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大杉栄

放浪記で著される東京市内の地名とアナキスト人脈

メモ放浪記で著される東京市内の地名とアナキスト人脈 2004.12

項目末尾の数字は『新版放浪記』1979年発行、新潮社刊≪現在、新刊で流通している新潮文庫は改定版であり頁数が異なる。頁の異動は対照していない。)

萩原さんは萩原恭次郎である。

★印は「市電」に関る記述

第一部 (1930年7月刊行『放浪記』)
新宿の旭町の木賃宿 21
青梅街道の入口の飯屋 23
麹町三年町の伊太利大使館 25
本郷の前の家 26
道玄坂の漬物屋の路地口 28
大久保百人町の派出婦会 34

★新宿の陸橋をわたって、市電に乗ると 34
逢初橋の夜店 41
急いで根津の通りへ出ると 44
★正反対の電車に乗ってしまった私は、寒い上野にしょんぼり自分の影をふんで降りた。44
西郷さんの銅像 44
動坂の町へ出て行った 51
男は市民座と云う小さい素人劇団をつくっていて、滝ノ川の稽古場に毎日通っているのだ 51
★私がやっと店を出た時は、もう一時近くで…市電はとっくになかった。神田から田端までの路のりを思うと… 52
すみませんが田端まで帰るんですけれど 53
四谷の三輪会館 54
田端の家へ帰って来たはずだのに 59

団子坂の静栄さんの下宿へ行ってみた。62

銀座の松月と云うカフエーへ行った。 68
時々田端の駅を通過する電車や… 63
動坂の活動小屋に行ってみた 64

吉祥寺の宮崎光男さんのアメチョコハウスに遊びに行ってみる。 66

兵営の屍室と墓地と病院と、安カフエーに囲まれたこの太子堂の暗い家もあきあきしてしまった。

(隣の壺井夫婦、黒島夫婦遊びに見える68)床屋の二階の飯田さん69

太子堂の縁日 69
久し振りに東京へ出て行った。新潮社で…いつも目をつぶって通る神楽坂も、今日は素敵に楽しい街になって 72
今夜は太子堂のおまつりで 74

萩原さんが遊びにみえる。75

小川町の停留所で四五台の電車を待ったけれど 95
若松町の通りを歩いていると、新宿のカフエーにかえる気もしなかった 126
千駄木の町通りを買物しながら歩いた 145

第二部 (1930年11月刊行『続放浪記』)

新富河岸の橋を曲線しながら、電車は新富座に突きささりそうに朽ちた木橋を渡って行く。坂で降りると、汚い公園が目の前にあった。167
茅場町の交差点から…168

関東大震災
今日こそ十二社に歩いて行こう 177
十二社についた時は日暮れだった。本郷からここまで四里はあるだろう。180
若松町まで来ると…181
順天堂前で降ろされると 181
私が根津の権現様の広場へ帰った時には 182
灘の酒造家より…大阪まで無料にてお乗せいたします。万世橋から乗合の荷馬車に乗って…芝浦までゆられて行った 183
春日町の市場へ行って 198
植物園裏の松田さんの病院へ行った 201
東中野と云うところへ…北原白秋氏の弟さんの家にしては地味なかまえである。206
上野の桜、まだ初々。206
青山の貿易店も、いまは高架線のかなたになった。208
★本郷の追分で降りて 208
(秋田雨雀訪問)
訪問先は秋田雨雀氏のところだった。209
雑司ヶ谷の墓地を抜けて、鬼子母神のそばで番地をさがした。209
一二年前の五月頃、漱石の墓にお参りした事もあった。209
暮れたのでおくって戴く。…私は何か書きたい興奮で、沈黙って江戸川の方へ歩いて行った。210

新宿の以前いた家へ行ってみた。…牛込の男の下宿に寄ってみる。234
四谷までバスに乗る。235
神宮外苑の方へ行く道の… 236
大宗寺で、女給達の健康診断がある日だ。240

