 その時、僕は聴衆の中から飛入演説を申し出ると、浅原君すかさず『15分でよければ……』と八百長よろしくあって、演説に立ち『多数は力である、と云う。然し徒らに豚の如く肥った労働団体が、資本家に対してどれだけの脅威であるか?』と述べ階級意識に目覚めた精悍なる労働団体の必要を説いた。

 元労友会幹事廣安栄一君の紹介で大杉栄君が壇上に突立った。聴衆は歓呼之れを迎えた。警官は狼狽し、会場は急に殺気だった。官憲はこの時始めて、前に出た奴等も矢張りうさん臭い奴だったな、と気づいた。

 大杉君は

『僕が10年前当地を通過した時、汽車の窓から幾百となく突立った巨大な煙突を見て、友人と共にこの煙が労働者の手によって一日でも止められたなら、僕は死んでもいいと話した事がある。一昨年、僕が獄中で寒さに苦しんでいた時、突然八幡の煙が止った、同盟罷工が勃発したとの報知があった。5年前までは、労働運動は余り利重大視されず、暖簾に腕押しの状態であった。諸君も5年以前には決してこの煙を止め得るとは考えなかったであろう。然るに今日では、この煙が止まった位で死んでもいい、と云えば、諸君は笑うであろう。それまでに運動は進んだ。』と冒頭して、

『我国の労働運動は、米騒動を以て一新紀元を畫し、労農ロシアの革命によって刺激され、影響する所が少くなかった。』

 とて、我国の労働運動に就いて述べんとしたが、中止を命ぜられた。

 岩佐作太郎君は………翌日午後、僕等は八幡を去って帰途についた。(憲)

<九州での話>……賀川豊彦君が……北九州の各地で聖書の講義をしたりり、思想問題の講演会を開いたりしている時だった。

 大杉君が門司に着いた日は、丁度、同地で講演会の開催中であった。で、時間つぶし旁、こっそりと傍聴には入った。そして後で話していた。

『どうも賀川君は演説がうまくなったものだ。そしていろんな事をよく覚えている。でも、やっぱり馬鹿をいうのでね』

 そしてまた『よっぽど弥次ろうかと思ったが、怒鳴ると折角ここまでうまく来たのがバレるので我慢して了った』と云っていた。まあそれでも、聖書の講義でなくてよかった。………(憲)

<飛んだ道草>……大阪に着くと早速武田君を尋ねた。……天王寺で湯を浴びてから、四人とも尾行をマイて了った。

 夕刻、一足おくれて着いた大杉君も、直ぐ姿を消した。午後8時半、約束の今宮町の春の家へ行くと、もう30人ばかり集っていた。大半は以前から知っている人達であったが、その内の10人程は友愛会の所謂『野武士組』の人達であった。話は自然『野武士組』の事から始まった。本誌前後に和田君が書いた『野武士的結合の傾向』に就いて、また大阪の労働運動の傾向に就いて。………それから大杉君を中心に、話は抽象論から具体的な運動方法に移った。10時頃だ。急に廊下が騒がしいくなった。『ははあ嗅ぎつけたな』僕等は直ぐそう感じた。果して20名余りの査公が来て、『皆さんで署まで来て貰いたい』と云う。仕方がないから皆んなで出かけた。今宮署は春の家からは極く近かった。大阪の諸君は署の二階で仕切りに足を踏み歌を高唱していた。僕等四人は下の一室にいたが火鉢の暖かさでつい椅子に寄って眠って了った。午前3時。ゆり起されて目が醒めた。もう帰ってもいいとの御宣托。大阪はとうとう妙な道草を喰って了った。(憲)

『労働運動』第3号  1922.3.15

1922 2月15日 大杉一派の労働運動社(一名北風会)に於ては諸種の事情により其後主義研究会を中絶し居りしが2月15日午後7時より同社内に於て例会を開催

1922 2月中……1月より経営せる月刊雑誌労働運動の事業に関し同年2月中和田久太郎、伊豆味正重をも加え尚中村還一とも気球を通じ無政府主義者の勢力を挽回し以て堺利彦、山川均、近藤栄蔵等の共産主義一派に対応すべく主義宣伝用として「リーフレット」「パンフレット」を発行しつつあり

1922 3月 神田青年会館……団体新人会員…主催に係わる過激社会運動取締……大杉共の一派は開会前より入場…出演弁士に

1922 3月15日 東京労働同盟会例会(元北風会)を開催

1922 3月15日 『労働運動』第3号

<先づ彼等を叩き倒せ> 大杉栄 

<道徳の創造> 大杉栄 

<永久の闘い> 大杉栄

<編集室から> 憲「久板君の追悼号は、付録として別に出す積りでいたが、編集の都合でやめにした。その代わり次号にも引き続き掲載するから、同志及び友人諸君は、どしどし投稿して呉れ。異色ありし同君を紀念するために」