(平林たい子との同居)
本郷の酒屋の二階へ孵って行った時は 257
二人で浅草へ来た時は夕方だった。259
銀座裏の奴寿司で腹が出来ると 261
上野の風は痛すぎる。…百瀬さんの家へ行ってみる。266
歩いて池の端から千駄木町に行った。恭ちゃんの家に寄ってみる。がらんどうな家の片隅に、恭ちゃんも節ちゃん喪も凸坊も火鉢にかじりついていた。267

秋声との散歩 
森川町の秋声氏のお宅に行ってみた。…四人は、燕楽軒の横の坂をおりて、梅園と云う待合のようなおしる粉屋へはいる。 272
小石川の紅梅亭と云う寄席に行った。…肴町の裏通りを歩いていた。273
団子坂のエビスで紅茶を呑んでいると。273
団子坂の文房具屋で原稿用紙を一帖買ってかえる。273
湯島天神に行ってみた。279
浅草へ行った。280
私はこの男と田端に家を持った時 282
下谷の家を出ようと思う。283

第三部 1930年当時には発表されていない。
(1947年4月から翌年10月まで『日本小説』に連載。1949年1月刊『放浪記第三部』)

★茅町から上野へ出て、須田町行きの電車に乗る。…銀座へ出て滝山町の朝日新聞に行く。303
「いまのところ、私は立派な無政府主義者を自任している。」305
(蒼馬を見たりと云う題をつけて、詩の原稿を持って行く)
夜、牛込の生田長江と云うひとをたずねる。305
「私はころされた大杉栄が好きなのです。」306
上野広小路のビールのイルミネーションが暗い空に泡を吹いている。307
「夜店が賑やかだ。…古本屋の赤い表紙のクロポトキン…」307
昼から万朝報に行く。316
鍋町の文具屋で 317
浅草に行く。317
十二社の鉛筆工場の水車の音 320
神楽坂に夜店を出しに行く。321
万世橋の駅に行く。323
雨の中を須田町まであるいて、小さいミルクホールへはいる。324
神田の三崎町の 324
新宿までの電車賃をけんやくして、鳴子坂の三好野で焼団子を 328
神楽坂の床屋さんで 329
食堂を出て動坂の講談社に行く、おんぼろほろの板塀のなかにひしめく 331
小石川の博文館へ行く。 332
西片町に出る。…根津へ戻って恭次郎さんの家へ行ってみようと思う。337
■「ダダイズムの詩と云うのが流行っている。」335

■「高橋新吉はいい詩人だな。岡本潤も素敵にいい詩人だな。壺井繁治が黒いルパシカ姿でうなぎの寝床のような下宿住まい、これも善良ムヒな詩人。蜂みたいなだんだらジャケツを着た萩原恭次郎はフランス風の情熱の詩人。そしてみんなムルイに貧しいのは、私と御同様……。」337
根津のゴンゲン様の境内で休む。337
千駄木町へ曲がる角に、小さい時計屋さんがある。恭ちゃんの家の前を通って医専の方へ坂を上ってゆく。338
八重垣町の八百屋で 339
渋谷の百軒店のウーロン茶をのませる家で、詩の展覧会なり。ドン・ザッキと云う面白い人物にあう。 340
道玄坂の古本屋で 342

「いろはと云う牛肉店の女中になろうかと思います」346
夜更けて谷中の墓地の方へ散歩をする。351

(同人雑誌『二人』)
団子坂の友谷静栄んの下宿へ行く。352
帰りの坂道で五十里幸太郎さんに遭う。…動坂へ出て千駄木町の方へ歩く。…逢初から一高の方へ抜けてみる。…燕楽軒の横から曲ってみる。菊富士ホテルと云う所を探す。(宇野浩二訪問)354

寛永寺坂の途中で、恭次郎さんに逢う。…寒い逢初の方へ降りて行ったる恭次郎さんはいい男だな。あの人は嘘を云わない。だけど、私は恭次郎さんの詩は一向に判らない。355
雪が降る寛永寺坂。登りつめると、うぐいすだにの駅にかかつた陸橋。橋を越して合羽橋へ出て…356
浅草の古本屋で 357
駒形のどじょう屋の近く 358
大家さんは宮武骸骨さんと云う人なのだそうだ 369
渋谷へ出て、それから市電で神田へ出てみる…神保町の街通りを見たりして 375
朝の旭町はまるでどろんこの 383
おっかさんを宿へ残して角筈を振り出しに 383
本郷バアでカキフライと、ホワイトライスを一人前 383
旭町へ戻ったのが二時 385
★牛込の肴町で市電を降りて 391
飯田橋まで歩いて 392
横寺町の狭い通りを歩きながら 393
朝、大久保まで使いに行く 394
また牛込へ尋ねてゆく…神楽坂の通りをぶらぶらと歩く 396
ひとりで浅草へ行ってみる。399
夕方新宿へ帰る。 401
今日も南天堂は酔いどれでいっぱい。辻潤の禿頭に口紅がついている。…集まるもの、宮島資夫、五十里幸太郎、片岡鉄兵、渡辺渡、壺井繁治、岡本潤 404
帰り、カゴ町の広い草っ原で蛍が飛んでいた。かえり十二時、白山まで長躯して歩いてかえる。405
本郷森川町の雑誌社へ行く。406
歩いて根津権現裏の萩原恭次郎のところへ行く。…銀座の滝山町まで歩く…時事新報社 407
夜、独りで浅草に行く。412
帰り合羽橋へ抜けて、逢初町の方へ出るところで、辻潤の細君だと云うこじまきよさんに逢う 413
夕方、八重垣町の縫物屋 421
夜、上野の鈴本へ 423
千駄木へ戻って井戸で水を浴びる…長い月日を西片町で暮らしていたような気がする。423
昼近く、読売新聞に行き、…帰り、恭ちゃんのところへ寄る。423
四谷見附から、溜池へ出て、溜池の裏の竜光堂という薬屋の前を通って、豊川いなり前の電車道へ出る。電車道の線路を越して、小間物問屋の横から六本木の通りへ出て、赤坂の連隊が近いのだということで…小学新報社というのが私たちの勤めさき 438
「大正天皇は少々気が変でいらっしゃるのだという事だけれども」440
四谷の駅ではとっぷりと暗くなったので、やぶれかぶれで四谷から夜店を見ながら新宿まで歩く。 440
夜霧のなかに、新宿まで続いた夜店の灯火がきらきらと華やいで見える。…大宗寺にはサアカスがかかっていた。…行けども行けども賑やかな夜店のつづき、よくもこんなに売るものがあると思うほどなり。今日は東中野まで歩いて帰るつもりで、一杯八銭の牛丼を屋台で食べる。441
角筈…新宿駅の高い木橋…鳴子坂…。441
東中野のボックスのような小さい駅へ出て…443
六本木の古本屋で、大杉栄の獄中記と…獄中期はもうぼろぼろなり。444
下谷の根岸に風鈴を買いに行き 453
大久保へ出て、浄水から…新宿まで歩く。…抜け弁天へ出て…余丁町の方へ出て…若松町へ出て…何の為に、こんなとこへまで歩いて来たのかさっぱり判らない。456

メモ・クロニクル
1922年 19歳
尾道から上京、雑司ヶ谷に住む、両親の古着の夜店手伝い、職を転々
1923 20歳
関東大震災にあい、尾道に帰る
1924 21歳
単身上京、近松秋江家の女中、「日本詩人」「文芸戦線」などに詩や童話掲載、田辺若男と田端に住む、南天堂に出入り、7月詩誌「二人」創刊
1925 22歳
野村吉哉と渋谷に住む、世田谷太子堂に移り、壺井繁治夫婦の隣に住む、瀬田に移る
1926 23歳
野村と別れ、本郷の平林たい子と同居、12月本郷大和館で手塚緑敏と結婚
「ちくま日本文学全集・林芙美子」年譜より