<ロシアにおける無政府主義者下> 大杉栄 

<久板君の追悼> 村木源次郎 大杉栄 

<追悼日誌> 

<愛着の古雑誌> 中村還一「『労働青年』……」

<性格の異彩(一)>久太

「『キリスト』と呼ばれた久板君の戯れ名は、一時、同志の間に有名なものだった。……」

<卯之さんの絵> 望月桂 「画才、写生旅行、最初の油絵は一昨年の夏であった」

<真の革命家> 紀伊 村井林三郎

<決死の尾行> 伊藤野枝「最初の尾行か。疲労から病死」

<結婚の意志はあった>堺利彦「見合いを設定した」……

<彼と性欲> 岡野辰之介

<凛然たり>「K・Y生 強烈な意志、大阪でのエピソード……」

1922 4月15日 『労働運動』4号

<革命の研究1> クロポトキン 大杉栄訳 

<被告学秘訣> 大杉栄 

<ソビエト政府無政府主義者を銃殺す> 大杉栄 

<エマとベルクマン 1922.1.7> 大杉栄訳 

<性格の異彩(二)>久太 「商業学校、牧師、『同志社叛逆組』、彼にも大きな煩悶の時代がやって来た。夜となく昼となく『如何に生くべきか』と考え耽り始めた。かくして何ヶ月かの後ち、彼は斯う結論を得た。『最も正しく生きるには労働生活の他にはない。そして、社会生活する上に最も必要なことは、人の最も嫌う労働をすることであらねばならぬ』そこで彼は『労働運動』、糞汲みが一等いいと考えついた。即ち、久板君の有名な『糞汲哲学』だ」

1922 6月1日 『労働運動』5号

<革命の研究2> 

<どっちが本当か> 大杉栄 

<性格の異彩3 久板君の追憶> 久太「『労働青年』執筆>……」「『百年後の新社会』を勧める、彼は其の頃から、強く『個性の尊重』を叫んでいた。大杉君の家に同居して『労働新聞』を始めたのは大正七年一月だった、正月芝居でのエピソード」

1922 6月7日 四女ルイズが生れる

1922 7月9日 安成二郎宛「緑葉の何とかいう小説はそんなものなのか……」

1922 7月11日 安成二郎宛「きのう読んだ。そう大してまずくもないじゃないか。モデルとしての苦情は別としてだね。」

1922 7月23日 大杉栄 イヴァン・コロゾフを訪問、不在 〇露国人「イヴァン・コロゾフ」退出命令あるや大杉栄は…… 惜別慰問の目的を以て……伊藤ノエ、同人私生児魔子…7月23日神戸……同人妻「クララ」に会見大杉■伊藤……慰問後自著「二人の革命家」と題する書籍一部を手交し……安谷寛一……

1922 8月上旬 「森戸問題発生を動機として…」翻訳パンフレットを発行 大杉栄及同人を■■する一派は1920年初頭森戸問題の発生を動機として…活動注目に値するものありしも漸次共産主義派圧倒さるの傾向あり同志中説を変■へきへて堺、山川等に■るものあれり以て之か防止と■勢の挽回とに関し而方画策の結果機関雑誌「労働運動」の外ピータークロポトキン原著「青年に訴ふ」及バクーニン原著「革命の失敗」等の翻訳パンフレットとして発行し又東京府下亀戸在住の同志庄司富太郎方に本年8月上旬来数回の隠密会合を開き大杉栄よりバクーニンの無政府主義に関する講演を為す外同月末自由労働者同盟なる団体の組織を企■■之を宣告し綱領を作成■■印刷して緒方面に配布し同月30日夜深川区富川町21番地プロレタリア社の其発会式を挙げべく密かに通知せる等■や活動■■■■■■

1922 8月1日 『労働運動』6号 <革命の研究3>大杉栄

1922 8月27日 <自由労働者同盟生る> 毎朝未明から『人市』が東京の方々にたつ。数千の労働者が羅漢様のように突っ立って労働力の取引をする。……イワユル『立ちん坊』自身の固い団結を作るろうぢゃないかと云う話しは、毎朝突っ立つ『人市』の『たまり』での、何時からかの、宿題だった。その話は次第に熟して行った。数度の協議の後、8月27日に富川町の四畳半ぽっきりの家で、各『たまり』からの20数名の発起人の手によって、ここに後記の宣言、綱領、規約をもつ『自由労働者同盟』が成立した。

 富川町の坂野兄弟、堀川久、三河町の南、石山、中濱、伊串等の諸君や、鮮人の孫、白武、の両君などが、中堅だ。思想団体にも出入し、アナーキの色彩の濃い人達だ。かくて組合は成立した。が、其の活動は今後に見なければならぬ。………

 本誌にもテツ公が信越の監獄部屋の事を書いてる。……(幸力)

宣言………自由労働者組合

綱領………

規約………本同盟は、富川町部、花町部、三河町部、朝鮮部よりり成り当本部を深川区富川町21番地に置く。『労働運動』第7号 1922.9.10

1922 8月

<状勢>大杉一派…深川プロレタリヤ社……横浜在住の同志も之に応じ「横浜自由労働者組合」を組織することとと為し……東京岩佐作太郎以下多数無政府主義者の来援を得て発会式及宣伝集会を開催せんと計画せるを以て……

1922 9月8日 宮島資夫宛「……10月号の『新潮』に「労働運動と労働文学」というものを書いて、君に対する批評もちょっと書いておいた。『改造』の「お化けを見た話」の中にもちょっと君のことが引合いに出ている。……」

1922 9月10日 『労働運動』7号

<革命の研究4>大杉栄 

<編集室から> 村木の夏のお日様かんかん…栄 

<生死生に答える>大杉栄 

<トロツキーの協同戦線論>大杉栄 

<信越の監獄部屋から> 自由労働者同盟 中浜鐵 

<労農ロシアの最近労働事情>大杉栄 

<利口と馬鹿> 大杉栄

<消息>軍隊宣伝事件 予審中の八君の名 『黒濤』発刊



by tosukina | 2011-09-27 23:17

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