草稿・メモ
本郷・駒込アナキズム界隈

新山の墓碑を探す過程で、本郷・駒込という地域がアナキズム運動、
アナキストたちにとって縁が深いことを認識させられた。
 東京の旧芝区の範囲で過ごし、西の世田谷に移り住むという経験の
中で本郷・駒込は私個人にとって「空白」の地域であった。何しろ
実際の東大構内、安田講堂を目にしたのも4,5年前という有様である。
山手線の内側といえば判りやすいかもしれない、少し範囲はずれるが、
江戸の大木戸を基準にすると芝と本郷・駒込は対角線の対を成す。
最も遠い距離であつたのだ。
都電が縦横に走っていた頃ならば品川から上野に行く1番の路線に乗れば
一度の乗り換えで行けただろう。
地下鉄の線が増え、複雑化した近年でもようやくいくらか時間が縮まった
程度である。
そういう認識であり不勉強も含めて、これまで白山上という地名が出ても、
位置関係が曖昧であった。
ようやく、新山初代が住んでいた蓬莱町を探索する過程で、はっきりと
「場所」が見えて、認識できたのである。俄かの本郷・駒込知識で
偏っていることを前提にうけとめて頂きたい。
望月桂さんに関しては小松隆二さんの15年前に刊行された『大正自由人
物語』に全面的に依拠するしている。
五十里幸太郎という存在も、不思議である。運動の周縁で人と人を繋ぐ
役割を為してきたのである。

また下宿家が密集していたこともあり、アナキズム系の詩人たちの生活域
でもあった。一時、「放浪記」の時代の林芙美子も大きな存在を果たし
ていたようだ。萩原恭次郎も意外なアナキストたちとの繋がりを後に発
表した詩や評論の中で垣間見せている。
小野十三郎も交遊がなかったようだが、実際行動のアナキストたち、彼女彼ら
を表現している。
この界隈で有名な「南天堂」は確かに詩人たちを軸にして捉える限りでは
大きな存在であろうが、「へちま」「ゴロニヤ」という短期に終わった「場」
も含め「三角二階」「渡辺宅=北風会」「労働運動社」「望月桂宅」
「新山初代宅」「観月亭」「三宜亭」の存在もアナキストたちが地域の中を
「彷徨」するのに大きな役割を果たしていた。

まず1916年から17年、北風会、労働青年の時代がある。
「三角二階」や「へちま」の時代。
渡辺政太郎、望月桂、久板卯之、五十里幸太郎
大杉栄、伊藤野枝は本郷菊富士ホテル(菊坂)

1923年から1925年を中心に
和田久が福田雅太郎を狙撃したのは、福田が関東大震災直後における、
戒厳令下の現場責任者という理由である。
狙撃は失敗した。菊坂を半分下ると、長泉寺に向う。

古田大次郎は本富士署にエヤー・シップ缶爆弾を投げ込む。
1924年9月3日
1924年7月19日谷中共同便所で試爆

24年はアナキスト詩人たちの南天堂時代
辻潤も出没
黒猫看板おでんや「ゴロニヤ」も流れに乗っている。

蓬莱町18
新山初代は南天堂を訪ねたか不明。萩原恭次郎も蓬莱町に下宿していた。

根津・団子坂
友谷静栄と詩集「二人」を発行
岡本潤は短い時期に友谷静栄と同居
岡本潤は宮島と同行して和田久太郎に面会。宮島資夫全集「月報」での回想。
小野十三郎は5,6年友谷静栄と同居
小野は林芙美子に良い印象は持っていなかった。
「奇妙な本棚」で回想。
萩原恭次郎は詩「市ヶ谷風景」において、古田大次郎を「大ちゃん」と呼ぶ
林芙美子は恭ちゃんと呼ぶ仲、小野のエッセーでは短期同居していたと記述
萩原恭次郎の評論、「学生街は美しい」燕楽軒を特別の場所と匂わせている

駒込がアナキストを呼ぶ
片町の「労働運動社」
近藤憲二
根津の望月桂宅
谷中の「へちま」
五十里幸太郎は全てに通じて存在感を示している。
岡本潤経営
黒猫看板の「ゴロニヤ」おでんや
五十里幸太郎
林芙美子
百瀬晋

前史
「北風会」
1916年7月
望月は久板に紹介されて渡辺政太郎に初めて会う
白山上に向かって坂の途中右手、古本屋
小石川区白山前38 二階六畳間
<寺島珠夫は有明堂としている>
から東片町82番地「三角二階」に移る
1917年後半に渡辺は指ヶ谷町<92番地>に移る
白山上から坂をだいぶ下ったところで途中で左手に
折れた路地の奥、釣堀屋の隣の小さな家であった。
1918年5月17日に亡くなる
1919年3月、研究会は有吉の座談会と合同。
北風会となる。
1922年、渡辺宅に黒瓢会がおかれる

『労働青年』
最後の二号は「へちま」と望月桂宅が
連絡先

『大正自由人物語』小松隆二
1988年8月発行、岩波書店刊行、2600円
望月桂
45頁
3民衆美術の創唱
谷中へちまの閉店
東京お茶の水下、猿楽町で氷水屋をはじめてから4ヵ月たった1916年9月、
望月桂夫妻はその店をたたんで、谷中の善光寺坂に同じ店名で今度は一膳飯屋、
つまり簡易食堂を開業した。
 谷中といえば、寺町。…
弥生町方面から谷中墓地方面に向かって旧都電停留所宮永町交差点をわたると、
ほどなく善光寺坂がはじまる。その緩やかな坂を上りかけたすぐ左手にでてくる
曹洞宗の名刹である。そはの道を隔てた真前がへちまであった。正確な地番は下
谷区谷中坂町21番地。現在の台東区谷中1丁目2番17号にあたる。今もその同じ場
所に、外見こそ違え、ほぼ同じ大きさの二階家が残っている。1944年以来住みつ
いている「クスリの松田」の看板を掲げた松田家の店舗である。


「腹がへってはどうもならん、先づ食ひ給へ飲みたまへ。腹がほんとに出来たなら、
そこでしつかりやりたまえ」
48頁
常連
宮崎安右衛門、久板卯之助、添田唖蝉坊、辻潤、和田久太郎、五十里幸太郎、菊池
暁汀
その日の食べ物も、金もない貧乏社会主義者や労働者がやってきてはツケで飲み食い
をはじめるのだが、そのツケも、踏み倒される方が多くなっていく。
宮崎の連れてきた行き場のない老人に同情したばかりに、一ヶ月も居候をされ、宿と
し三食を無料提供せざるをえない羽目に陥ることもあった。
望月夫妻はといえば、借金に追われ、お客の残飯を食する貧乏生活の毎日であった。

49頁
平民=民衆の生活と美術の関係を考える機会を与えられた。たとえば、まず店にやって
来る自由人、社会主義者からは社会的な目と認識を通して生活や美術を受け止める方法
を少しずつ学んだ。



56頁
1917年2月平民美術研究会
   3月平民美術協会

久板卯之助と望月が中心
毎週日曜にへちまの二階

1917年7月閉店1916年末から17年初めにかけての足跡こそ、日本におけ
る民衆美術運動の最初の第一歩となるものであった。そしてその記念す
べき本拠が、小さいながら、谷中坂町のへちまであった。
時期的には

<アナキズムの時代>
183頁
「地理的にも人間関係の上でも基点になる位置にいたといってもよい」
駒込千駄木町の家には、大杉、近藤憲二、和田久太郎、村木源次郎ら、
彼らとやや傾向の違う宮島資夫、中浜哲、古田大次郎、朴烈、金子文子
ら、また正進会、信友会などの組合員もよく顔を見せた。

久板
25日望月たち三人が湯ヶ島に到着
部落に着いたのは夕方、寝棺に納められていた
この夜火葬
26日遺骨を受け取る、現場確認
27日夜東京に戻る
31日夜神田で告別式、追悼懇談会
2月18日大阪で追悼会村木が参加
6月9日浅草で追悼会
『労働運動』1922年3月3-3追悼特集
石碑建立
久板卯之助終焉の地
1972年頃明美が甦らせる
『労働者』8号1922年2月久板の「美術観」を紹介


小野十三郎は「奇妙な本棚」<賭と恐怖>でアナキストたちの印象を語る。



事実、そのころ、わたしが、直接間接に接した革命運動の闘士(その多くは無政府主義者だが)の中には、対人的に、第一印象としては、そういう不安と恐怖感のごときものをあたえる人が多かった。

 革命的詩人とよばれる者たちのポーズにもわたしはそれを感じた。しかもその恐そうな人たち、あきらかにわたしがそれまで親しみ交わっていた友人知人たちとは異なる精神構造を持っている人間が、わたしにはなんとはかり知れざる魅力を持っていたことか。

 わたしはつとめて彼らに近より、彼らに気に入られるように努力し、そこで自分というものをためしながら、いつかは同志として対等のつきあいができるようになることを念願した。

 略

 大杉は別格として、そのような人物の中で、いまわたしが想い出すのは中浜鉄と古田大次郎である。

 この二人のアナーキストはわたしの出生地大阪にもかんけいがあったにもかかわらず、生前には一度も会ったことがないが、「赤と黒」の仲間などを通じて、彼らの人となりをきいて、なんとなく親しみをおぼえるとともに、当時わたしは、凡そ革命家とよばれる人間の理想的な典型を彼らにおいて見ていた。

 正直に云うが、わたしの頭の中にある革命家のイメージは、いまでも爆弾を抱いたテロリストのそれと、どこかではなれがたく結びついているのだ。

 その意味で、先日見たルネ・クレマンの「生きる歓び」というフランス映画に登場してくる時限爆弾をかかえた二人の髯面の無政府主義のカリカチュアとしても、これは少し大時代すぎたにせよ、単にわたしだけでなく、イタリヤやスペインやフランスなどにおいては、革命と云えば、それは今日でも、テロや爆弾のイメージをよぶ心理的伝統のごときものが抜きがたく存在しているようだ。…………


 岡本潤は詩・「閃光」で同志たちを想起

「真黒い闇の壁が俺達の前を塞いでいる
身をもって壁にぶっつかって行った友は
閃光をのこして闇に呑まれて行った
一人、二人、三人……五人……十人……
闇は吸盤をもって俺達の同志を吸いこんだ。



閃光と共に消えた友の最後の絶叫は俺達の胸にある!
  (和田久太郎君の追悼会の日に)」


小野十三郎は岡本潤を回想

きみの姿を最初に見たのは
あの白山上の大学の教室だった。
……


一枚のペン書きのハガキが眼に浮んだ。
「おもしろかった、この感覚の鋭さは、だが……」
それはきみからはじめてもらった便りだった。
きみは偶然読んだ私の詩をそういう風に批評してくれた。
私が大阪から上京して
本郷通りの路次裏の下宿屋にいたころだ。

文学について語り合う友もなく
大杉の「正義を求める心」や
辻潤の「ですぺら」が唯一の友だったとき
きみのこのハガキにある「だが……」から
私は強い衝撃を受けた。
いま、また、そのときのことを想い出している。

<一夜の回想 岡本潤全詩集に寄せて>



by tosukina | 2006-04-08 19:03

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